ツァラトゥストラはこう語った

最近、二人の知人が自らの命を絶ちました。親しく会話する間柄では無かったのですが・・・
二人は、人生に立ち現われてくる現象だけを見て他の人の生と比較しながら生きていたのかもしれないと考えると、ニーチェの永劫回帰思想、超人思想を紹介してあげたかったと思います。
「ツァラトゥストラはこう語った」は、生きる勇気を湧出させてくれます。いつもの独り言です・・・

ニーチェ・賢い大人になる哲学(宮原浩二郎 著、PHP研究所)より

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二〇・永遠回帰の考え方

・なぜ永遠回帰なのか
ここで、物語の進行を止めて、もう一度確認しておこう。
ツァラトゥストラが永遠回帰の思想に目覚めたのはなぜだろうか。
それは、人間をそのとり返しのつかない過去への復讐心から解放するためである。
時の流れに復讐できない腹いせに、他人や自分を責め苦しませる悪習から、人間を自由にするためである。
自分の不幸や絶望を誰かのせいにして、その誰かを責めさいなむという悪習を絶つためである。
死ねば天国に行けるとか、いつか誰かが救ってくれるとかいう、他人まかせの依存心から脱出して、人が自分自身の人生の主人になれるようにするためである。
生きるよろこびを深く深く味わい、この人生を何度も何度もくり返し生きたいと思えるようにするためである。
踊り、笑い、歌いながら、身も心も軽快に生さることを可能にするためである。
つまり、究極の救いをもたらすためである。
そのために是非とも必要なのが、永遠回帰を識ることなのである。

・永遠回帰を識るための二つのステップ
では、永遠回帰を識るとは、どういうことなのだろうか。
物語は今まさにその場面にさしかかっている。
ここで再び、簡単な道しるべを置いておこう。
できるだけ自分にひきつけて考えてみてほしい。
永遠回帰の思想を自分のものにするためには、二つのステップを踏む必要がある。
まず、第一のステップ。
「私は、私のこれまでの人生をそっくりそのまま何度もくり返し生きることになる」と考えてみる。
つまり「これまでの人生が永遠に回帰する」と考えてみる。
すると、「私の人生は今現実にあるがままの人生であり、今とは別の人生など未来永遠にわたってありえない」ということになる。
つまり「この現実からの逃げ道はどこにも絶対にありえない」ということになる。
これが科学的に真理かどうかは、どうでもよい。
とにかく、そういうものなのだと徹底的に本気で思い込んでみる。
それができたら、今度は第二のステップ。
これまでの人生がそっくりそのまま永遠に戻ってくるだけで、この現実からの逃げ道はどこにもないものとして、「私はそうした永遠回帰に不満はないか?」と自分に問いかけてみる。
そしてさらに、「私は永遠回帰を喜んで欲するか?この人生を未来永遠にわたってそっくりそのままくり返したいと思えるか?」と問いかけてみる。
この問いかけに対して腹の底から「イエス!」と言えたら、その時人は永遠回帰思想を消化したことになる。
いいかえれば、「超人」になる!
けれども、これは簡単なことではない。
この人生がそのまま回帰するのなら、もう二度と来てほしくない苦悩や苦痛も、やはりそのまま回帰することになる。
とり返しのつかない残酷な過去をこれからまた無限に経験しなければならない。
それを知っていて、「イエス!」と言い切るのは難しい。
また、恐ろしい。
実際、ツァラトゥストラもこの難問を前にして七転八倒の苦労をする。
「イエス!」を言いかけては、ためらい、しり込みし、絶望に襲われる。

・あらゆる苦悩に「イエス!」を言う
物語の次の場面では、ツァラトゥストラの幻覚に「瞬間」という名の門が出てくる。
この門の前で、ツァラトゥストラは時間の循環に思いをめぐらす。
時の流れは大きな円を描いてぐるぐるまわっているのではないか?
だから、あらゆる出来事は永遠に回帰するのではないか?
自分のこの人生もまた永遠回帰するのではないか、と彼は考える。
これが、第一のステップである。
すると場面が急転し、恐怖に顔をゆがめ、のたうちまわる若者が現れる。
若者の口からは黒くて太い蛇が垂れ下がっている。
若者は最後に蛇の頭を噛み切って立ち上がる。
この蛇は苦悩の永遠回帰を受け入れることの恐怖であり、蛇の頭を噛み切ることは、この恐怖に打ち勝つことである。
彼は永遠回帰に「イエス!」を言ったのだ。
が、これもまだ幻覚にすぎない。
ツァラトゥストラ自身はまだそこまで強くない。
まだ十分に成熟していない。
蛇を噛み切った若者の幻覚は、ツァラトゥストラ自身がやがて永遠回帰を肯定するための、第二のステップのためのイメージトレーニングである。
その後、このイメージをしっかりと胸に抱きながら、ツァラトゥストラは旅を続ける。
島々をめぐり、町々を通りながら、人々に語りかける。
長い旅を終え、鷲と蛇の待つ洞穴に帰ってしばらくすると、最後の決戦の時が来る。
そして彼は勝利する。
ツァラトゥストラ自身が万物の永遠回帰に、そしてこの自分の人生の永遠回帰に対して腹の底から「イエス!」を言えるようになる。
その時、第二のステップが完了する・・・。

二一・時間の円環

・時はぐるぐるまわっている
さて、物語に戻ろう。
反撃をくらった小びと(重力の魔) はツァラトゥストラの肩から飛びおり、道端の石に腰かけた。
ふと気づくと、二人のいる場所には「瞬間」という名が刻まれた門がある。
道は門を通って前方の未来へ永遠に延びている。
また、門の手前から後方の過去へ永遠に続いている。

『ぼくたちの佇(たたず)んだところにちょうど門があり道が通じていた
「この門を通る道を見るがいい! 小びとよ」とぼくは言いつづけた
この長い道をもどれば永遠に果てしがない
またあちらの長い道を出て行けばそこにも別の永遠がある
そしてこの門のところこそかれらがまさにぶつかっている場所なのだ
門の名は上に掲げられている――「瞬間」と』

この門を見て、ツァラトゥストラは考える。
この未来へ延びた道は、どこかで過去の道へつながっているのではないか。
また、過去へ延びた道も、どこかで未来の道につながっているのではないか。
つまり、道は一つの環になっているのではないか。
時の流れは一つの環をなし、過去はかつて未来であったものであり、未来はかつて過去であったものなのではないか。
いまこの門に入った人は、かつてこの同じ門に入って来たのではないか。
いいかえれば、この瞬間に起きているのと同じことが、かつて起きていたのではないか。
かつて起きていたのではないか。また、この瞬間に起きているのと同じことが、これからもまた起きるのではないか。
そして、この瞬間そのものが、かつて何度もあり、これからも何度もあるのではないか。
この瞬間は、他の無数の瞬間とともに、時間の円環をつくっている。
どの一つの瞬間をとってみても、他の無数の瞬間と円を描いて結ばれている。
そして、あらゆる出来事は、この時間の円環のなかで固くむすばれている。
ツァラトゥストラは続ける。

『およそ走りうるすべてのものは
すでに一度この道を走ったことがあるのではなかろうか?
およそ起こりうるすべてのことはすでに一度起こり行なわれ
この道を走ったことがあるのではなかろうか?
すでにすべてのことがあったとすれば
この門もまたすでにあったのではなかろうか?
そして一切の事物は固く連結されているので
この瞬間はこれからくるはずのすべてのものを
ひきつれているのではなかろうか?
したがって――自分自身をも?』

・苦痛も永遠にくり返し戻ってくる
「瞬間」の門の前に立つツァラトゥストラも、かつてここに立ったのであり、これからも立つだろう。
何もかも、すでに今と同じに存在していたのであり、これからもまた今と同じに存在するだろう。
人はみな、すでにあった人生をくり返しているのであり、これからもまたくり返すだろう。
いや、くり返さなければならない。
たとえば、今この本を読んでいる、この瞬間も永遠にもどってくる。
きみはそう言われても、怖くはないだろう。
この本を楽しみながら読んでいるはずだから。
むしろ、この瞬間の永遠回帰をよろこぶにちがいない。
けれども、永遠回帰には恐ろしい一面がある。
なぜなら、戻ってくるのはこの瞬間だけではないからだ。
きみのこれまでの人生のあらゆる瞬間が、この瞬間に引き連れられて戻ってくる。
そのなかには、死にたいほどの苦痛の瞬間もあるだろう。
もう二度と来て欲しくない沈痛な、醜悪な、悲惨な瞬間もあるだろう。
そうした最悪の瞬間もまた、このいまの瞬間に引き連れられて、戻ってくる。
きみはそうした瞬間も未来永劫にわたって無限にくりかえし生きなければならない。
そう言われたら、さすがのきみも怖くはならないだろうか?

『ここに月光をあびてのろのろ這っている蜘株
この月光そのもの そして門のほとりで永遠の問題について
ささやきかわしているぼくとおまえ
――ぼくたちはみなすでにいつか存在したことがあるのではなかろうか?
そしてまためぐり戻ってきて
あの向こうへ延びているもう一つの道
あの長い恐ろしい道を走らなければならないのではなかろうか
――ぼくたちは永遠にわたってめぐり戻ってこなければ
ならないのではなかろうか?』

こう語りながらツァラトゥストラの声はしだいに低くなっていく。
自分自身の言葉に恐怖をおぼえたからだ。
しかも、彼一人だけの問題ではない。
ツァラトゥストラの仕事は、小さな人間をふるいにかけ、大きな人間を育てることにある。
超人を育成することが彼の仕事である。
が、永遠回帰の教えに従えば、ツァラトゥストラがいくら超人を育てたところで、小さな人間は永遠に戻ってくることになる。
陰険な羊飼いの独裁者が、卑屈な奴隷根性の民が、逆向きの障害者が、ありとあらゆる小さな人間が永遠にくりかえし戻ってくる。
それならば、すべては無駄ではないだろうか。
何をやっても徒労におわるのではないか。
あの疲労と倦怠の予言者が語っていた「すべてはむなしい。すべては同じことだ」という教えと、いったいどこが違うのか。
ひょっとしたら、あの予言はツァラトゥストラのことをいっているのではないか?
自分の教えは、結局のところ、生きることへの嫌悪に帰着してしまうのではないか?
ツァラトゥストラの足もとに、鉛色をした虚無がぽっかり口をあけている。
底知れない深淵が口をあけている。
ツァラトゥストラは、自分の言葉が連れてくる深い虚無に気づき、背筋の寒くなるような恐怖をおぼえたのだ。

二二・超人誕生のイメージ

・苦しみだけでなく悦びがある
しかし、ここで光景が一転する。
ツァラトゥストラは依然として幻覚を見ている。
が、小びとと「瞬間」の門が消え、一人の若者の姿があらわれる。
若者は顔をゆがめて地面をのたうちまわっている。

『一人の若い牧人がのたうちまわり
息をつまらせ痙攣をおこし顔をゆがめて
苦しんでいるのをぼくは見た
その口からは一匹の黒くて重たい蛇が垂れさがっていた
これほどの嫌悪の情と蒼白の恐怖が
人間の顔にあらわれたのをぼくは見たことがなかった
牧人はおそらく眠っていたのだ
そこへ蛇が来て喉に這いこみ――しかと噛みついたのだ』

この幻覚は一つの比喩であり、また、未来の予感でもある。
とぐろを巻く蛇という動物は、永遠回帰の円環を思わせる。
だから、その黒くて重いさまは、永遠回帰のもつ重苦しい暗黒面を示している。
永遠回帰の教えによれば、人がそれまで体験した出来事はすべてそっくりそのまま戻ってくる。
沈痛な、悲惨な、醜悪な苦悩の体験が何度もくりかえされる。
あの無数の小さな人間たちもそのままに戻ってくる。
すると、何をしても無駄であり、人生は無意味な徒労にすぎないと思われてくる。
「すべては同じことだ。すべては無駄だ」と思われてくる。
永遠回帰は生存への嫌悪を誘発する。
ツァラトゥストラが小びとに語りながら自分の言葉が恐くなったのは、永遠回帰思想が誘発する生存への嫌悪に気づいたからだ。
黒くて重い蛇は、この生存への嫌悪を象徴している。

『ぼくの手は蛇をつかんで思いきり引きに引いた
――その甲斐はなかった!
ぼくはわれを忘れてそのとき絶叫した
「噛むんだ!噛むんだ!」
「頭を噛み切るんだ!噛むんだ!」
ぼくの恐怖 ぼくの憎悪
ぼくの嘔吐 ぼくの憐憫
ぼくの善意と悪意の何もかもが
ただ一つの絶叫となってほとばしった
しかし 牧人はぼくの絶叫のとおりに噛んだ
力強く噛んだ!』

若い牧人はツァラトゥストラの全身の叫びにこたえて、蛇の頭を噛みきる。
永遠回帰の暗黒面である生存への嫌悪を噛みきる。
そのとき彼は、真の意味で生存を肯定し、永遠回帰を肯定する。
自分の人生が、また、あらゆる事物や出来事が永遠にくりかえし戻ってくることに対して、身をもって「イエス!」と言い切ったのだ。
いっそ死んでしまいたいような絶望的な瞬間を、何度もくりかえし生きなければならない。
醜悪な奴隷根性をもつ小さな人間たちも何度も戻ってくる。
それを認めてなお、どうして生存への嫌悪を振り切れるのか。
どうして、別の人生や世界を夢見たり、深い諦観のなかに沈んだりしないでいられるのか。
どうして、「もう一度!」と喜び勇んで永遠回帰を肯定できるのだろうか?
人生には、苦しみだけでなく、悦びがある。
永遠回帰の教えによれば、苦悩だけでなく、よろこびもまた永遠に回帰する。
ほんとうは、苦悩とよろこびは組になっているのだ。
どちらかが欠けると、もう一方もない。
すべては緊密に結ばれている。
すべては互いに愛しあっている。
だから、よろこびを肯定すれば、苦悩をも肯定したことになる。

『かれは蛇の頭を遠くへ吐きだした
――そして飛びおきた
もはや牧人ではなかった
もはや人間ではなかった
一人の変容した者
光につつまれた者であった
そして哄笑(こうしょう)した
これまでこの地上でかれが哄笑したように
これほど哄笑した人間はなかった!』

・永遠回帰を肯定したとき、人は超人になる
存在の車輸をまわらせる原動力は、よろこびである。
苦しみではない。
身をもってそれを知るとき、はじめて人は自己自身の主人となる。
なぜなら、自己自身の永遠回帰を欲するのはよろこびだけだからだ。
よろこびは、「もう一度」「もう一度」と自己自身の回帰を欲する。
よろこびが深ければ深いほど、回帰を強く、より強く欲する。
よろこびの深さとその自己充足を身をもって知るとき、人は自己自身の主人となる。
永遠回帰を真に肯定するとき、人は超人になる。

ぼくはいかなる人間の哄笑でもない哄笑を聞いた
いまや決して鎮(しず)まることのない
ひとつのあこがれがぼくの心を蝕む
この哄笑へのあこがれがぽくの心を蝕む
どうしてぼくはおめおめと生きて行くことに堪えられよう!
また いまにして死ぬことにも堪えられるだろう!』

若い牧人は噛みきった蛇の頭を吐き出して飛び起きる。
そして、呵々と一笑する。
この哄笑はもはや人間のものではない。
光につつまれたその姿を目にし、かつてない笑いを耳にしたツァラトゥストラは、もう後戻りできない。
超人への憧れに身が灼(や)かれそうな思いがする。
足踏みし後ずさりながら生きのびること、それにはもう耐えられない。
いまやもう、前進あるのみだ。

二三・偶然の足で踊る

・目的や必要にしばられない自由
ツァラトゥストラは今、永遠回帰の思想をはっきりと認識している。
だが、それを自分のこととして肯定できるかと考えると、さすがのツァラトゥストラも逡巡する。
永遠回帰を肯定しようとすれば、自分自身が砕け散ってしまうのではないか。
自分はまだそこまで十分に強くないのではないか。
弱気になったツァラトゥストラはしばし感傷にふけりながら、深淵の入り口に立ちすくむ。
が、遠い未知の世界を旅する海の冒険野郎たちに囲まれて、ツァラトゥストラはふたたび元気づく。
雲一つない空と紺碧の海の間に身をおく幸福に感謝しながら、彼はふたたび雄弁になる。

『「偶然」――これはこの世で最も古い貴族の称号である
これをぼくは万物に取りもどしてやった
およそ目的にしばられた奴隷制から救いだしてやった
およそ万物を支配し動かしている
神的な「永遠の意志」などはありえないと
ぼくが教えたことによって』

晴れやかな天空に棲む神々は、サイコロ遊びを好む。
ツァラトゥストラは、「偶然」こそ高貴であり、最古の貴族の名なのだと言う。
人間は何かのために生きている、万物は何かの目的によって動かされている、などという人がいる。
これは、せこい考えである。
そう考えると、人間(や動物や植物や鉱物)はすべて「目的に縛られた奴隷」になってしまう。
あらゆる「〜のために」をやめにしよう。
万物を支配する永遠の神の意志などないのだ。
万物を偶然の足で踊るにまかせよう、とツァラトゥストラは言う。

『そうした意志のかわりに
ぼくはあの騎りと狂愚を置いた
知恵が万物に混入されているのは狂愚に役立つためだ!
ぼくが万物において見いだした確実な幸福は
万物がむしろ偶然の足で
踊ることを好むということにある』

この世に狂愚があるのは理性に役立つからだと考える。
しかし、ほんとうは逆なのだ。
むしろ狂愚のほうがメインディッシュであり、理性はその味をひきたたせるスパイスのようなものである。
「よく学ぶためによく遊ぶ」のではない。
「よく学ぶと遊びの味がひきたつ」のである。
ツァラトゥストラは、サイコロの飛び交う偶然だらけの世界に、ある必然的な幸福を見いだす。
この世界では、あらゆるものが偶然の足で踊りたがる。
「目的」とか「必要」とか「規定」とか、うるさいことをいわなければ、万物は偶然の足で踊りだすだろう。
それは美しい舞踏場であり、至福の光景である。

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