ニュー・アース   第3章 エゴを乗り越えるために理解すべきこと

「ニュー・アース―意識が変わる 世界が変わる―」(サンマーク出版)
エックハルト・トール(著),吉田 利子(翻訳)



















第3章 エゴを乗り越えるために理解すべきこと


エゴの構造

たいていの人は頭のなかの声――自分でも意図しない強迫的で絶え間ない思考の流れとそれに付随する感情――に完全に自分を同一化している。
自分の心に取りつかれている状態、と言ってもいいだろう。
そんな状態であることに気づいていなければ、頭のなかの思考の主が自分だと思い込む。
その思考の主は、エゴイスティックな心である。
エゴイスティックというのは、どの思考――どの記憶、解釈、見解、視点、反応、感情――にも自分、私という意識(エゴ)がつきまとうからだ。
スピリチュアルに見れば、これは無意識である。
あなたの思考、あなたの心の中身は、もちろん育ちや文化や家族的な背景などの過去に条件づけられている。
すべての心の活動の核心は繰り返ししつこく反復される思考、感情、反応パターンでできていて、人はそこに最も強く自分を同一化している。
それがエゴそのものである。

ほとんどの場合、あなたが「私(I)」と言うときは、エゴがそう言っているのであって、あなた自身ではない。
これはいままで見てきた通りだ。
エゴを形成しているのは思考と感情、あなたが「私と私の物語(me and my st。ry)」として自分を同一化している記憶の集積、知らず知らずに演じている習慣的な役割、それに国籍や宗教、人種、社会階層、政治的党派などの集団的アイデンティティである。
そこにはまた、所有物ばかりでなく見解、外見、積もった恨み、優越感や劣等感、成功や失敗という個人的なアイデンティティも含まれる。

エゴの中身は人によってさまざまだが、どのエゴでも同じ構造が作用している。
言い換えれば、エゴの違いは表面だけで、根底ではどれも同じだ。
ではどういうふうに同じなのか?
どれも同一化と分離によって生きながらえている。

心が創りあげた自己(それはエゴである思考や感情からできている)を通じて生きていると、アイデンティティの基盤は危なっかしくぐらぐらしている。
息考も感情も本質的に移ろいやすくて儚(はかな)い。
だからどのエゴも生き延びよう、自分自身を守って拡大させようともがき続けている。

エゴが「私(I)」という思考を支えるには、その対極の思考である「他者」が必要だ。
「私(I)」という概念は「他者」という概念がないと生き延びられない。
その他者は、「私(I)」が敵とみなしたときに最も確かな存在になる。
この無意識のエゴイスティックなパターンのものさしの一方の端にあるのは、人の過ちをあげつらい、不満を言うエゴイスティックで強迫的な習慣だ。
イエスが「あなたは兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁(はり)には気づかないのか?」と言ったのも、このことを指している。
ものさしのもう一方の端には、個人間の物理的暴力や国家間の戦争がある。
聖書では、先のイエスの問いには答えが書かれていないが、もちろん答えはこういうことである。
他者を批判したり非難したりすると、自分が大きくて優れていると感じられるから。


不満と恨み

不満は、エゴが自分自身を強化するために用いる得意の戦略の一つだ。
不満はどれも心が創り出し、あなたが完全に信じ込んでいるささやかな物語である。
不満を声に出そうと頭のなかに留めておこうと、違いはない。
他に自分を同一化するものをあまりもたず、不満だけで楽々と生き延びているエゴもある。
そういうエゴの虜(とりこ)になると、不満、とくに他人に対する不満が無意識のうちに習性となる。
無意識だからもちろん自分では気づかない。
人々を見たとき、もっと多いのはその人たちについて話したり思い浮かべるとき、心のなかで否定的なラベルを貼りつけるというのもこのパターンの一つだ。
悪口雑言はこのラベル貼りの最も露骨な形で、自分は正しいと勝ち誇らずにはいられないエゴの必要性を満たしてくれる。
「馬鹿、ろくでなし、あばずれ」、どれも話し合いの余地のない決定的な言葉だ。
この無意識のその下のレベルには怒鳴ったり喚(わめ)いたりがあり、さらにそのずっと下に物理的な暴力がある。

恨みは不満や精神的なラベル粘りに付随する感情で、エゴはそこからさらに大きなエネルギーを汲み取る。
恨むというのは苦々しい思いをする、憤慨する、馬鹿にされたと感じる、傷ついたと思うことだ。
人は他人の貪欲さ、不誠実さ、いい加減さ、現在や過去の行動、言ったこと、しなかったこと、すべきだったことやすべきでなかったことを恨む。
エゴはこれが大好きだ。
他者の無意識を見すごさず、相手と同一化する。

誰がそうしているのか?
あなたのなかの無意識、エゴである。
ときにはあなたが他者に見る「過ち」は、ほんとうはありもしないものかもしれない。
まったくの誤解で、敵を見つけたがり、自分が正しくて優れていると思いたがるよう条件づけられた心の投影にすぎないかもしれない。
また過ちが事実あったとしても、そこにばかり集中し他の一切を顧みないことで、あなたはその過ちを拡大して見ているかもしれない。
それに他人のなかに見て反応することほど、自分のなかにもしっかりと存在している。

他者のエゴに反応しないこと、それが自分自身のエゴを乗り越えるだけでなくへ人間の集団的なエゴを解体するために最も有効な手段の一つである。

だが反応しないでいられるのは、誰かの行動がエゴから発したもので、人間の集団的な機能不全の表れだと認識できるときだけだ。
そのような行動が個人的なものではないと気づけば、相手個人に反応しようという衝動はなくなる。
そしてエゴに反応しないでいると、相手の正気、つまり条件づけられていない意識を引き出せる場合が多い。
状況によっては、根深い無意識に動かされている人々から自分を守るために、現実的な手段を取らなければならないかもしれない。
その場合も相手を敵とせずに行動することはできる。

しかし最大の防衛策は意識的であることだ。
あなたがエゴという無意識を相手個人と同一視したとき、その相手は敵になる。
反応しないのは決して弱さではなく強さである。
反応しないとは、ゆるすことだ。
ゆるすとは見すごすこと、いや見抜くことである。
エゴを通してすべての人間の核心、本質である正気を見抜くのだ。

エゴは他人だけでなく、状況にも不満や恨みを持つのが大好きだ。
人に対してできることは、状況にもできる。
つまり状況を敵にすることもできる。
それはいつもこんな思いとして現れる。
こんなことが起こっていいはずがない。
私はこんなところにいたくない。
こんなことはしたくない。
こんなのは不公平だ。
そしてもちろんエゴの最大の敵は、いまのこの瞬間、いわば人生(生命)そのものである。

不満と、誰かに過ちや欠陥を教えて正させることを混同してはいけない。
不満をもたないことは、必ずしも質の悪さや劣悪なふるまいを我慢することではない。
ウェイターにスープが冷めているから温めなおす必要があると伝えることは――事実だけを取り上げるなら、事実はつねに中立だから――エゴではない。
「よくも私にこんな冷めたスープを出せたもんだ・・・・」。これは不満である。
ここには「この私に」という意識があり、冷めたスープに個人的な侮辱を感じてここぞとばかり騒ぎ立てる「私」、誰かが悪いと決めつけて喜ぶ「私」がいる。
この不満は変化を起こすのではなく、エゴを喜ばせるのに役立つだけだ。
ときにはエゴがほんとうは変化を望んでいないことが明白な場合さえある。
それなら不満を言い続けられるから。

何かに不満をもったとき、頭のなかの声を把握できるかどうか、つまりその正体に気づけるかどうか、試してごらんになるといい。
それはエゴの声、条件づけられた心のパターン、思考でしかない。
その声に気づけば、同時に自分はその声とは違うこと、その声に気づいているのが自分であることがわかるだろう。
実際、声に気づいている、その「気づき」があなたなのだ。

背景にはその気づきがあり、前景には声、思考の主がいる。
この仕組みに気づけば、あなたはエゴから解放され、エゴが見えていない心から自由になれる。
自分のなかのエゴに気づいたとき、それは厳密に言えばもうエゴではなく、古い条件づけられた心のパターンになる。
エゴとは無意識である。
気づきとエゴは共存できない。
何千年ものあいだ続いてきた人間の集団的無意識がその背後にあるのだから、古い心のパターンあるいは精神的な習性はしばらくは生き残って、ときおり顔を出すかもしれないが、気づかれるたびに衰えていくだろう。


反応と怨恨

恨みにはたいてい不満という感情が付随するが、ときにはもっと激しい怒りやその他の感情的動揺がつきまとうこともある。
これによって、不満にはさらに強力なエネルギーが充填(じゅうてん)される。
そのとき不満は、もう一つのエゴの自己強化策である反応に変わる。

いつも何かに拒否反応を示そうと待ち構え、すぐに苛立ったりむかついたりする人たちは多い。
その人たちはすぐに拒否反応の対象を見つける。
「なんてことだ、頭にくる」
「よくも、あんたはこんなことを・・・・」
「ただじゃおかないからな」と言い出す。
こういう人たちは、薬物ならぬ怒りや動転の中毒なのだ。
あれこれに拒否反応することで自己主張し、自己意識を強化しようとする。

根の深い恨みは怨恨になる。
怨恨を抱くといのは、いつも「対立」している状態で、だからこそ怨恨が多くの人々のエゴの相当部分を占める。
集団的な怨恨は国や部族の心理のなかで何世紀ものあいだ生き延び、終わりのない暴力の悪循環の火に油を注いでいる。

怨恨はときにははるか昔の出来事と結びついた激しい否定的感情だ。
「誰かが私にしたこと」「誰かが私たちにしたこと」を強迫的に考え続けたり、頭のなかで、あるいははっきり口に出して繰り返し物語ることによって、その出来事はいつまでも生々しいままでいる。
この怨恨の影は人生の他の領域にまで広がる。
たとえば怨恨を抱き続けていると、そのマイナスの感情エネルギーによって現在起こっている出来事に対する見方が歪んだり、目の前の人間に対する話し方や行動に影響が及ぶ。
強い怨恨が一つあるだけで人生の大きな領域が翳(かげ)って、エゴの罠から逃れられなくなることもある。

自分が怨恨を抱いているかどうか、自分の人生において完全にゆるせない何者かが、つまり「敵」がいるかどうかを見極めるには、正直にならなければいけない。
怨恨を抱いているのなら、思考と感情の両方のレベルでその怨恨と怨恨を生かし続けている思考に気づき、その思考への身体的対応の結果である感情をしっかりと感じることだ。
怨恨を捨てようとしてはいけない。
怨恨を捨てようとかゆるそうとしてもうまくいかない。
怨恨はまがいものの自己意識を強化してエゴを温存する以外何の役にも立たないと気づいたとき、自然にゆるすことができる。

真実を見抜けば解放される。
「敵をゆるせ」というイエスの教えは、人類の心に存在するエゴイスティックな構造の一つを解体しなさい、ということだ。

過去にはあなたがいまこの瞬間に生きることを妨げる力はない。
その力をもっているのは、過去に対してあなたが抱く怨恨だけだ。
では怨恨とは何か。
古い考えと感情というお荷物ではないか。


正しいか、間違っているか

不満はあら探しや反応と同じく、エゴの存続を支える境界や分離という意識を強固にするが、同時にエゴの糧になる優越感を与えることによってエゴを強化する。
たとえば交通渋滞や政治家や「強欲な金持ち」や「怠け者の失業者」に対する、あるいは同僚や元配偶者やいろいろな人たちに対する不満がどうして優越感につながるのか、ちょっとわかりにくいかもしれない。

実は不満を言っているときは、自分が正しくて不満や拒否反応の対象である人や状況は間違っていると暗黙のうちに想定しているのだ。

自分が正しいという思いほど、エゴを強化するものはない。
正しいというのは、ある精神的な立場――視点、見解、判断、物語――と自分を同一化することだ。
もちろん自分が正しいと言うためには、間違っている誰かと比較しなくてはならない。
だからエゴは自分が正しいと思うために、好んで誰かが間違っていると決めつける。
言い換えれば、自分という意識を強化するためには、誰かが間違っていなければならない。
間違っているのは人だけではない。
ある状況も、不満や拒否反応を通じて間違いだと決めつけられる。
「こんなことは起こってほならない」というわけだ。
自分が正しいなら、間違っているとか欠陥があると判断される人や状況に対して、自分が倫理的に優越していると思うことができる。
その意味でエゴは優越感を欲し、優越感を通じて自らを強化する。


幻想の防衛

疑いようのない事実というものは存在する。
たとえばあなたが「光は音より速い」と言い、誰かが逆だと言ったら、もちろんあなたのほうが正しくて相手が間違っている。
あなたが正しいことは、稲妻のほうが雷鳴より速いことを観察するだけで確認できる。
だからあなたのほうが正しいだけでなくあなたは自分が正しいことを知っている。
ここにエゴは介入しているだろうか?
可能性はあるが、必ず介入しているわけではない。
あなたが真実だと知っていることを淡々と述べるなら、エゴは介入していない。
自分を同一化していないからだ。
何に同一化していないのか?
心、ある一つの見解にである。
しかし、この同一化はあなたのなかにやすやすと入り込む。
もしあなたが「信じなさいって、私にはわかっているんだから」とか「どうしていつも私を信じないんだね?」と言うとしたら、すでにエゴが入り込んでいる。
エゴは「私」という簡単な言葉に隠れている。

「光は音より速い」という言葉は依然として真実だが、それが幻想を支え、エゴに利用される。
「私」という間違った意識に染めあげられ、個人化され、一つの見解、精神的な立場になる。
誰かが「私」の言うことを信じないと、「私」が軽視され、侮辱されたと感じる。

エゴはすべてを個人的に受けとめる。
そこで防衛感情や怒りまでもが生じる。
あなたは真実を防衛しようとしているのだろうか?
そうではない。
いずれにしろ、真実には防衛の必要はない。
光も音もあなたや誰かがどう考えようと関知しない。
あなたは自分自身を、いや自分自身という幻想、心が創り出した自分の代替物を防衛しょうとしている。
幻想が自らを防衛しようとしていると言うほうがもっと正確だろう。
最もシンプルで明快な事実でさえエゴイスティックな歪曲と幻想に影響されるなら、それよりも具体的でない見解や視点や判断、つまり「私」という意識と簡単にごちゃまぜになる思考は、どれほどやすやすと影響されることか。

どのエゴも、見解や視点を事実と混同する。
さらに出来事とその出来事への反応を区別しない。
どのエゴも知覚の一部を選び、解釈を歪めるのに長けている。
(思考ではなく)気づきによってのみ、事実と見解の違いを見分けることができる。
気づきによってのみ、正しく見ることができる。
こちらが状況でこれは状況に対して感じている怒りだと見分けられれば、違う対応が可能だと、言い換えれば違う見方や対処方法があるとわかる。
気づきを通してのみ、限られた一つの見方から解放されて状況や人の全体が見えてくる。


真実:相対的か絶対的か?

単純で検証可能な事実の場合は別として、「正しいのは私で、あなたは間違っている」という確信は、個人の人間関係でも、国家や民族、宗教同士の関係でも危険だ。

だが「正しいのは私で、あなたは間違っている」という信念はエゴが自分自身を強化する方法の1つで、精神的な機能不全であり、人間同士の分裂と抗争が終わらない原因であるなら、ふるまいや行為や信念には正しいも間違いもない、ということなのか?
そうなると、まさにキリスト教関係者がこの時代の最大の悪だと批判する倫理的相対主義(人間行動の指針となる絶対的真理などないという考え方)に陥りはしないか?

もちろん、真理は自分たちの側にのみ存在する、つまり自分たちだけが正しいという信念は、行動やふるまいを狂気のレベルにまで堕落させる。
そのことはキリスト教の歴史そのものが如実に示している。
教会は何世紀ものあいだ、自分たちの教義や聖書(あるいは「真理」)の狭い解釈とわずかでも違う意見をもつ者を拷問にかけ、火あぶりにし、この行為は正しい、なぜなら犠牲者たちは「間違っている」からだ、と考えてきた。
犠牲者たちはとんでもなく間違っているから殺さなければならなかった、というわけだ。
「真理」は人の生命よりも重要だとみなされたのだ。
ではその「真理」とは何なのか?
あなたが信じるべき物語、つまり思考の塊である。

カンボジアの独裁者ポル・ポトが殺害を命じた百万人のなかにはメガネをかけている者全員が含まれていた。
なぜか?
ポル・ポトに言わせれば歴史のマルクス主義的解釈が絶対的な真理であり、その絶対的真理のポル・ポト版によると、メガネをかけている者は教養のある階級、ブルジョワ、農民の搾取者だからである。
新しい社会秩序をつくるために、彼らは抹殺されなければならない。
ポル・ポトの真理も思考の塊だった。

カトリックその他の教会が、倫理的相対主義を現代の悪の一つと批判するのはなるほど正しい。
だが、絶対的真理はあるはずのない場所に探しても見つからないだろう。
あるはずのない場所とは、教義、イデオロギー、規則、物語などだ。
これらに共通しているのは何か?
思考からできあがっているということである。
思考はうまくいけば真理を指し示すが、決して真理そのものではない。
だから仏教では「月をさす指は月ではない」と言う。

すべての宗教はどれも誤りでありどれも真実で、どちらになるかはどう活用するかで決まる。
エゴの強化に役立てることも、「真理」のために役立てることも可能なのだ。
自分の宗教だけが「真理」だと信じているなら、それはエゴの強化に役立てていることになる。
そうなると宗教はイデオロギー化し、優越感という幻想を生み出し、人々の間に分裂や紛争を引き起こす。
「真理」に役立てれば、宗教の教えは目覚めた先輩たちが残した道標、地図となってスピリチュアルな目覚めを、つまり形への同一化からの解放を助けてくれるだろう。

絶対的な「真理」はただ一つで、その他の真理はそこから派生している。
その「真理」を見出したとき、あなたの行動はすべて真理に沿ったものとなる。
人間の行動は「真理」を反映することもあれば、幻想を反映することもある。
「真理」は言葉で表せるか?
表せる。
だが、もちろんその言葉は真理そのものではなく、真理を指し示すにすぎない。

その「真理」はあなた自身と切り離せない。
そう、あなたが「真理」なのだ。
よそに真理を探していたら、きっとだまされ続ける。
あなたという「存在」、それが「真理」だ。
イエスはこのことを、「私が道であり、真理で通り生命です」という言葉で伝えようとした。
イエスのこの言葉は最も力強く最も直接的に「真理」を示した。
ただし正確に理解されればであって、誤解されるととんでもない障害になる。
イエスの言葉は最も内なる「私という存在」、すべての男女、それどころかすべての生きとし生けるもののアイデンティティの核心を意味している。
イエスはあなたという生命について語ったのだ。
キリスト教神秘主義者のなかにはこれを「内なるキリスト」と呼ぶ人々がいる。
仏教では仏性と言う。
ヒンズー教ではアートマン(真我)。

自分のなかにあるこの次元と触れ合うとき――この触れ合いは本来の状態であって、別に奇跡的な偉業ではない――あなたの行動も人間やモノとの関係も、あなたが自分の内奥で感じるすべての生きとし生けるものとの一体感を反映するだろう。
それが愛である。
法律や戒律や規則や規制が必要なのは、真の自分、自分の内なる「真理」と切り離されている人たちだ。

その人たちには、エゴの最悪の暴走を防ぐ役に立つだろうが、それすらも果たせないことも多い。
「愛し、思うままに行動せよ」と聖アウグスティヌスは言った。
言葉ではこれ以上に「真理」に近づくことはできないだろう。


エゴは個人的なものではない

集団的なレベルの「正しいのはわれわれで、彼らは間違っている」という考え方は、国家間、人種間、民族間、宗教間、イデオロギー間の激しい紛争が延々と燃え盛る世界の紛争地帯にとくに深く根づいている。
対立する陣営はどちらも自分たちの見方、「物語」、つまり思考と自分を同一化している。
どちらも自分たちとは別の見方、別の物語が存在するかもしれず、それもまた妥当かもしれないことを理解できない。
イスラエルのジャーナリスト、Y・ハレヴィは「競合する語りの調整」の可能性に言及したが、世界の多くの場所の人々にはまだそれができないか、その意志をもてない。
対立するどちらも自分たちの側にだけ真理があると信じている。
どちらも自分たちは犠牲者で「あいつら」が悪だと考え、相手を人間ではなく敵という概念でくくっているので、おとなどころか子どもたちにまでありとあらゆる暴力を振るうことができるし、人間らしい心の痛みも苦しみも感じないでいられる。
この人たちは攻撃と報復、やられてはやり返すという悪循環に陥っている。

これを見ると、「われわれ」対「彼ら」という集団的な場に現れる人間のエゴは、「私」という個々のエゴと仕組みは同じでも、さらに狂気じみていることがよくわかる。
人間がお互いに振るってきた暴力の多くは犯罪者や精神異常者の手によるのではなく、ごく普通の立派な市民が集団的エゴに駆られて実行したものなのだ。
それどころか、この地球では「ふつう」とは狂態だと言うことさえできるかもしれない。
この根底にあるのは何か?
思考や感情への自分の完全な同一化、つまりエゴである。

食欲、自己中心性、搾取、残虐性、暴力はいまもこの地球にはびこっている。
それが根底にある機能不全あるいは精神の病の個々及び集団的な現れであることが認識できないと、それを個人的なものと受け取る過ちを犯す。
個人や集団についての観念的なアイデンティティをつくりあげ、「彼はこういうやつだ、彼らはこういう人間だ」と言い出す。
あなたが他者のなかにあるエゴを相手そのものと混同したとき、あなた自身のなかのエゴはその誤解をもとに自分が正しくて優れていると考え、敵と想定する相手に非難や憤慨や怒りで反応することにより自分自身を強化する。
こうしてエゴは大きな満足を得る。
あなたと他者は別の存在だという意識が強くなり、相手の「他者性」がとんでもなく拡大されて、もう相手が自分と同じ人間だとは思えず、人間として根源的な一つの生命を共有していることも、人間に共通の神性も感じられなくなる。

特定のエゴイスティックなパターンを誰かに発見して強く反応し、それが相手そのものだと誤解するときは、たいてい自分自身にも同じパターンが存在するのだが、自分ではそれを見分ける力もないし、その気もない場合が多い。
その意味では、相手から学ぶことはたくさんある。

あなたがいちばんむかつくのは、腹立たしいのは、相手のどんなところだろう。
自己中心的なところか?
強欲さか?
権力欲、支配欲か?
言行不一致なところか、不誠実さか、暴力的傾向か。さて何だろう?
何にしても、あなたがいちばん恨みがましく感じて強く反応する資質は、あなた自身のなかにもある。
だがそれはエゴの1つの形であって、個人的なものではない。
相手の人間ともあなたという人間とも、関係ないのだ。
ただその資質と自分を同一化してしまうと、それを自分のなかに発見したとき、自己意識が脅かされたと感じるだろう。


闘いは心の癖

他人に傷つけられそうになって自分や誰かを守る必要がある場合もあるが、「悪を退治する」のが自分の使命だと考えないように気をつけたほうがいい。
そんなふうに考えると、自分も闘う相手と同じことになってしまう。
無意識のままで闘うと、あなた自身が無意識に引っ張り込まれてしまう。
無意識つまり機能不全のエゴイスティックな行動は、闘っても退治できない。
たとえ相手を打ち負かしても、その無意識は単にあなたのなかへ移行するか、新しい姿で現れるだけだ。
何を相手に闘っても、闘えば相手はますます強くなるし、あなたが抵抗するものはしつこく存在し続ける。

あれやこれやとの「闘い」という表現を最近よく耳にするが、そのたびに私は、闘いは失敗するに決まっている、と思う。
麻薬との闘い、犯罪との闘い、テロとの闘い、ガンとの闘い、貧困との闘いなどと言う。
だが、たとえば犯罪や麻薬との闘いが行われているにもかかわらず、この二十五年で犯罪や麻薬がらみの違法行為は劇的に増加した。
アメリカの刑務所の収容人員は一九八〇年には三十万人足らずだったのに、二〇〇四年にはなんと二百十万人に激増している。
病気との闘いで、私たちは抗生物質を手に入れた。
最初は目覚ましい効果があり、感染症との闘いに勝利をもたらすかと思われた。
ところが現在では多くの専門家が口をそろえて、抗生物質の広範な無差別的使用は時限爆弾だ、スーパー・バクテリア(抗生物質耐性菌)のせいで感染症が復活し、爆発的に流行する恐れがあると言っている。
アメリカ医学会誌(JAMA)によれば、治療行為は心臓病、ガンに次いでアメリカ人の死因の第三位にランクされている。
西洋医学に代わる病気への取り組みとしてはホメオパシー(同種療法)と漢方医学があり、どちらも病気を敵として扱わないので、新しい病気を引き起こすこともない。

闘いは心の癖で、そういう癖から生じる行動はすべて、悪と想定される敵をかえって強くするし、たとえ闘いに勝っても打ち負かした敵と同じような、それどころかもっと手ごわい新しい敵、新しい悪を生み出す。
あなたの意識の状態と外部的現実とのあいだには深い相関関係がある。
あなたが「闘い」という心の癖に囚われていると、あなたの知覚はきわめて選り好みの強いものとなって歪められる。
言い換えれば見たいものしか見ず、しかもそれを曲解する。
そんな妄想のシステムからどんな行動が生じるかは、簡単に想像がつくだろう。
想像がつかなければ、今夜のテレビニュースをごらんになるといい。

エゴをありのままに人間の心の集団的な機能不全として認識すること。
ありのままを認識すれば、もうそれを誰かのアイデンティティだと誤解したりはしない。
また、エゴに反応しないでいることも容易になる。
個人的に受けとめることもない。
不満を抱いたり、非難したり、なじったり、お前が悪いと決めつけもしなくなる。
誰も悪くはない。
それは誰かのなかのエゴ、それだけのことだ。
人によっては症状が重いかもしれないが、誰もが同じ心の病に苦しんでいるとわかれば、共感をもてるし、優しくなれる。
すべてのエゴイスティックな関係につきものの波乱の火に油を注ぐこともない。
油とは何か?
反応だ。
エゴは反応を糧にして肥え太る。


平和と波乱、どちらを望むか?

あなたは平和を望むだろう。平和を望まない者はいない。
だが、あなたのなかには波乱を、紛争を望む何者かがいることも事実だ。
いまこの瞬間には、その何者かの存在を感じないかもしれない。
だが何らかの状況が(それどころか、ただの思考が)、あなたの反応の引き金を引いたらどうか。

誰かがあなたを非難した、あなたを認めなかった、あなたのテリトリーに侵入した、あなたのやり方をあげつらった、金品をめぐって言い争いになった・・・・そのときあなたは自分のなかで、何か大きな力が、たぶん怒りや敵意の仮面をつけた恐怖が盛り上がってくるのに気づけるか?
声が荒々しくあるいは甲高くなったり、何オクターブか低い大声になったと自覚できるか?
心があわてて自分の立場を防御し、正当化し、攻撃し、相手を非難しようとするのがわかるか?
言い換えれば、無意識が発動した瞬間にその事実に気づけるだろうか?
自分のなかに戦闘態勢の何者かがいること、脅かされたと感じて、どんな犠牲を払ってでも生き延びようと望む者、波乱のドラマにおける勝利者として自分のアイデンティティを確認するために劇的状況を必要とする者がいることを感じ取れるだろうか?
平和よりも自分が正しいほうがいいと言う何者かが、あなたのなかにいることを感じられるだろうか?


エゴを超えて:真のアイデンティティ

エゴが闘っているとき、そこで生き延びるために闘っているエゴとはただの妄想にすぎないことを知るべきだ。
そのエゴという妄想は、自分こそあなただと考えている。
そのとき「いまに在る」証人として状況を見つめることは、初めはそう簡単ではない。
エゴがサバイバル・モードに入っているか、過去をひきずった感情的なパターンが作動しているときはとくに難しい。

だが一度その感覚を味わえば、「いまに在る」パワーは高まり、エゴの束縛力は失われるだろう。
エゴや心よりもはるかに大きな力が、あなたの人生に生まれる。
エゴから解放されるために必要なのは、エゴに気づくことだけだ。
気づきとエゴは共存できないからである。気づきとは、いまのこの瞬間に秘められた力だ。
だから、「いまに在る」ことと表現できる。
人間という存在の究極の目的は(それはあなたの目的でもある)、この「いまに在る」力を世界に広めることだ。
それはまた、エゴからの解放が将来達成すべき目標ではないのはなぜかという理由でもある。
「いま、この瞬間」だけがあなたをエゴから解放できるし、あなたは昨日でも明日でもなく「いま、この瞬間」にしか存在できない。
「いまに在る」ことだけがあなたのなかの過去を解体し、あなたの意識の状態を変容させる。

スピリチュアルな目覚めとは何か?
自分がスピリット(霊)であるという信念か?
いや、それは一つの思考だ。
出生証明書に記されているのが自分だという信念よりは多少真実に近いが、それでも思考には変わりない。
スピリチュアルな目覚めとは、自分が知覚し、体験し、考え、感じている対象はつきつめてみれば自分ではないし、つねに移ろう事物のなかに自分自身を発見することはできない、とはっきり見抜くことである。
これを明確に見抜いた最初の人間はたぶんプツダで、だからブツダの教えの核心の1つはアナッタ-(無我)だった。
またイエスが、「あなた自身を捨てなさい」と言ったのは、自己という幻想を否定(そして解体)しなさい、という意味だった。
自己――エゴ――がほんとうに私なら、それを「捨てる」というのは筋が通らない。

この幻想の自己を捨てたとき、残るのは知覚や体験や思考や感情が現れては消える意識の明かりだ。
それが「大いなる存在」、深い真の「私」である。
この「大いなる存在」としての自分を知ったとき、人生で絶対に重要な出来事というものはなくなりすべてが相対的な重要性しかもたなくなる。
その出来事を尊重はしても、絶対的な深刻さや重さはもはや感じない。

結局のところ、大切なのは次のことだけだ。
人生という背景のなかでつねに「大いなる存在」という自分の本質、「私は在る(I Am)」ということを感じていられるか?
もつと正確に亭えば、いまこの瞬間に「私は在る(I Am)」と感じられるか?
意識そのものとしての自分のアイデンティティ、その本質を感じられるか?
それとも起こっている出来事や心のなか、この世界で自分を見失うのか?


すべての構造物は不安定

どんな形をとるにしても、エゴの奥には自分が考える自分のイメージ、幻の自己を強化したいという強い無意識の衝動がある。
その自己イメージ、幻の自己は、思考――大きな恵みであると同時に手ごわい厄介もの――がのさばりだして、自分が「大いなる存在」「源」「神」とつながっているという、シンプルだが深い喜びを覆い隠したときに出現する。
どんな行動となって現れるにせよ、エゴの隠れた動機はつねに同じだ。
目立ちたい、特別でありたい、支配したい、力が欲しい、関心が欲しい、もっともっと欲しい、ということである。
それにもちろん、自分は別だという感覚を感じたい。
つまり対立相手、敵が必要になる。

エゴはつねに他者あるいは状況に何かを求めている。
いつも隠れた課題を抱えているのだ。
「まだ充分ではない」と感じ、非充足感、欠乏感に苛立っていて、なんとかそれを埋めなければならない。
そのために人や状況を利用するが。たとえ一時は欠落を埋められても、その成功は決して長続きしない。
目的を遂げられないことも多いし、たいていは「私が望む」ことと「実態」とのギャップに動揺し苦しむ。
いまは古典となった有名な「サティスフアクション」は、まさにエゴの歌だ。

エゴの底流にあってすべての行動を律しているのは不安である。
自分が何者でもないという不安、存在しなくなるという不安、死の不安だ。結局エゴの行動はすべて、この不安を解消す
るためなのだが、エゴにはせいぜい親密な人間関係や新しい所有物やあれこれの勝利によって一時的にこの不安を紛らすことしかできない。
幻想は決してあなたを満足させてはくれない。
ほんとうのあなたに気づくことができれば、それだけがあなたを解放してくれる。

なぜ不安なのか?
エゴは形との同一化によって生じるが、実はどんな形も永遠ではなく、すべて移ろいゆくことをどこかで承知している。
だから外見はどれほど自信満々に見えても、エゴにはいつも不安定な頼りなさがつきまとう。

以前友人とカリフォルニアのマリブに近い美しい自然保護区を散歩していたとき、何十年か前に焼け落ちたらしいカントリーハウスの廃櫨を見た。
樹木もいろいろなすばらしい植物も野放図に伸び、そばの道端には公園管理者が立てた看板があって「危険。すべての構造物は不安定」と書かれていた。
「なんと意味の深いス-トラ(聖旬)じゃないか」。
私は友人に言い、二人とも感動してしばし佇(たたず)んだ。
どんなに堅固に見える物質だろうと、すべての構築物(形)は不安定だと気づき、それを受け入れると、身のうちに安らかな気持ちが湧き起こる。
形あるものは儚(はかな)く無常だと認識したとき、自分のなかの形のない次元、死をも超える次元に目が開かれるからである。
イエスはそれを「永遠の生命」と呼んだ。


優越感をもちたいエゴ

エゴにはつい見すごしがちな微妙な形がたくさんある。
あなたはそれを他者に、そしてもっと大事なことだが自分にも見ることができるはずだ。
覚えておいてほしい。
自分のなかのエゴに気づいたとき、気づいているのはエゴを超えた自分、もっと深い「私(I)」である。
インチキに気づいたときには、すでに本物が現れているものなのだ。

たとえば、誰かにニュースを知らせようとする。
「ねえ、聞いた?
え、まだ知らないの?
それじゃ教えてあげる」。
そのとき、あなたが注意深くて、きちんと「いまに在る」ことができていれば、たとえそれが悪いニュースでも話そうとする一瞬に満足感がよぎるのがわかるだろう。
そのわずかな瞬間、エゴの目からすれば自分に有利で相手には不利な不均衡が生じているからだ。
その瞬間、あなたは相手より「多く」を知っている。
あなたが感じた満足感はエゴのそれで、他人との関係で自分が強者になったと思うことから生じている。
相手が大統領だろうが法王だろうが、その瞬間はあなたのほうが「多く」を知っていることによって優越したと感じるのだ。
たいていの人がゴシップに目の色を変える理由の一つはここにある。
さらにゴシップのほとんどには他人への悪意の批評や批判という要素があり、それも自分のほうが倫理的に優位に立ったという想像を通じてエゴを強化する。
誰かに否定的な判断をするときには、きっとこの優越感がある。

誰かが自分より多くを所有していたり、知っていたり成し遂げていたりすれば、エゴは脅威を感じる。
自分のほうが「劣る」と感じると、想像上の自己が他人と比べて小さく縮んでしまうからだ。
そうするとなんとか自己を回復しようとして、相手の持ち物や知識や能力の価値を定めたり、批判したり、けなしたりする。
世間で重要人物とみなされている相手なら戦略を変えて、直接競争する代わりに相手との関連で自分を強く見せようとする。


エゴと名声

有名人の名前をさりげなく持ち出してアピールするのは、「重要」人物との関係を匂わせて自分を偉く見せ、それによって自分自身も優越感を味わおうというエゴの戦略の一つだ。
世間で有名になるとつらいのは、集団的なイメージによって本当の姿がかき消されてしまうことである。
出会う人のほとんどはあなたとの関係を利用して自分のアイデンティティを――当人がもつ自己イメージを――強化したがる。
その人たちは自分でも気づいていないかもしれないが、あなたに関心があるわけではなく要するに虚構の自己意識を強化したいだけだ。
彼らはあなたを通じて自分をふくらますことができると信じている。
あなたを通じて、というより有名人というあなたのイメージ(勝手に一人歩きする集団的な概念としてのあなたのアイデンティティ)を通じて、自分を完成させようとする。

名声の馬鹿馬鹿しいほどの過大評価は、この世界にたくさんあるエゴイスティックな狂気の表れの1つだ。
有名人のなかには自分でも同じ過ちに陥り、人々やメディアが創り出した集団的なフィクションに自分を同一化して、実際に自分はそこらの人間たちより優れていると思い込む人たちもいる。
結果として、その人たちはますます自分自身からも他人からも疎外され、ますます不幸になり、名声を維持することにますます振り回される。
ふくらました自己イメージをいっそう助長する人々にだけ囲まれていたのでは、真の人間関係は築けない。

アルバート・アインシュタインはほとんど超人扱いされるほど賞賛され、地上で最も有名な人物の一人になる運命だったが、人々が集団的に創りあげたイメージと自分を決して混同しなかった。
彼は有名になっても依然として慎ましくエゴイスティックなところがなかった。
それどころか、彼は「人が考える私の業績や能力と、ほんとうの私、ほんとうの能力にはグロテスクなほどの違いがある」と言っている。

有名人が他者と真の人間関係を結びにくい理由はここにある。
真の人間関係とはエゴのイメージづくりや自分探しの支配を受けないものだ。
真の人間関係には相手への開かれた明断な関心の流れがあり、そこでは相手に何も求めてはいない。
この明断な関心が「いまに在る」ことで、すべての本物の人間関係に必須の要件である。
エゴはいつも何かを求めていて、相手には求めるべきものが何もないと思えばまったく無関心になる。
相手のことはどうでもいいのだ。
だからエゴイスティックな関係にいちばん多い三つの状態とは欲求、欲求の挫折(怒り、恨み、非難、不満)、それに無関心である。



 

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