現実(リアリティ)の本質

現実(リアリティ)とは何でしょうか?
「出来事」(事象・物象)でしょうか?

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観念・情緒・態度の無条件反応
1.「出来事」を「観念」(分離のイロメガネ)がとらえる
2.「観念」に付随する思念が出来事を判断・思考して「感情」を現出させる
3.「感情」が「態度」として表明され「観念」を裏付ける

この反応は、私たちの生きる「現象界」では恰(あたか)も時系列に従ったビリヤードの玉付きの如くに順々と生起する様に感得されますが、「実在界」では「同時」に発生します。
ここで云う「同時」という概念は、私たちの「現象界」で捉えられる「瞬時」というものとは違います。
時間枠が無い「実在界」におけるところの「同時」です。

つまり、上の「観念・情緒・態度の無条件反応」には実の所、順序性はありません。

ということで、上の反応は「現象界」的には次の様に著わすことも出来ます。
1.あなたのハートに「情緒」が湧き上がる(フィーリングが直感される)
2.湧き上がった「情緒」が「観念」フィルターを通り、それ(観念)に従った「出来事」が投影される
3.「出来事」に対して、「態度」を生起させて「情緒」を裏付ける

順序は如何様に代えることも可能です。
「実在界」では全てが同時に生起しているのですから。

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さて、再び問います。
真の現実(リアリティ)とは何でしょうか?

どうも娑婆は、生起してくる「出来事」であると信じさせ様としている様です。
あなた様も大人しく騙されて、そうお考えでしょうか?

?????

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真の現実(リアリティ)とは「情緒」です。
(人によっては、真の現実は「感情」です。)

・情緒とは、体験を通してハートが感じるフィーリング、気付きがもたらす風
・感情とは、観念(テレビ)に紐づけられた思考が生み出すマインドのさざ波(観念はテレビと全く同義語です)

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私たちには全く未知の「情緒」が「実在界」には無限に在ります。

例えば・・・・
道行く見知らぬ子どもたちの一団が、実は「私」の息子や娘であると悟った時
売り上げ未達の私に罵詈雑言を浴びせてくる上司が、実は「私」自身であると気付いた時
公園で乳飲み子を慈しむ母親が、実は「私」の母親でもあると識(し)った時
野に咲く菜の花に潔さをフィーリングした時
道端にうずくまるホームレスの方が、「私」であると直感した時・・・・
(どうして私が彼では無いと言えるのですか?どうして彼が私では無いと言えるのですか?)

こうした契機・・・・

今はまだ私たちには「未知」である「情緒」が感得された時、
そして「情緒体験」こそが真のリアリティであると悟った時に、
その「情緒」に相応しい「出来事」が「現象界」に生起してきます。
(出来事は、現象界では時間のフレームに従って顕現されます。)
その「出来事」は私たちにとって「未知」の事象・物象です。

「情緒」という現実(リアリティ)、その「未知」の扉を開くとき、「未知」なる事象・物象が生起します。

ラムサの至上命題「未知を既知にせよ」の真意は、
「未知の情緒を体験せと」ということなのです。

私たちはこうして新たな天界への扉を開き続けていきます。
その未知なる天界への扉は無限に続いているのです。

ラムサ
――私は至福の天界の色々なことをあなたに伝えた。
しかし実は、そうしたことはあなたには必要も無いことなのだ。
何故なら至福の天界は、あなたの想像を遥かに超えた場所なのだ。
あなたには到底、想像することは出来ない。
あなたの想像を絶する天界が有るということ、そして、あなたはいずれそこへ行く、そのことだけは知っておくべきだ。

 

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