内なる平和への歩み Steps Toward Inner Peace
   ピース・ピルグリム  Peace Pilgrim

          〜もうひとつの「ミュータント・メッセージ」あるいは「フォレスト・ガンプ」

ここに紹介するのは、平和に身を捧げたひとりのアメリカ人女性が、自分の歩んだ道のりをふり返った短い物語です。
彼女の本名は知られていません。
ただ、平和の巡礼者「ピース・ピルグリム」という名だけが、その足跡をしるす標識として残っています。

彼女、ピース・ピルグリムは、ここに語られているようなステップを踏んで、生涯を平和のために捧げることを決意して以来、文字通り無一文、からだひとつで世界を歩きつづけました。
そして1981年に亡くなるまで、その巡礼の道々、数かぎりない人びとに、やさしくわかりやすいことばで平和の道を説いたのです。

この『内なる平和への歩み Steps Toward Inner Peace』は、彼女のメッセージをもっとも簡潔に伝えるものとして、晩年彼女自身も上着に持ち歩いて人びとに手渡し、亡くなったあとは、「ピース・ピルグリムの友 Friends of Peace Pilgrim」と名づけられたボランティア組織が無償で配布しているものです。
このなかで彼女は、
「生存への欲求によって、不安定ながらある種の世界平和がもたらされ、それを維持するために大きな内的めざめが必要になる」時代がくることを予言しています。
まさにそうした時代が訪れたいま、わたしたちが<平和>について考え行動するとき、ここから学べることは少なくありません。

彼女の語った内容は、その精神をくんで版権が主張されておらず、だれでも引用・転載していいことになっています。


人生のはじめの時期に、わたしはふたつのとても重要な発見をしました。
ひとつは、お金をかせぐのは簡単だということ。
もうひとつは、お金をかせぎ、それを愚かなやり方で使うのはまったく無意味だということです。
自分はそんなことのためにここにいるのではない、と気づきました。
でもそのときは(これはずいぶん昔のことです)、では何のためにここにこうして存在するのか、まだはっきりとはわかりませんでした、

意味のある生き方を深く探し求めつづけて、ある夜、一晩中森を歩きまわったすえに、ようやくひとつの境地にたどりつきました。
いまのわたしは、そのとき超えたのが精神的にとても大きな峠だったことを理解しています。
それは、一点の曇りもなく、全身全霊で、自分のいのちを奉仕の生に捧げたいという決意でした。
こうなるともう逆戻りはありません。
ここまできたら最後、二度とふたたび以前のようなまったく自分本位の生き方へ引き返すことはできなくなるのです。

こうして、第二の人生がはじまりました。
得られるかぎりのものを手に入れるのではなく、与えられるかぎり与える生き方です。
そこからは、新しくすばらしい世界が広がりました。
人生は意味に満ちあふれたものに変わりました。
健康という大きな恵みも授かりました。
それっきり、風邪にも頭痛にも悩まされたことはありません。
(ほとんどの病気は精神的なものが引き金になっているのです。)

そのとき以来、自分のライフワークは平和のためにはたらくことだとはっきり自覚するようになりました。
ここでいう「平和」にはあらゆるレベルが含まれます。
国家間の平和、集団どうしの平和、個人と個人のあいだの平和、そして何よりも大切なのが内なる平和です。
けれども、人生を捧げたいと思うことと、じっさいに捧げることとのあいだには大きなひらきがあります。
それを埋めるのに、わたしには以後15年にわたる準備と内的探求が必要でした。

このかんに、心理学者が「自我」と「良識」と呼ぶもののちがいがよく見えてきました。
わたしたちのなかには、ふたつの異なった価値観をもったふたつの自分、ないしふたつの本性が共存しているといってもおかしくありません。
そのふたつのものの見方があまりにもちがうので、しばらくはふたりの自分の葛藤に悩まされました。
それは山あり谷ありのたいへんな道のりでした。

けれども、そうしてもがいているうちに、あるときすばらしいピーク体験が訪れます。
生れてはじめて、本当の内なる平和を味わったのです。
私は一体感に包まれました。

すべての人間たちとひとつであり、存在するいっさいのものとひとつであるという感覚――、それ以来、その一体感を完全に失ったことはありません。
その後もこのすばらしいピークには何度でも戻ることができましたし、そこにとどまれる時間もだんだん長くなって、すべり落ちることのほうが珍しくなりました。
そしてある朝、もう二度と谷におりなくていいことがはっきりと確信できる、すばらしい瞬間がやってきたのです。
苦闘は終わり、わたしはついに自分のいのちを捧げること、つまり内なる平和を見出すことに成功しました。

これもやはり、もう引き返せない境地です。
ここまでくると、苦闘のなかへ逆もどりすることはありえません。
苦闘が終わったは、みずから自分にふさわしいことをやる「意思」が生まれ、外側からそれを強制される必要がなくなったからです。

しかし、成長が終わったわけではありません。
むしろこの第三の人生でこそ、大きな成長が起こりつづけてきました。
ただそれは、人生というジグソーパズルの主体はすでに出来上がり、はっきりと動かざるものになっていて、あとの周辺部が少しずつ組み上がっていく、というような成長です。
はじのほうにはつねに新しい部分が加わっていくけれど、成長そのものは調和がとれています。
いつも、愛、平和、喜びといった「善きもの」に包まれている感じがあって、それに守られているおかげで、直面すべきどんな状況に遭遇してもまったく恐れがないのです。

外目にはたいそうな問題をいくつも抱えているように見えても、内側にはそれらの問題を楽々と乗り越える力がかならず存在します。
困難など感じません。
穏やかで、静かで、ゆったりとしていて、もはや何ごとにつけ闘いや緊張はないのです。
生は充実して善きものであり、もう窮屈なごたごたはありません。
これはとても大きな学びでした。
わたしたちの生が、<大いなるいのちのパターン>のなかで自分のはたすべき役割と調和していれば、そして、わたしたちが宇宙を貫く法則に忠実であれば、人生は充実した善きものでありながらしかも窮屈にはならないのです。もしそれが窮屈だとしたら、それは自分がやるべき以上のこと、この宇宙で自分の果たすべき役どころを以上のことをやっている証拠です。

人間には、取るのではなく与えるという生き方ができます。
ところが、与えることに専念していると、与えることなしに受け取ることができないのとちょうど同じように、受け取ることなしに与えることもできないことがわかってきます。
それも、健康や幸福や内なる平和といった最高の贈り物を授かってしまうのです。
そのエネルギーはまさに無尽蔵です。
けっして尽きることがなく、空気のようにいくらでも存在する気がします。
まるで、宇宙エネルギーの源につながったようなものです。

こうなると、人生は思いのままです。
ただし、「自我」というのはけっしてものごとを操ることができません。
自我は肉体からくる快適さや便利さへの欲求に操られ、心の要求や感情のほとばしりに操られるばかりです。
けれども、心やからだや感情をコントロールするのはもっと高い本性です。
わたしが自分のからだにむかって「あのセメントの床で寝なさい」といえば、からだはそれにしたがいます。
心にむかって「ほかのことはすべて忘れて目の前の仕事に集中しなさい」といえば、心はすなおにしたがいます。感情にむかって「状況は最悪だけど静かにしなさい」といえば、感情は静まります。
これはふつうとはまったく異なった生き方だといえるでしょう。
哲学者ソローはこう語ります。
「世間と歩調を合わせるのをやめれば、いままで聞こえなかった太鼓の音が聞こえてくるだろう。」と。
そう、この段階でしたがうのはその新しい太鼓の音――そしてその叩き手は、低次本性ではなく高次本性なのです。


これは1953年のことでしたが、このときはじめて、わたしは世界平和のための巡礼に出ようと思いたちました。
足と信念と祈りだけを頼りに、たくさんの人びととふれあうことを目的とするこうした巡礼の旅は、昔から行われてきたものです。
わたしの場合は、わかりやすいように胸に「ピース・ピルグリム(平和の巡礼)」という文字がはいった上着を着て歩きます。
いまでは、それが自分の名前だと思っています。
わたし個人ではなく、わたしの使命を強調してくれますから。
背中には「平和のために徒歩25000マイル」と書いてあります。
この上着を着るのは、接触のきっかけをつくるためにすぎません。
ハイウェイぞいや市街地を歩いていると、この上着を見ていろいろな人がしょっちゅう声をかけてきます。
そうしたら、その人たちと平和について話すのです。

わたしはすでに、一文なしの巡礼者として25000マイル(40000km)を踏破しました。
所持品といえば、この上着と、その小さなポケットに入れて持ち歩いているものだけです。
わたしはどんな組織にも属していません。
旅に出るにあたり、雨露をしのげる場所を与えられるまで歩きつづけること、食べ物は与えられるまで食べないこと、そして人類が平和の道を習得するまでさすらいの身でいることを誓いました。
嘘も隠しもありませんが、こうして何ひとつ求めないにもかかわらず、これまで旅に必要なすべては与えられてきました。
ということはまた、人びとが本当はいかに善良かもあらわしています。

わたしはつねに、「平和の道は、善によって悪を克服し、真実によって偽りを克服し、愛によって憎しみを克服すること」という平和のメッセージをたずさえて歩きます。
これはとくに目新しいメッセージではありません。
新しいところがあるとすれば、それを実践するかどうかだけでしょう。
しかも、その実践は国際関係だけでなく個人的な関係のなかでも求められます。
わたしは、世界の状況はわたしたち自身の未熟さの反映だと信じています。
もしわたしたちが成熟し、調和のとれた人間であったなら、戦争などまったく問題外のはずです。
そんなものは不可能でしょうから。

平和のためにはたらくことはだれでもできます。
いま自分のいる場所で、まさに自分自身のなかでそれをすればいいのです。
なぜなら、自分自身の内面が平和になればなるほど、わたしたちはそれを外の状況に反映させることができるからです。
じっさい、わたしはこう確信しています。
生存への欲求によって、不安定ながらある種の世界平和がもたらされ、それを維持するために大きな内的めざめが必要になるだろう、と。
核エネルギーを手にしたとき、わたしたち人類は新しい時代にはいったのです。
そしてこの新しい時代は、新しいルネッサンスをももたらすでしょう。
新しい時代にともなうさまざまな問題に対処できるより高い理解のレベルまで、わたしたちを引き上げるルネッサンスです。
わたしが、世界平和へのステップとしてわたしたち自身の内なる平和を説くのはそういうわけなのです。


さて、内なる平和への歩みについて語るとき、わたしはひとつの枠組みにそって話を進めますが、そこに出てくるステップはけっして絶対的なものではありません。
ステップはもっと多い場合もあれば、少ない場合もあるでしょう。
これは単に、話をわかりやすくするためだけのものです。
ですから、これらのステップを踏むのに決まった順序はないということ――これを忘れないでください。
ある人にとっての最初の一歩が、別の人にとっては最後の一歩になるかもしれません。
ようは、自分にとって歩みやすいステップを踏めばいいのです。
何歩か進むにつれ、次の何歩かを踏み出すことが容易になるでしょう。
こういうことに関するかぎり、わたしたちのあいだには共有できることがたくさんあるはずです。
いまこれを読んでいるなかに、巡礼などする気のある人はいないかもしれませんし、わたしもとくに巡礼をおすすめするつもりはありません。
けれども、人生において内なる平和を見出すということに関しては、かならず共有できるものがあります。
これから、わたしが踏んだ内なる平和への足どりをご紹介すれば、きっと「そういうステップなら自分も踏んだ」というものが思いあたるでしょう。

まず最初に、わたしがしなければならなかったいくつかの準備についてふれたいと思います。
準備の第一は、「生きることに正しくむかいあう」こと。
これはすなわち、逃避をやめるということです。
ものごとのほんのうわべをかすめるだけの薄っぺらな生き方をやめることです。
こういう人びとはごまんといますが、何ひとつ意味あることを見つけられません。
生と真正面からむかいあい、生の深みを掘り下げましょう。
真理や真実はそこではじめて探し当てることができます。
わたしたちがいま、ここでやろうとしているのはそれです。

そのさい、人生の上でまみえるさまざまな問題を、どういう姿勢で受けとめるのがいちばん有意義か、ということも大きなポイントです。
これに関しては、もしここに生きて在ることの全容が見えさえすれば、その「物語」の全体がつかめさえすれば、自分の人生にとってなんら意味をもたないような問題、自分の内的成長に役立たないような問題はけっして起こってこないのだということがわかるでしょう。
これが理解できると、問題とは姿を変えたチャンスであることが見えてきます。
問題にきちんと直面しないかぎり、ただ漫然と人生をすごすだけで、内的な成長など訪れません。
自分のなかのもっとも高次の光に照らして問題を解決することにより、わたしたちははじめて内的成長をとげることができるのです。

ただし、集合的な問題は集合的に解決にあたらなければなりません。
つまり、軍縮や世界平和といった集合的な問題の解決について、自分なりにできることをやらずに逃げているような人は、けっして内なる平和など見出せないということです。
ですから、こうした問題についてはいつもいっしょに考え、いっしょに語り合い、力を合わせて解決をめざしましょう。

第二の準備は、「宇宙を貫く法則と自分の生を調和させる」こと。
この宇宙やそこに含まれるあらゆる存在がつくられたとき、同時にそれらを支配する法則もつくられました。
これらの法則は、物理的な領域と精神的な領域の両方にわたって人間の営みを支配しています。
これらの法則を理解し、それと自分の生を調和させるかぎりにおいて、わたしたちの人生は調和のとれたものになるでしょう。
いっぽう、これらの法則に背けば、わたしたちは、そのことによってさまざまな困難を招くことになります。
自分にとってもっとも手ごわい敵は自分自身です。
無知のために調和がとれない場合も、多少の苦しみはあるでしょう。
しかし、改善の方法を知りながら不調和のなかにいる苦しみはそれとはくらべものになりません。
わたしの見るかぎり、これらの法則はほとんどだれもが知っていて、なかには深く信じている人もいます。
だとすれば、あと必要なのはそれらを「本気で生きる」ことです。

こうして、わたしはとても興味深い計画に着手しました。
「自分がいいと信じていることをすべてを実行する」という計画です。
ただし、何もかもいっぺんにやろうとして自分を混乱させることは避けました。
それよりも、やるべきでないとわかっていることをひとつずつやめることから出発したのです。
ただし、それについてはつねに「即実行」を心がけました。
そのほうが楽ですから。
何かをだんだんにやめるというのは長く辛い道のりです。
と同時に、自分が何かやるべきことをやっていないとわかったら、それにいっしょうけんめい取り組みました。
信念を実行に移すにはしばらくかかりましたが、それが可能であることはいうまでもありません。
いまのわたしは、何かを信じたらすぐに実行することができます。
さもなければまったく何の意味もありません。
自分のもつもっとも高い光に則して生きるにつれ、それ以外の光も授かれること、持てる光を生かせば生かすほど、もっと多くの光を受けとれることがかわってきました。

こうした法則はだれにもあてはまるものであり、こういうことならいっしょに学び、語り合うことができます。
けれども、三つめの準備は百人百様でしょう。
わたしたちは一人ひとり、<大いなるいのちのパターン>のなかで独自の役割をもっているからです。
もし自分の役割がまだはっきりわからなければ、受身の沈黙のうちにそれを探索することをすすめます。
わたし自身もよく、美しい自然のただなかを、静かに受け身で歩きました。
そうすると、すばらしい洞察が訪れるのです。
<大いなるいのちのパターン>における自分の役割をはたせるようになるには、やらずにいられないと感じる「善いこと」を残らずやるしかありません。
最初はほんの小さなことでもいい――とにかくその実践を、ふつう人間生活の混乱のもととなっているあらゆる薄っぺらなものごとより優先させるのです。

世の中には、わかっているのに行動しない人たちがいます。
これはたいへん悲しいことです。
ある日、ハイウェイぞいを歩いているととても素敵な車が止まって、なかからひとりの男性がこう声をかけました。

「自分の天命にしたがっているとは、すばらしいですね!」
わたしは答えました。
「そうでしょ。だれだって本当にやりたいことをやるべきだと思いますよ。」
すると、彼のほうも自分がどういうことをやりたいかを話してくれたのですが、それは社会に必要とされている善いことでした。
すっかり興奮したわたしは、てっきりその人がもうそれをやっているのだと勘違いして、こうたずねました。
「すばらしいわ!で、うまくいってますか?」
ところが、彼はこう答えます。
「いやいや、実際にやってるわけじゃないんです。
そういう仕事はお金になりませんからね。」
そして、その彼がどんなに不幸せな様子だったか――わたしはけっして忘れません。
でも、そもそもこの物質主義の時代は、成功を計るめやすがまったくおかしい。
わたしたちは成功を金額やものの量で計ります。
しかし、幸せや内なる平和というのはそんなところにはありません。
もし、わかっているのに実行しなければ、不幸にならざるをえないのです。

それから四つめの準備は、「生の簡素化」――内的な豊かさと外的な豊かさ、つまり精神的な豊かさと物質的な豊かさを調和させることです。
わたしにとってこれは簡単でした。
人生を奉仕に捧げようと決心した直後、世界に必要以下しか持たない人たちがいるのに、自分が必要以上のものを受け取ることなど、もうできなくなってしまったのです。
そこから、自分の生活は必要最低限のレベルに抑えようと思いたちました。
当初、それは難しいだろう、たいへんな辛さを味わうだろうと予想していたのですが、あてがはずれました。
いまのわたしは、所持品といえばこの上着とそのポケットにはいっているものだけですが、何ひとつ欠乏感はありません。
それは、自分のほしいものと必要なものがぴったり重なっているからで、必要以外のものをもらっても有り難迷惑でしかないのです。

わたしの発見した偉大なる真理はこうです。
不必要な所有物は不必要な重荷である――。
ただし、わたしたちの必要がすべて同一だといっているわけではありません。
わたしよりずっと多くのものを必要とする人はいるでしょう。
たとえば家族がある場合は、子どもたちのために安定した家庭基盤が必要だと思います。
けれども、わたしがいいたいのは、必要以上のものは――ここでいう必要(ニーズ)には物理的な必要(ニーズ)以上のものが含まれることもあります――重荷になりやすいということなのです。

生活を簡素化すると、たいそう自由になれるものです。
それを実感しはじめたとき、わたしはようやく内と外の調和を見出すことができました。
そうした調和は、個人個人にとっても、また社会全体にとってもひじょうに重要です。
というのも、わたしたちの世界はあまりにも調和をはずれ、あまりにも物質のほうへ傾いてしまっていて、原子力のようなものを発見しても、それを爆弾に応用して人を殺すことに使ってしまうからです。
この原因は、わたしたちの内的な豊かさが、外側の豊かさにまったく追いついていないことにあります。
今後必要なのは、内面つまり精神的な豊かさの探求でしょう。
そうしてはじめて、わたしたちは内と外のバランスをとり、すでに獲得した外的な豊かさをどう使うべきかを知ることができるのです。


そのあとさらに、わたしにはいくつかの浄化が必要であることがわかりました。
その第一はじつに単純で、「肉体の浄化」です。
これは、肉体的な習慣を正すことといってもいい。
あなたは分別のある食べ方をしていますか?
生きるために食べていますか?
そう、わたしの知っているなかには、反対に食べるために生きているような人たちがいるのです。
それと、食べるのをどこでやめるかをわきまえていますか?
これを知ることはとても大切です。
あなたは分別のある睡眠習慣を身につけていますか?
わたしは早寝を心がけ、十分な睡眠時間をとるようにしています。
新鮮な空気や日光、運動、自然との接触といったものをたっぷり取り入れていますか?
人はこういうことこそ、まずまっさきに取り組むだろうと思われるかもしれませんが、わたしの経験では、おうおうにしていちばんあとまわしにされやすい。
というのも、こいういうことを実行するには悪い習慣をいくつかやめなければならない場合があって、人間は悪い習慣ほど執拗にしがみつくものだからです。

第二の浄化についてはいくら強調してもしすぎることはありません。
それは「想念の浄化」です。
もし自分の想念がどれだけ強い力をもっているかを知ったら、わたしたちは否定的な想念などけっして抱かなくなるでしょう。
肯定的な想念は良い影響をもたらすことができますし、逆に否定的な想念を抱くと肉体を病気にすることさえできます。

あるとき、65歳の男性で、慢性的な肉体疾患らしきものをもった人と知り合いました。
話してみると、すぐには原因がつきとめられないけれども、何か苦い思いを抱えていることがわかりました。
奥さんや成長した子どもたちとはうまくやっていましたし、地域社会でもうまくやっていました。
にもかかわらず、どこか苦いものを感じさせるのです。
結局、それはもうずっと前に亡くなった父親に対する恨みであることがわかりました。
お兄さんには教育を受けさせたのに、彼には受けさせてくれなかったからです。
ところが、彼が父親を許す気持ちになれたとたん、その持病は快方にむかいはじめ、まもなく完治してしまいました。

心のなかに、ほんの少しでもだれかに対する恨みがわだかっていたり、何かしらあまり穏やかならぬ想いがあったら、すばやくそれを捨て去ることです。
そういう想念は、ほかでもないあなた自身を傷つけているのですから。
憎しみは、憎しみを向けられる人ではなく向ける当人を痛めつけるといわれています。
調和の人生を実現するには、正しいことをやり、正しいことを口にするだけでは足りません。
正しい想いも抱かなければならないのです。

第三の浄化は「欲望の浄化」です。
あなたはどういうものを欲していますか?
新しい服、娯楽、新しい家具、それとも新しい車ですか?
いつか、欲するといっても、<いのちのパターン>におけるみずからの役割を知り、それをまっとうしたいという一事だけになるときがきます。
いまの自分に、それよりほかに欲することがあるかどうか確かめてみれば、浄化の程度がわかるでしょう。

そして、最後の浄化は「動機の浄化」です。
あなたがいろいろなことをやるとき、その動機は何ですか?
もし動機が単なる欲や利己心や功名心だったら、それはやめておいたほうがいいでしょう。
その種の動機でやることはすべて、やめておいた方が無難です。
ところが、わたしたちのやることはおうおうにして動機がいり混じっているために、これはそう簡単にいきません。
良い動機も悪い動機もいっしょくたなのです。
ここに実業家がひとりいたとします。
彼の動機はかならずしも見上げたものではないかもしれません。
けれども、そこには家族を大切にしたいという動機や、ことによれば地域社会に貢献したいという動機まで混じっていることでしょう。
動機がいり混じっているという意味がおわかりですか?

内なる平和を見出したいと思うなら、外むきの動機をもたなければなりません。
動機は奉仕――つまり取るのではなく、与えることにおかれるべきです。
わたしの知り合いにすぐれた建築家がいました。
その職業は彼にぴったりだったのですが、仕事をするときの動機がまちがっていました。
たくさんお金もうけ、他人を出し抜くことに動機があったのです。
その結果、彼は病気になってしまいました。
わたしが彼に会ったのは、ちょうどそのころです。
わたしは彼に、小さなことでもかまわないから、何か奉仕をするようにすすめました。
わたしは奉仕のよろこびについて話しましたが、いちどそのよろこびを実感してからというもの、以前と同じまったく自分本位の生き方に戻ることができなくなったようです。
わたしたちはその後しばらく文通をつづけました。

巡礼をはじめて3年目、ふたたび彼の住む町を通りかかったのですが、立ち寄ってみた彼の変わりようにはわが目を疑いました。
まったく別人になっていたのです。
でも、建築家の仕事は続けていました。
彼は図面を引きながらこう語ります。
「これはね、この人たちの予算に合わせた設計なんですよ。
でも、実際に敷地に建てるとすてきな家になるんです。」
彼の動機は、設計をしてあげる人たちへの奉仕でした。
彼は輝くような人間に生まれ変わっていました。
奥さんの話によると、いまでは遠方からも住宅設計を頼みにくるので、商売が上向きになったそうです。

これまで会ったなかで、生き方を変えるのに仕事を変えなければならない人も何人かいましたが、ほとんどの人は動機を変えるだけで人生が変わったのです。


さて、最後になりますが、放棄についてお話ししましょう。
まず、第一の放棄を行うだけで内なる平和を見出すことができます。
それは「自己意志の放棄」です。
これには、やりたいけれども良くないことをしないようにすればいいのですが、けっしてそれをもみ潰してはいけません!
たとえば、何かあくどいことをいったりやったりしたくなったら、いつも良いことを思い描くといいでしょう。
意識的に逆転させて、同じエネルギーを良いことをやったりいったりするほうに使うわけです。
この効果はうけあいます!

第二の放棄は「疎外感の放棄」です。
疎外感を抱きはじめると、わたしたちはまるで自分が宇宙の中心であるかのごとく、すべてを自分の尺度で判断するようになります。
頭ではそれがおかしいとわかっても、ものごとをこんなふうに見るのをやめません。
いうまでもなく、現実には、わたしたちはみな人類という大きなからだの一細胞をなしています。
仲間の人間たちから切り離されてなどいません。
すべてはつながった全体なのです。
そうした高い視点から見たときはじめて、隣人を自分のように愛するということが本当に理解できるようになります。
その高い視点から見ると、現実的な生き方はただひとつしかありません。
それは全体のために生きるということです。
自分の小さな自己のために生きているかぎり、わたしたちは他のすべての細胞と争うひとつの細胞にすぎず、調和からもはずれています。
けれども、全体のために生きはじめたとたん、仲間の人間たちすべてと調和していることがわかるでしょう。
これほどやさしくて調和的な生き方はありません。

第三の放棄は「あらゆる執着の放棄」です。
物質的なものは、しかるべき位置に据え直されねばなりません。
ものにはそれなりの用途があります。
それを使うのはまったくかまいません。
ものはそのためにあるのですから。
けれども、ものの用途が終わったら、いさぎよく放棄して、だれかそれを必要としている人に譲ってあげましょう。
用事がすんでもまだ放棄できないものは、かならずわたしたちを所有してしまいます。
そして、この物質主義の時代には、わたしたちの多くが自分の所有物に所有されているのです。
わたしたちは自由ではありません。

所有にはもうひとつあります。
たとえどんなに自分と親密な関係にある人でも、ほかの人を所有するなどということはできません。
妻は夫の所有物ではありません。
夫は妻の所有物ではありません。
子供も親の所有物ではありません。
人を所有するような観念をもつと、どうしてもその人の生き方を操作しがちですが、これはきわめて不調和な状況を生み出します。
人を所有することなどできないこと、だれもがそれぞれの内なる動機にしたがって生きるべきだということを理解してはじめて、わたしたちは他人の生き方を操作するのをやめ、ほかの人たちと調和して生きることができるのです。

最後の最後は、「あらゆる否定的感情の放棄」です。
ひとつ、人並みはずれてすばらしい人びとでも味わう手ごわい否定的感情を紹介しましょう。
それは「心配」です。
心配というのは、与えられた状況でできるかぎりのことをしようとする「配慮」とはちがいます。
心配というのは、自分ではどうすることもできないものごとを、不必要に思い煩うことをいいます。
ひとついい方法を教えましょう。
いま、この瞬間のことは、あまり心配しないものです。
それはふつうOKですから。
心配するときというのは、とっくの昔に忘れているべき過去を思い煩ったり、まだ見ぬ未来のことで気をもんだりしています。
いま、この瞬間はあっさり飛び越してしまうのです。
わたしたちが生きられるのはこの瞬間だけですから、それを生きなければ、あとにも先にも「生きる」ことなどできるはずがありません。
もしこの瞬間を生きられたら、心配など無縁です。
わたしにとって、すべての瞬間は奉仕のための新しい機会なのです。

否定的感情について最後にもうひとつだけ。
かつてわたしの役に立ち、ほかの人たちにも役立ってきたことがあります。
外側のものは――人でも物でも――けっしてわたしの内面を傷つけることなどできません。
わたしの発見によれば、内面的に本当に傷つくのは、自分でコントロールできるはずの自分自身の行為の過ちによってだけです。
あるいは、自分のまちがった反応――これは手ごわいものですが、やはり自分でコントロールできるはずです。
あるいは、なんらかの状況において自分が動けるのに動かないことも、わたちたちを傷つけます。
その一例として、現在の世界情勢などはまさに行動を必要とするものでしょう。

外側のものによって傷つくことなんかないんだという、このことがわかったときの解放感は筆舌につくせません!
それ以来、わたしは自分を苦しめるのをやめました。
いまなら、だれかにひどい仕打ちを受けても、わたしはその調和を崩した人、他人にひどい仕打ちをできるほど内面的に病んだ人に対して、深い思いやりを感じるだけです。
その人に恨みを抱いたり、腹を立てたりというまちがった反応で、自分を苦しめることはけっしてありません。
自分を内面的に傷つけるかどうかのコントロールは、自分自身が100パーセント握っています。
ですから、わたしたちはやめたければいつでも自分を傷つけるのをやめることができるのです。

以上が、みなさんと分かちあいたかった内なる平和への歩みです。
これはとくに目新しいものではありません。
普遍的な真理といってもいいでしょう。
ただここでは、わたしの個人的な経験に照らしてふつうのことばで語ってみました。
この宇宙を貫く法則は、わたしたちがそれにしたがえば、すぐさま善い結果をもたらしてくれるものです。
いっぽう、この法則に背くものは長つづきしません。
法則にはずれたことというのは、そのなかに自滅の種を宿しているのです。
だれでも人生で善い行いをすることによって、こうした法則にしたがうことができます。
そして、これに関してはすべてわたしたちの自由意志しだいです。
だからこそ、普遍法則にしたがいだして、自分自身のなかの調和と、世界における調和の両方を見出せるのがいつになるか――それは、ひとえにわたしたちにかかっているのです。

 

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