愛の表象としての二元の海

「存在」、「絶対」、「無」、「空(くう)」、「大いなるもの」、「ワンネス」、「神」・・・
であることの至福・・・・そのフィーリングを、もし微(かす)かにでも喩(たと)えることが出来るとするならば
(そうした如何なる比喩も能(あた)わない「絶対」であることは了解してはいますが)、

「乳白色の哀しみ」ではないでしょうか?

私とは何か?――空(くう)は自身を識(し)りたいのです。

――森羅万象あらゆるものを可能性として潜在させている空(くう)は、自身を思考した。
空(くう)は自身の投影を創造したのである。
これは革命であった。ものがたりの始まりである。――(ラムサ)

自身を識るために、「絶対」は「相対」を想像し、創造したのです。
それは、様々な時間率をフレームとする多様な宇宙です。
「分離」を識らずに、「統合」を識ることは出来ない・・・・
「部分」を識らずに、「全体」を識ることは出来ない・・・・
「相対」を識らずに、「絶対」を識ることは出来ない・・・・


万物は「相対」という分離の「関係性」の海に顕現します。
その分離の「関係性」が「絶対」、「ワンネス」の一つの断片なのです。
「無」の上に森羅万象、時空、万物が乗っかります。

分離の「関係性」を純粋な「体験」として感得するために、私たち「存在」は「存在」であることを忘れているフリをします。

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「お金持ち」と「貧乏人」はお互いがお互いの在り様(よう)を成り立たせています。
「貧乏人」がいるから「お金持ち」がいます。

「優等生」と「劣等生」もまた然(しか)り。
「劣等生」がいるから「優等生」がいます。

「善」と「悪」、「損」と「得」も然りです。
「悪人」がいるから「善人」がいて、「損」があるから「得」があります。

「好き」と「嫌い」、「賢者」と「愚者」、「幸運」と「不運」、「ネガティブ」と「ポジティブ」、「硬」と「軟」、「清」と「濁」、「寒」と「暖」、「明」と「暗」、「白」と「黒」、「静寂」と「喧騒」、「高」と「低」、「広い」と「狭い」、「浅い」と「深い」・・・・・あらゆるものが二元の関係性を持っています。

と言いますか、二元の相対的な関係性を持たざるものは、この三次元物質宇宙には顕現できないのです。
別の言い方をすれば、この物質の天界においては「万物は二元の相対的な関係性の海に湧き出る」のです。
万物を投影する三次元物質宇宙のスクリーンは、二元の相対的な関係性という「コントラスト」しか炙(あぶ)り出すことが出来ないのです。
私たちの五感は、「自身の投影」である「二元の相対的な関係性(コントラスト)」だけを感知しているのです。


さて・・・・

人々は、そうした関係性の海にあっては、「どちらかに所属したい」と思っています。
例えば「善人」であったり、「お金持ち」であったり、「色男」、「優等生」、「真面目な市民」、「強いお父さん」、「優しいお母さん」、「出世頭」、「スポーツマン」、「ハゲてない男」、「デブでない女」、「八頭身」、「非喫煙者」、「健康体」・・・・
二元の相対的な関係性を成り立たせている「一方の側」に、自己を置こうとします。
あるいは、他人を、家族を、贔屓(ひいき)のスターを、ライバルを・・・・
二元の相対的な関係性を成り立たせている一方の側に置きたがります。
またはフリをする。

世に言う「ラベル貼り」です。
私たちをこうした「ラベル貼り」に向かわせているものの正体が「宗教」または「観念」です。
「ラベル貼り」という恣意性(しいせい)に基づく行為は全て、娑婆が押し付けてくる宗教・観念を基盤としています。
と言いますか、「ラベル貼り」が宗教・観念を構築しているのです。
「二元の関係性のどちらかに所属したい」という思いのグラウンドが宗教・観念です。

人間の観念が創り出した宗教の神・・・・
それは、責め、裁き、人を委縮させ、罪悪感を持たせ、被害者に成り済ませ、葛藤を産み出すチンケな幻想の神です。
その神が、底なしの「ラベル貼りゲーム」を産み出します。

人々はこの「ラベル貼りゲーム」をモノゴコロが付いた頃から死ぬまでやり続けます。
そう、これは猿のオナニーです。
人間は四六時中、一生の間「ラベル貼り」というオナニーをし続けます。

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では、二元の相対的な関係性に拘泥(こうでい)するこのゲームにゴールは有るのでしょうか?

大金持ちになった、異性の友人がたくさん出来た、結婚できた、人々から尊敬された、有名人になった・・・・

目出たくも、こうしたラベルを獲得したら、「ラベル貼りゲーム」はハッピーエンドなのでしょうか?
「ラベル貼りゲーム」に勝利した彼(彼女)は、幸せなのでしょうか?

獲得したその幸せに優(まさ)る幸福感は他には有り得ないのでしょうか?
それは永遠に続く幸せでしょうか?

「ラベル貼りゲーム」で勝ち取った幸せは、「永遠に続くラベル貼りゲーム」にあっては、ひとときのものでしかありません。

エッ? 永遠に続く?
ちょっと待ってよ!
「ラベル貼りゲーム」は永遠に続くのですか?

そうです。
「ラベル貼りゲーム」は永遠に続きます。
何故なら、人々が、そして人々に盲従することしか出来ないあなたが、そうしているゲームなのですから。

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さて・・・・

であるならば「ラベル貼り」という、「二元の相対的な関係性のどちら側に自分を位置づけるか」というゲームの解法(アガリ)は、
『「ラベル貼りゲーム」から抜けることである』
ということは極(ごく)自然に導かれます。

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人間の作り出した怪物である観念に依らない、本来の「二元の相対的な関係性」そのものこそが存在の表象です。

本来、私たちは、存在の表象である「純粋な二元の相対的な関係性」を愛(め)で、楽しみ、祝福し、賛美するためにこの三次元物質宇宙に舞い降りたのです。
そこには「感謝」があるばかりです。

「純粋な二元の関係性」をただ愛でるとき、
「金持ち」と「貧乏人」、「優等生」と「劣等生」、「善」と「悪」、「幸運」と「不運」、「損」と「得」、「賢者」と「愚者」・・・・・
こうした「観念・宗教としての」二元の相対的な関係性が超克(ちょうこく)・統合され、あらゆる葛藤が放下(ほうげ)されます。

そして遂(つい)に幻想の写し絵が消え、
自身の本来の存在性そのまんまが、我々の眼前に自己の投影として顕(あらわ)れ出て来るので御座います。
自身の本来の存在性――何の衒(てら)い(気取り、もったい振り)もない開けっ広げの無垢な歓び――「神性」(随神(かんながら))です。

                  たぶん・・・・

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あの素晴らしい愛をもう一度  (北山修 作詞、昭和46年)

 

命かけてと 誓った日から
素敵な思い出 残して来たのに

あの時 同じ花を見て
美しいと言った二人の
心と心が 今はもう通わない

あの素晴しい 愛をもう一度
あの素晴しい 愛をもう一度

赤とんぼの歌を 歌った空は
何にも変わって いないけれど

あの時 ずっと夕焼けを
追いかけて行った二人の
心と心が 今はもう通わない

あの素晴しい 愛をもう一度
あの素晴しい 愛をもう一度

広い荒野に ポツンと居るよで
涙が知らずに 溢れてくるのさ

あの時 風が流れても
変わらないと言った二人の
心と心が 今はもう通わない

あの素晴しい 愛をもう一度
あの素晴しい 愛をもう一度

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「素晴しい愛」を「素晴しい愛」として感得するために、
この惑星に於いて、宗教・観念という幻想を創造し、
審判、呵責(かしゃく)、被害者意識といった葛藤の海に遊び呆けた旅で御座いました。

その楽しい旅もそろそろ終わりに差し掛かっている様で御座います。

「素晴しい愛」を「素晴しい愛」として感得できるまでに、対極の関係性は既に極めたのでは御座いませんか?

御一緒にふるさとへ還りませんこと?
 

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