意味を求める無意味な遊戯

宗教・観念は、「関係性」という琴の弦(げん、つる)の一方の端点に自己を同一化させようと試みます。
その自己同一化の試みとは、自己を取り巻く「出来事(関係性)」に自己に都合のいい「意味」を求める試みです。
善人、優等生、エリート、被害者、犠牲者、滅私奉公・・・・

宗教・観念という泥に汚れた視界不良の底なし沼で、
遮眼帯(しゃがんたい)を装着した馬車馬が、
この上さらに、自ら目隠しをしてグルグル回ってスイカ割りごっこ・・・

スイカはどこ?
美味しいスイカはどににある?
ここかな? ここだな?
間違いないぞ。よーし。
エイ、ヤッ! ・・・・

スイカ割りごっこの本質は、外れる(外す)ことにあります。
外れる(外す)からこそ面白い。
当ててしまえばゲームはジ・エンド。
当たらないことを全てのゲーマーが暗黙の裡(うち)に期待し、またルールとしています。

やった、また外れたぞ!
楽しい、面白い!
次は僕の番だ!
よーし、やったるでー・・・(でも、外さなきゃ)

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人気ブログ「伊勢ー白山道」のブログ主・伊勢白山道さんは、「過去と未来よりも今」(2009-07-10)の中で、

現代社会で生きる人々の中には、自分の身の回りで起こった事の意味を知りたがる人がとても多いです。
・・・・・・・(中略)
生きていれば色々と起こるものです。
意味などありません。
何故なら、それを「経験」しに来たのが本当の目的だからです。

と述べています。

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「存在」の顕れである「関係性」という琴の弦(げん、つる)には端点は無かったのでした。
何故なら、森羅万象、この世に顕現するあらゆるものは、「二元の『相対』の関係性」の重畳(ちょうじょう)なのですから。

非宗教・非観念は、「関係性」という琴の弦の端点に自己を同一化しようなどという無意味な「意味探求」の足掻(あが)きを放下(ほうげ)させるのでした。

一方、宗教・観念は、「関係性」という琴の弦の一方の端点にワタシを同一化させようと仕掛けます。
その自己同一化の試みとは、自己を取り巻く「出来事(関係性)」に、自己に都合のいい「意味」を求める試みです。
宗教・観念は、この琴の弦にあたかも固定された端点があるかの様に見せてくれるので御座います。

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スイカ割りごっこの本質は、外れる(外す)ことにあります。
そのゲームの本質を誰もが了解していながら皆が皆、当てることに一所懸命のフリをする・・・
実は、一所懸命のフリをするのが、このゲームの裏本質(本質の本質)なのでした。

「関係性」という琴の弦にありもしない端点を浮かび上がらせ、その端点に自己を帰着させ、都合のいい自己存在の「意味」を被(かぶ)せるという際限の無い幻想ゲームの基盤が宗教・観念です。

未だにこの幻想ゲームが楽しくて仕方が無い方もいらっしゃる様で御座います。

 

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