達人のサイエンス 第8章 思いの力

達人のサイエンス 第8章 思いの力

著者ジョージ・レナードは
1953から1970年まで「ルック」誌の編集局次長をつとめ、アメリカの教育問題に関するレポートで多くの賞を受賞。
合気道四段の腕前を持ち、カリフォルニア州ミルヴァレーで「タマルペイス合気道道場」を主宰、指導にあたる。

人生のあらゆる局面に、マスタリー(達人の境地)への道がある
人生の意味はクライマックスの瞬間ではなく、終りなき実践の中にある
マスタリーの領域では、精神と身体は一つの美しい融合を遂げる
現代文明はマスタリーの道に反している
人はエネルギーを使うことによってエネルギーを得る
肉体は、日常の諸問題との取り組み方のメタファーである
運命の一打からさえも、人はエネルギーを得ることができる
達人とは「永遠の初心者」のことである

―書籍カバーより

「思いの力」のさまざまな訓練法

今日までにスポーツにおけるトレーニング法とその技術は実に大きな発展を遂げ、もう改善の余地がほとんどないのでは、と思えるほどだ。
ニクラウスが、スイングはショットの成功に一割しか寄与しないと言えたのは、彼のスイングがほとんど完壁の域に達していたからだろう。
しかし心や精神の王国はいまだ未踏の領野であり、おそらくスポーツの技能において、この分野に最初に参入する者は途方もない成果を得ることになろう。
このチャンスを生かそうとトップランクのチームや選手たちは、スポーツ心理学者を雇ってリラックス法や自信開発法、また特定のプレイや動きのメンタル・リハーサルの指導を受けるようになった。
そしてメンタルゲーム用のビデオやカセットが、そうした心理学者を雇うだけの経済的余裕がないスポーツ選手向けに発売されるようになった。
テープによっては、そのメッセージはあまり洗練されているとはいえないものもある。
たとえば、マインドコミュニケーション社ではサブリミナル(閾下)のカセットテープを販売している。
これは、波の音や心地よい音を背景に、通常では知覚できない音量で特定の言葉やセンテンスが吹き込まれているというものだ。
フットボールのサブリミナル・テープを例にとってみよう。
「私は自分のプレイの素晴らしさを知っている。私はチームに欠かせない選手だ。期待に恥じないプレイができる。私は走るのが大好きだ。私はリラックスしている。私はウエイトで体を鍛える。私はボールを素早くパスする。砂糖やコーヒー、アルコールはとらないし、たばこも吸わない。相手とぶつかり合うのが大好きだ。私の目標は決まっている。私は練習が大好きだ。私の腕はすばらしい。マークした選手を倒すことができる。追え!追え!私の呼吸は深く、乱れない。私は勝利者だ。」
こういうメッセージがフットボール選手にどういう効果をもたらすかについての研究は、まだ何もない。
(中略)
私の場合は合気道の道場での実際の体験から、イメージングには驚くべきパワーがあるという明らかな証拠を得ている。
個々の伝統を持つ武道では動作のメカニズムにともなう多くのメタファー(隠喩)とイメージを用いており、まさしく心あるいは精神という目に見えない世界から強靭な肉体的効果が現れるのである。
「二教」(手首締め・合気道の基本技〉の一つの型を例にとると、敵に手首をつかまれた時、つかまれたその手を逆に敵の手首に巻きつけ、敵の手を離さないようにしてある角度で下におろす。
確実に行なえばこれだけの技で自分より強く大きな敵を自分の膝あたりまで引きずり下ろすことができる。
二教はたんに力学の応用として行なっても可能だろうが、その場合は相当大きな筋力がなければ無理だろう。
だが「統計的に有意」という程度にとどまらず、本当に驚くべきレベルまでその効果を上げるイメージング戦略がある。
私は生徒に次のように指導している。
先ずつかまれた方の手を、指を広げたまま敵の手首の上にまわす。
そして自分の手首は意識せずに、それぞれの指がレーザー光線のように伸びていきながら、それらが敵の顔面を貫いて頭蓋骨の底部に達するようイメージする。
次にイメージで伸ばしたそれらの指を、敵の背骨をたどってゆっくり下ろす。
各人がすべて同じようにやっても、その技が決まるかどうかはありありとしたイメージをどれだけ描けるかにかかっている。
私の合気道の経験からすると、イメージを描いた場合の技は筋力だけの場合よりもはるかに効果的であり、力を入れた感覚がないのに相手はあっけにとられたかのように、目にも止まらぬ勢いでバッと崩れおちることがある。

真の実在とは何か

力学的な作用のみの場合と、イメージを加えた作用との違いをどう説明すればよいのだろうか?
魔法のように伸びだ指は、イメージによる虚構にすぎないのだろうか?
あるいはなにか「現実的な」ものなのだろうか?

いちばん簡単な説明は、伸びた指を敵の背骨にそって下ろしていくイメージは合気道家が二教を行なう際の適当なガイドにすぎない、という力学的な説明である。
イメージはたしかにそうした役目もはたしている。
しかし長年の経験から、私はそこにはきっと単なるガイド以上のものがあると思う。
私の頭の論理的な部分は、敵の体を貫通し背骨まで届く一メートルもの指など、俺の手についているものかとささやく。
しかしやはり、心にありありとしたイメージが湧き、自分の指が敵の背骨を下りていくように「感じた」場合にかぎって、特に力を加えずとも不思議に技が決まるのだ。

ここで問題になるのは、何がほんとうの「実在」なのかということだ。
行動主義の心理学者B・F・スキナーが言うように、意識とは単なる付随現象にすぎないのだろうか?
それとも詩人ウィリアム・ブレイクが言ったように、精神的なものだけが実在なのだろうか?
それとも精神的な創造物も、物質としての物も、実在のレベルは違うとしても両者ともに実在なのだろうか?
もしそうなら、この二つのレベルはどうやって相互作用するのだろうか?
この問題は、とても本書のような薄い本では説明できない。
分厚い本を書いても難しいだろう。
それでもやはり、思考、イメージ、感情はまぎれもなく実在であって、物質とエネルギーの世界に確かに大きな影響を及ぼしているのだ、と言い切ってかまわないだろう。

現に、純粋な情報は物質的なものよりもはるかに持続的なものだといえる。
あるいは、思考の世界と物質界とはその本質が同じものかもしれない。
天文学者サー・ジェームズ・ジーンズは次のように述べている。
「宇宙は巨大な機械というより、むしろ巨大な思考体のような姿を見せつつある。」
たとえば、ソロモンの寺院はもう木や石や金という形では残っていないし、またどこを捜してもそういうものは発見できない。
にもかかわらず、聖書の「列王紀上」の六、七章を読むと、そのイメージが心の中に細部まで鮮明に浮かび上がってくる。
スカーレット・オハラにしろアンナ・カレーニナにしろ実在の人物ではないのに、あなたは自分の隣人より彼女らのほうをよく知っているかもしれない。

また、ポータブル・ラジオは現実の中に存在し、手でさわって確かめることができる。
しかしそのラジオの回路図もまた実在であり、設計者の頭に浮かんだイメージも同様に実在しているのだ。
ではどれが、よりほんとうの実在なのだろうか?
これはきわめて難しい問題だ。
各部品の抽象的関係としての基本構造はこれらの三者においてすべて同じだとしても、やはりこの中で抽象度がいちばん高いものが、最も基本的で永続的なものといえるはずだ。
手に持ったラジオより、設計図という頭の中のイメージのほうが、永続的なのである。
しかも、このように物質的でない形態のほうがより有用だ。
なぜなら各部品間の配線を変更したい場合、回路図を書きかえるか頭の中で考え直すほうが、実際の三次元のラジオで変更するよりずっと簡単だからだ。

思考から現実への変換

この場合、「思いの力」が果たす役割とは何か?
それは思考の実体を創造することに関わっているのみならず、その創造した実体を思考形態から現実の形態に変換することも行なっているはずだ。
実は、こうした種類の変換はマスタリーのプロセスに深く関わっている。
私はときどき学生に対し、特定の投げ技について、そのビジョンや感覚を新しく心にイメージさせた上で一時間以上みっちり練習させている。
彼らがやがて汗だくになる頃には、その投げ技についての古い思考や感情は、新しくイメージしたビジョンによって一掃されてしまっている。
このように「思いの力」を使えば、三次元という現実の武道の世界では有意義な成果が得られることが多い。
思考、イメージ、感情は、実際ひじょうに現実的なものである。
「エネルギーは質量(M)に光速(C)の自乗をかけたもの」というアインシュタインの理論は、巨大なパワーの解放を現実のものとした。
このアインシュタインの思考が熱や衝撃となって現実に変換されるまでには、かなりの努力と時間が必要だった。
この場合もたしかに、思考、ビジョン、思いの力のほうが先であったのだ。
(中略)
思いの力は達人の旅にとってエネルギー源となる。
すべての達人は、ビジョンを思い浮かべる達人なのだ。

『達人のサイエンス』(日本教文社 刊)

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