全ては神の物

ポリネシア西サモアのウボル島ティアペ村の酋長ツイアビは、利発で穏やかな親切そうな大男。
願いがかなってヨーロッパの国々を回り、サモアの人々にパパラギ(白人)のことを知らせようとした。
しかし酋長ツイアビは、彼の先祖が西洋文明を迎え入れたことを後悔し、西洋文明を軽蔑するに至る。
酋長ツイアビは、西洋文明に何を見たのか。

鋭く冷静な、先入観に捕らわれない観察力。
酋長ツイアビはあらゆるものの真理を見抜いていく。
「君たちは、我々に光を持って来ると言うが、本当は違う。
君たちは我々を暗闇に引き込もうとしている。」

パパラギとは白人のこと、見知らぬ人のこと
でも 言葉どおりに訳せば、天を破って現れた人

はじめてサモアに来た白人の宣教師が、白い帆舟(ほぶね)に乗っていた
遠くに浮かぶ白い帆船(ほぶね)を見て、島の人たちは それを天の穴だと思った
白人がその穴を通って彼らの所へやって来た  ――パパラギは天を破って現れた



―――――――

パパラギ(白人)は一種特別な、そして最高にこんがらがった考え方をする。

彼はいつでも、どうしたら或るものが自分の役に立つか、そしてどうしたらそれが自分の権利になるかと考える。
それもたいてい、只一人だけのためであり、みんなのためではない。
この一人というのは、自分自身のことである。

もし、ある男がこう言うとする。
「俺の頭は俺のもので、俺以外の誰の物でもない。」
それはそうなのだ。
確かにそのとおりだ。
それについて誰も文句を言える者はない。
手の持ち主以上に、その手の権利を持っている者はない。
ここまでならパパラギは正しいと思う。

だがその先、ハパラギはこうも言う。
「このヤシは俺の物だ。」

何故かというと、ヤシがそのパパラギの小屋の前に生えているから。
まるでヤシの木を、自分で生やしでもしたかのように。
ヤシは、決して誰の物でもない。
決してそうではない。

ヤシは、大地から私たちに向かって差し伸べたもうた神の手だ。
神はたくさんの手を持っておられる。
どの木も、どの花も、どの草も、海も空も、空の雲も、すべてこれらは神の手である。

私たちにはその手を握って喜ぶことは許される。
だがしかし、こう言ってはならない。
「神の手は俺の手だ」

しかしパパラギはそう言うのだ。

私たちの言葉に「ラウ」というのがある。
「私の」という意味であり、同様に「お前の」という意味でもある。
二つはほとんど一つであり、同じ意味である。

だがパバラギの言葉には、この「私の」と「お前の」以上に、違いの大きな言葉はほとんどない。
「私の」とは、ただ私一人、私だけの物である。
「お前の」とは、ただお前一人、お前だけの物である。

それゆえパパラギは、自分の小屋の範囲にある物を、全て俺の物だと言う。
誰もそれには権利がないと言う。
彼の他、誰も。

もしお前がパパラギの所へ行き、何かそこに有るものを見るとすれば、それが果物だろうと、木だろうと、水だろうと、森だろうと、たとえひと塊りの土だろうといつも誰かがそばに立っていて言う。
「これは俺の物だ。気をつけろ、俺の物に手を出すな。」

にもかかわらずお前が手に取ろうものなら、彼はわめき、お前を泥棒と呼ぶ。
これは非常に不名誉な言葉なのだが、ただお前が隣人の「私の物」にちょっとさわってみただけで、こんな呼び方をされてしまう。
彼の友だちや、大酋長の家来たちが急いでやって来て、お前を鎖につなぎ、ファーレ・プイプイ(刑務所・牢屋)に入れてしまう。
そしてお前はもう一生のあいだ爪はじきにされる。

そこで、ある人が「これは俺の物だ」と宣言した物に、ほかの人が手を出さないよう、これは誰の物、これはそうでは無い、ということが特別の掟によってきっちりと決められている。
そのうえヨーロッパには、誰もこの掟を破らないよう、専門に見張りをしている人たちがいる。
この人たちは、パパラギの物が、何ひとつ取られてしまわないように見張っている。
それはパパラギが、よそから自分で取ってきた物だが。

パパラギはこうする事によって、神の財産を、神から永遠に譲り受けたという権利を、まるで自分が手に入れているかの様に見せ掛ける。
ヤシも木も花も、海も空も、そして空ゆく雲も、本当に自分の物になったかの様に。

パパラギが、自分のたくさんの「俺の物」の為に掟(おきて)を作り、番人を持たねばならないのは、「俺の物」をほんの少ししか持っていない人たち、あるいは全く持っていない人たちが、彼の「俺の物」を持って行ったりしないようにする為でもある。
それというのも、たくさん自分の物にする人がたくさんいるとすれば、何も持っていない人もまた、たくさんいるということだ。
「俺の物」がたくさん集まってくる魔法やまじないを、誰もが知っている訳ではないし、「俺の物」を集めるのは、一種特別の勇気がいることだ。

私たちが名誉と呼ぶもの、それと必ずしも手をつないでいなくても良いという勇気。
そんな、とんでもない勇気をパパラギは持っている。

神様を困らせたり、神様の物を取り上げたりしたくない為、自分ではほとんど何も持っていない人もいる。
こういう人たちは、パパラギの中では一番いい人だと言ってもいいだろう。
けれどもそういう人は、確かに、そうはいない。

たいていの者は、恥ずかしげもなく神の物を盗んでいる。
他にすることを知らないのだ。

何か悪いことをしているのだという気は、ほとんど全く無いようだ。
みんながそうしているし、全く気にはしていないし、誰も恥ずかしいとは思わないからである。

父親からたくさんの「俺の物」をもらって生まれてくる人も多い。
とにかく、パパラギの神様はもうほとんど何も持っていない。
人間がみんな盗んでしまって、俺の物とお前の物とに分けてしまった。

みんなの物と定めて造りたもうた太陽を、神はもう、みんなに平等に分ける事ができない。
みんながみんな、人よりたくさんの太陽を要求するからである。
大きくてきれいな日当たりに、ほんの少しの人が日なたぼっこをしているかと思うと、たくさんの人が日陰で哀れな日射しをあびている。

パパラギの神様はもはや、その大いなる住処(すみか)の最高のアリイ・シリ(支配者)ではなくなり、もはや本当の喜びを失ってしまわれた。

パパラギはこう言うことによって、神を否定する。
「みんな、俺の物だ。」
けれどもパパラギは、色んなことをいっぱい考えているにもかかわらず、遥(はる)かな事については何も考えない。
それどころか、自分のしている事を、立派で正しいと言い切る。
だがそれは、神の前では立派でも無く、正しくも無い。

もしパパラギが正しく考えるなら、彼にだって解るはずだ、
しっかり持てないものは誰の物でも無い、という事が。
そして、しっかりと持てる物など、元々何も有りはしないということが。
そしてさらに、神がその大いなる住処(すみか)を造りたもうたのは、みんながそこに喜びの地を持つ為だという事を、もしパパラギが理解してくれたら。

大いなる住処(すみか)は充分に大きく、誰にでも日だまりと小さな喜びがあり、そしてどの人にも小さなヤシの木の薮(やぶ)と、足を乗せて立つ土地が確かにあるはずだ。
それが神の心であり、神の定めたもうた事でもある。

神がどうしてその子どもの一人でもお忘れになろうか。
所が実際には、何とたくさんの人々が、神様に用意していただいたはずの小さな場所を探し求めている事か。

パパラギが、神の言い付けを聞かず、自分たちの掟(おきて)を作ったので、神はパパラギの財産にたくさんの敵を送られた。
パパラギの「俺の物」を打ち壊す為に、湿気と熱を送られた。
パパラギの物は、やがて古び、ぼろぼろになり、腐って行く。
神は、彼らの財宝に襲い掛からせる為に、火に大きな力を与えた。
そして嵐にも。

だが、中でも重く神が定めたもうたのは、パパラギの心の中に恐怖を植え付けた事である。
取ってきた物を無くしはしまいか、という不安。

パパラギは決して深く眠った事がない。
昼間に集めてきた物を夜のあいだに持って行かれないよう、目覚めていなければならないから。
彼はいつでも、どこでも自分の「俺の物」に苦労をさせられ、気を遣わねばならない。
あらゆる「俺の物」はパパラギを悩ませ、あざ笑ってこう言う。
「お前は俺を神様から盗んだ。だから俺はお前を悩ませ、うんと苦しめてやる。」

だが神は、恐怖よりもっとずっと悪い罰をパパラギに与えた。
神はパパラギに、「俺の物」をほんの少し、あるいは全く持っていない人と、たくさん持っている人との間に戦いを与えた。
この戦いは、激しくつらく、夜も昼もない。
この戦いは万人を苦しめる。
万人の生きる喜びを噛みくだく。

持てる者は与えねばならぬのに、やろうとはしない。
持たない者が神の戦士であることもめったにない。
彼らは、ただ少し遅く来すぎて掠奪(りゃくだつ)に間に合わなかったか、それとも少し運が悪かったか、機会が無かっただけなのだ。

神様が掠奪されてすってんてんになられた事は、一番分け前の少なかった人なら覚えている。
そして、神の手に、もう一度全てを返そうではないかという、正しい人の声はほとんど聞かれない。

おお、兄弟たちよ、こんな人間をどう思うか。
サモアの一つの村なら村人全部が入れる程の大きな小屋を持ちながら、旅人にたった一夜の宿も貸さない人。
こんな人間をどう思うか。
手にバナナの房を持ちながら、すぐ目の前の飢えた男に乞われても、ただの一本も分けてやろうとしない人。

私にはお前たちの目に怒り、唇には軽蔑の色の浮かぶのが見える。
そうなのだ、これがいつでもパパラギのする事なのだ。
たとえ百枚のむしろを持っていても、持たない者に一枚もやろうとはしない。
それどころか、その人がむしろを持っていない、と言って非難したり、むしろが無いのを、持たない人のせいにしたりする。

たとえ小屋の天井(てんじょう)の一番高い所まで、あふれるほどの食物があり、彼とアイガ(家族)が一年食べても食べ切れない程でも、食べるに物無く、飢えて青ざめた人を探しに行こうとはしない。
しかもたくさんのパバラギが飢えて青ざめて、そこにいるのに。

熟したヤシは、自然に葉を落とし実を落とす。
パパラギは、葉も実も落とすまいとするヤシの木のように生きている。
「これは俺の物だ!取っちゃいけない!食べちゃいけない!」
どうすれば、ヤシは新しい実を結ぶか。
ヤシはパパラギよりもずっと賢い。

私たちの中にも、ほかの人よりたくさん物を持つ人はたくさんいるし、たくさんのむしろや豚を持っている酋長に、私たちは敬意を払う。
だがこの敬意は、酋長一人に向けられているものであり、むしろや豚が尊ばれているのではない。
何故ならそれは、私たちの喜びを示し、酋長の勇気と知恵を称えるために、私たちがアローファ(贈り物)として彼に贈った物だから。

だがパパラギは、その兄弟のむしろや豚の数を称える。
勇気や知恵はどうでもよい。
むしろや豚を持たない者は、ほんの少ししか、あるいは全く尊敬してはもらえない。
むしろや豚は、自分で貧しい人々、飢えた人たちの所へ歩いては行けないし、パパラギもまた、それを自分の兄弟たちに分けてやろうとは思わない。

何故なら、パパラギが尊敬しているのはその兄弟たちではなく、めいめいが持っているむしろや豚の数なのだから、どうしてもそれを手放す訳にはいかない。

もしパパラギがその兄弟たちを愛し尊び、そして「俺の物」、「お前の物」の取り合いで戦う事をしないなら、兄弟たちの所へ自分のむしろを運んで行き、みんなで自分たちの大きな「俺の物」を分け合うはずである。
兄弟たちを暗い夜の闇の中へ突き出すかわりに、自分のむしろを分け合うだろう。

しかし、パパラギには解っていない。
神が私たちに、ヤシや、バナナや、おいしいタロ芋、森の全ての鳥、そして海の全ての魚を与えたもうた事が。
そして私たちみんながそれを喜び、幸せにならねばならない事が。

それは、決して私たちの中のわずかな人間だけを幸せにして、他の人々を貧しさに悩ませ、乏しさに苦しめる為のものではない。

神からたくさんの物をもらえば、兄弟にも分けてやらねばならない。
そうでないと、物は手の中で腐ってしまう。
何故なら神のたくさんの手は、すべての人間に向かって伸びており、誰か一人が他の者とは不釣り合いにたくさんの物を持つのは、決して神の心では無い。

さらに、誰か一人がこう言うのも神の心では無い。
「俺は日なたにいる。お前は日陰に行け。」
私たちみんなが、日なたに行くべきである。

神が正しいその手の中で、全ての物を支えておられるかぎり、戦いも無ければ苦しみも無い。

狡猾(こうかつ)なパパラギは、こう言って私たちまでだまそうとする。
「神様の物なんて何も無い。お前が手でつかんだものは、お前の物だ。」

そのような愚かな言葉に耳を貸すまい。
正しい知恵に耳を傾けよう。

全ては神の物だ。

                  『パパラギ』 立風書房 刊、エーリッヒ・ショイルマン 著

エーリッヒ・ショイルマン 注―――

私たちの所有概念に対するツイアビの軽蔑的な言葉は、サモアの原住民が、完全な共有財産制のもとで生活しているという事実を知った人になら、十分理解できるにちがいない。
そこには事実、我々が使う意味での「私の」「お前の」という概念はない。
私のどの旅行の時も、原住民は当然の事として、私に宿を、寝むしろを、食事を、そして全ての物を私と分け合ってくれた。
そして私はよく、酋長の最初のあいさつとして次のような言葉を受けた。
「私の物は、お前の物。」
盗むという概念も、島民のあいだには縁遠いものである。
すべてはみんなの物であり、すべては神の物である。

 

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