ニュー・アース   第4章 エゴはさまざまな顔でいつのまにか私たちのそばにいる

「ニュー・アース―意識が変わる 世界が変わる―」(サンマーク出版)
エックハルト・トール(著),吉田 利子(翻訳)



















第4章 エゴはさまざまな顔でいつのまにか私たちのそばにいる


どれもエゴである

他者に何かを求めるエゴ――求めないエゴなどないが――は、それが物質的な利益であれ、権力意識であれ、優越感であれ、あるいは自分は特別だという意識や肉体的、心理的な喜びであれ、その「ニーズ」を満たすために何らかの役割を演じてみせるのがふつうだ。
だが通常は自分が役割を演じているとはまったく気づかない。
役割になりきっている。
ごく微妙な役割もあれば、演じている当人以外なら誰の日にも明白な役割もある。

エゴは他者の関心を糧にして肥え太る。
他者の関心は要するにある種の心理的なエネルギーだ。
エゴはすべてのエネルギーの源があなた自身のなかにあることを知らないから、エネルギーを外に求める。
エゴが求めているのは「いまに在る」という形のない関心ではなく、承認や賞賛や賛美や、とにかく注目され存在を認めてもらうという何らかの形をもった関心である。

他者の関心を怖がる内気な人もエゴの欲求から解放されているわけではなく、他者の関心を求めつつ恐れるという矛盾したエゴを抱えている。
恐れとは、関心が否定や批判という形をとるのではないか、自己意識を強化するどころか萎縮させるのではないかという不安である。
だから内気な人は関心への要求よりも恐れのほうが大きい。
内気には多くの場合、自分はだめなやつだという圧倒的にネガティブな自己意識が伴う。
観念的な自己意識――自分はこうだああだという思い――は、圧倒的にポジティブだろうと(私は偉大だ)、ネガティブだろうと(私はダメだ)、どれもエゴである。

ポジティブな自己意識の陰にはきっと、それでもまだ充分ではないという不安が隠れている。
ネガティブな自己意識の陰には必ず、他者より偉大でありたい、優れていたいという願望が隠れている。
自信たっぷりだったり、何が何でも優越感を感じていたいとう、エゴの奥には、自分が劣っているのではないかという無意識の恐れが存在する。
逆に内気で自信がなくて劣等感を抱いているエゴは、優越したいという強い願望を隠している。

多くの人たちは状況に応じ、接する相手に応じて、劣等感と優越感のあいだを揺れ動く。
そこであなたは次のことを心得て、自分を観察しなくてはいけない。
誰かに優越感や劣等感を感じたなら、それはあなたのなかのエゴが感じているのだ、ということだ。


悪人、被害者、恋人

エゴのなかには、賞賛や賛美を得られないと別の形の関心に方向転換し、それを引き出すための役割を演じるものがある。
たとえばポジティブな関心が得られないと、代わりに誰かを挑発してネガティブな反応を引き出し、ネガティブな関心を得ようとする。
これは子どもにもすでに見られる。
悪さをして関心を引こうとするのだ。
とくにネガティブな役割演技が目立つのは、後述のペインボディ(エネルギーの場に集積された古い感情的な苦痛)が活性化されているとき、つまり過去の感情的苦しみを引きずっていて、同じような苦しみを何度も体験してはその苦しみを新たにしようとしているときである。

有名になろうとして罪を犯すのもこの種のエゴで、彼らは悪名や他人の非難という形で関心を求める。
「私はちゃんと存在していると、どうでもいい人間ではないと言ってくれ」と叫んでいるようだ。
こういう病的な形のエゴも、ふつうのエゴが極端になっただけなのだ。

被害者役も非常にありふれた役割の一つで、同情や憐れみや自分の問題、「私と私の物語」への興味という形で関心を求める。
不満や、侮辱された、立腹したというような多くのエゴのパターンには被害者意識という要素がある。
もちろん、自分に被害者の役割を振り当てた物語に自分を同一化してしまうと、その物語を終わらせたくないと思う。
だからセラピストなら誰でも知っているように、エゴはアイデンティティの一部になった「問題」の終結を望まない。

誰も「私の悲しい物語」に耳を傾けてくれないと、頭のなかで何度も自分に語り聞かせて自己憐憫にふける。
そうすれば、人生や他人や運命や神に不公平な目にあわされている自分というアィデンティティを守れる。
そのアイデンティティは自己イメージに明確な輪郭を与え、自分を何者かにしてくれる。
エゴにとってはそれだけが大事なのだ。

いわゆるロマンティックな関係の初期の段階で、「自分を幸福にし、特別な存在だと感じさせて、すべての必要性を満たして」くれそうだと思った相手の関心を引き、つなぎとめておくために、エゴが何らかの役割を演じることはまったく珍しくない。
「私はあなたが望む私を演じるから、あなたも私が望むあなたを演じてちょうだい」。
これが暗黙かつ無意識の合意である。

ただし役割を演じるのは大変だし、とくに一緒に暮らすようになれば無限に演技を続けていくわけにはいかない。
役割がはげ落ちたら、何が見えるか?
残念ながら、ほとんどの場合はまだ相手の存在の真の本質は見えず、その本質を包んでいるもの、つまり役割を脱ぎ捨てた、ペインボディをひきずっている生のエゴが見えてしまう。
そして妨げられた欲望は怒りに変じ、その怒りはまずエゴの自己意識に固有の不安や欠落感を解消してくれなかった配偶者、パートナーに向けられるだろう。

よく言われる「恋に落ちる」というのは、実はエゴイスティックな欲求と必要性の強化である場合が多い。
あなたは相手に、というかあなたがもつ相手のイメージにおぼれる。
それは何も求めない真の愛とは無関係だ。
こういう従来の愛に関していちばん正直なのはスペイン語だろう。
「テ・キエロ」には「あなたを愛しています」という意味と「あなたが欲しい」という意味がある。
もう一つの愛の表現である「テ・アモ」にはこういう二面性はないが、こちらはあまり使われない。
たぶん真の愛はめったに存在しないからだろう。


自己の定義を捨てる

各部族の文化が古代文明へと発展するにつれて、ある種の人々に支配者、聖職者、戦士、農民、商人、職人、労働者などの機能が振り当てられるようになった。
こうして階級制度が発達する。
それぞれの機能つまり仕事(たいていは生まれつき決まっている)がその人のアイデンティティとなり、他者の目に(それに自分自身の目に)映る自分が何者かを決定する。
仕事イコールその人の役割となって、役割になりきってしまうのだ。
役割が自分そのもの、あるいは「自分はこうだ」と考える自分となる。

そのころブッダやイエスなどのごく稀な人物だけがカーストや社会階級などの究極的な無意味さを見抜いていた。
それが形への自分の同一化であること、そのように条件づけられた一時的なアイデンティティはそれぞれの人間から輝き出している無条件かつ永遠の光を覆ってしまうことを、彼らは認識していたのである。

現代社会では昔ほど社会構造が硬直的ではなく、それほど強固に構成が決まっているわけではない。
もちろん多くの人は依然として環境という条件に左右されているが、自動的に機能を振り当てられて、それを自分のアイデンティティとするわけではない。
それどころか現代世界では自分がどこにおさまればいいのか、生きる目的は何なのか、さらには自分とは何者なのか、人々の混乱は増すばかりだ。

私は「もう自分がわからなくなりました」と言う人はたいてい、それはよかったですね、と応じることにしている。
すると相手はまごついて聞き返す。
「わからなくなって混乱しているのがいいことなんですか?」。
それじゃ考えてごらんなさい、と私は言う。
混乱しているというのはどういうことか?
「私にはわからない」というのは混乱ではない。
混乱というのは、「私にはわからないが、しかしわかりたい」、あるいは「私にはわからないが、しかしわかる必要がある」という状態だ。

では自分は何者かを知りたい、知る必要がある、という思いを捨てられるだろうか?
言い換えれば、自分という意識の観念的な定義を求めるのをやめられるか?
思考にアイデンティティを求めるのをやめられるか?
自分は何者かを知りたい、知る必要がある、という思いを捨てたら、混乱はどうなるか?

たちまち消えてしまう。
自分にはわからないと素直に受け入れると、かえって安らかですっきりした状態になり、思考などを通じるよりもよほど真の自分に近づける。
思考によって自分を定義しようというのは、自分で自分に限界を引くことだ。


事前に決まっている役割

もちろんこの世界では人々はそれぞれさまざまな機能を果たしている。
それが当然だ。知的、肉体的な能力――知識、技能、才能、エネルギーレペル――は人によって大きく違う。
ほんとうに大事なのはこの世界でどのような機能を果たすかではなく、その機能への自分の同一化がゆき過ぎて機能や仕事が役割になり、その役割になりきってはいないかへということだ。
役割になりきってしまうと、無意識になる。
あ、役割を演じているなと意識すると、自分と役割に距離が生まれる。
それが役割からの解放の始まりだ。
完全に自分を役割に同一化していると、行動パターンと自分自身を混同し、自分を深刻に受けとめてしまう。
さらに他人にも自分の役割に見合った役割を自動的に割り当てる。
たとえばあなたが医者にかかったとして、相手が医師という役割に完全に自分を同一化していれば、彼らにとってはあなたは人間ではなくて患者、症例の一つでしかない。

現代の社会構造は昔ほど硬直していないといっても、人々が簡単に自分を同一化し、エゴの一部として取り込んでしまうさまざまな既成の機能や役割がある。
そのために人間関係は真正なものでなくなり、人間味を失い、疎外感を伴う。
この既成の役割はある種の心地よいアイデンティティを与えてくれるかもしれないが、結局は自分を失う結果になる。
軍隊や教会、役所、大企業などの階層組織における機能は、簡単に役割としてのアイデンティティと化す。
役割になりきって自分を失うと、ほんとうに人間らしいつきあいはできない。

既成の役割のなかには、社会的原型とも言うべきものがある。
いくつか例をあげると、中流階級の主婦(以前ほど一般的ではないが、まだまだ広く残っている)、タフなマッチョ、誘惑する女性、「反体制的な」芸術家やパフォーマー、高価なドレスや高級車をひけらかすように文学や芸術、音楽などの知識をひけらかす「文化」人(ヨーロッパではちっとも珍しくない)などだ。
それに「おとな」という普遍的な役割もある。
この役割になりきると、自分についても人生についても非常に深刻になる。
この役割には気まぐれやのんき、楽しみなどがつけいる隙はない。

1960年代にアメリカ西海岸で始まって、その後西欧世界に広がっていったヒッピー・ム-ブメントは、利己心に基盤を置く社会や経済構造だけでなく社会的原型や役割、既成の行動パターンに対する大勢の若者の反発から生じた。
彼らは親や社会が押しつける役割を演じることを拒否した。
しかもこのころは悲惨なベトナム戦争によって五万七千人以上のアメリカの若者と三百万人以上のベトナム人が犠牲になり、これによってシステムが抱える狂気とその底流にある思考傾向が白日の下にさらされた時期でもあった。
一九五〇年代にはアメリカ人の大半はまだ思考でも行動でも体制順応派だったが、一九六〇年代になると集団的な狂気があまりにも明白になったため、何百万もの人たちが集団的、観念的なアイデンティティを振り捨て始めた。
ヒッピー・ムーブメントはそれまでは強固だった人間心理のエゴイスティックな構造が緩み始めたことを示していた。
ヒッピー・ムーブメントそのものはその後に変質し終わりを迎えたが、構造に開かれた隙間があとに残った。

この隙間を感じたのは、ヒッピー・ムーブメントに加わった人たちばかりではなかった。
そしてその開かれた隙間のおかげで、グローバルな意識の目覚めに不可欠な役割を果たす東洋の古い智恵や霊性(スピリチユアリティ)が西洋世界に流れ込むことが可能になったのである。


一時的な役割

あなたが充分に目覚め、充分に敏感で、自分の人間関係をきちんと観察することができれば、相手によって微妙に変化する自分の言葉や姿勢やふるまいを察知できるだろう。
最初は他人の変化のほうが目につくかもしれない。
だが、そのうち自分自身の変化にも気づくはずだ。
企莱の会長を相手にするときと守衛相手のときでは微妙に話し方が違うだろう。
子どもに話すときとおとなに話すときでも違うはずだ。

どうしてか?
役割を演じているからだ。
会長に対しても守衛に対しても子どもに対しても、あなたはあなた自身ではない。
店に入って買い物をするとき、レストラン、銀行、郵便局に行くとき、あなたは自分が既成の社会的役割を演じている、ことに気づくのではないか。
あなたは顧客となり、顧客らしく話す。
そして販売員やウェイター(彼らもその役割を演じている)に顧客として対応される。
二人の人物のあいだで条件づけられたさまざまなパターンが発現し、それが人間関係の性質を決定する。
人間そのものの代わりに観念的なイメージ同士が関係をもつ。
それぞれの役割になりきっていればいるほど、人間関係は真正なものではなくなる。

あなたには相手だけでなく自分自身についても(とくに相手との関係で)、何者であるかという観念的なイメージがある。
あなた自身が相手とつきあっているのではなく、あなたが考えるあなたという人物が、あなたが考える相手という人物とつきあっている。
相手のほうも同じことだ。
自分自身についてどんな観念的なイメージができあがっているかは、相手についてどんな観念的なイメージをつくりあげるかに影響する。
相手のほうでも同じことをしているだろうから、二人の人間のエゴが向き合う関係では、実際には四つの観念的なアイデンティティがからみあうことになるが、そのアイデンティティは要するに虚構だ。
だから人間関係に多くの葛藤がつきまとうのもぜんぜん意外ではない。
真の関係など、そこにはないからだ。


手に汗握った禅僧

ある禅僧が著名な貴族の葬儀を執り行うことになった。
参列する王侯貴族や夫人たちを出迎えているとき、彼は自分の両手が汗ばんでいるのに気づいた。
翌日、彼は弟子たちを呼び集め、自分はまだ真の師たり得ないと告白した。
乞食だろうと王様だろうと、すべての人間に対して同じ姿勢で臨むということができていない。
自分はまだ社会的な役割と観念的なアイデンティティを通じて人を見ており、すべての人間の同一性を見ていない。
それから彼は寺を去って、別の師のもとで修行に入った。
そして八年後、悟りを開いて弟子たちのもとへ戻ってきたという。


役割としての幸せと、真の幸せ

「最近、いかがですか?」。
「調子いいですよ。絶好調です」。
これは真実か、それとも偽りか?

多くの場合、幸福とは人々が演じる役割で、笑顔の陰には多くの苦しみが隠されている。
真っ白な歯がのぞく笑顔の裏に不幸が隠されているとき、自分自身にさえ不幸ではないぞと否定しているときには、鬱(うつ)やノイローゼ、過剰反応が起こることが珍しくない。

アメリカではエゴは「元気ですよ」という役割を演じるのがふつうになっている。
この傾向は、実際に惨めで惨めに見えるのもあたりまえだし、その状況が社会的にも受け入れられやすい国々に比べてとくに顕著だ。
誇張だろうとは思うが、ある北欧の首都では通りで知らない人間に微笑みかけると酔っ払いとして逮捕される危険があると聞いたことがある。

あなたのなかに不幸が存在するなら、まず自分のなかの不幸を認識する必要がある。
だが「私は不幸だ」と言ってはいけない。
不幸とは、あなたそのものとは何の関わりもない。
だから「私のなかに不幸がある」と言おう。
そして、それを観察する。
あなたのいまの状況が不幸と関係しているのかもしれない。
状況を変えたり、状況から脱出するには行動が必要かもしれない。
自分にできることが何もなければ、その事実を見つめよう。
「いまはこういう状況だ。これをそのまま受け入れるのも、それで惨めになるのも自分しだいだ」。

不幸の第一原因は状況ではなく、その状況についてのあなたの思考なのだ。
自分の思考をきちんと観察しよう。
思考を状況と切り離そう。
状況はつねに中立だし、つねにあるがままである。
向こうには状況あるいは事実があり、こちらにはそれについての自分の思考がある。
物語をつくりあげたりせずに、事実とともに留まってみよう。

たとえば「私はもうダメだ」というのは物語だ。
物語はあなたを限定し、効果的な行動を妨げる。
「通帳に五十セント残っている」というのは事実だ。
事実と直面すると、必ず力が湧いてくる。
だいたいは自分の思考が感情を生み出すということに気づこう。
思考と感情のつながりを観察しよう。
思考と感情になりきるよりも、それを後ろから観察して気づく存在になること。

幸せを探してはいけない。
探したら、見つからない。
探すというのは幸せのアンチテーゼだからだ。
幸せはつかみどころがないが、不幸からの解放なら、物語をつくりあげずに事実と堂々と向き合うことによって、たったいま実現できる。
不幸は真の幸せの源である安らぎや満足という本来の状態を覆い隠してしまう。


親であること:役割か機能か?

たいていのおとなは、幼い子どもに話しかけるときには役割を演じている。
子どもっぽい言葉を使ったり、声のトーンを変えたり、目下の者に話しかける態度になる。
子どもを対等の相手と見ない。
だが、とりあえず相手よりよけいにものを知っていたり、身体が大きいからといって、子どもと自分が対等ではないということにはならない。

おとなの大半は人生のどこかで親という最も普遍的な役割の一つを担う。
ここで大事なのは、親という機能に自分を同一化して役割になりきってしまわずに、その機能を充分に果たすことができるかどうかである。
親として必要な機能には、子供の必要性を満たすこと、危険な目にあわないようにすること、ときには何をしなさい、何をしてはいけないと命令することが含まれている。
だが親がアイデンティティになってしまうと、自分という意識のすべてもしくは大半が親という意識に染めあげられ、親という機能が過剰に強調され拡大されて、自分を見失う。
子どもに必要なものを与えるという機能もやりすぎになって、子どもを甘やかしダメにする。
危険を防ぐだけでなく過保護になり、子どもが世界を探検したり自分でいろいろなことを試してみるのを邪魔してしまう。
あれをしなさい、これをしてはいけないという指示が威圧的な支配に変わる。

それだけでなく、アイデンティティになってしまった役割演技は、その機能が必要とされなくなったあとまで引きずられる。
そうなると子どもが成人したあとも、親は親であることを諦められない。
子どもに必要とされたいというニーズを手放せないのだ。
子どもが四十歳になっても、親はまだ「何があなたのためになるか、私がいちばんよくわかっている」などと言う。

なおも親という役割を強迫的に演じ続けるから、真正な人間関係は築けない。
役割で自分を規定している親は、親でなくなることによってそのアイデンティティを失うのを無意識のうちに恐れている。
成人した子どもを支配したい、その行動に影響を及ぼしたいという欲求が妨げられると(それが当然なのだが)、子どもの生き方を批判したり否定したりし、子どもに罪悪感を抱かせようとする。
それもこれもすべて、親としての役割を維持しよう、アイデンティティを確保しようという無意識の試みである。
表面的には子どものことを心配しているように見えるし、当人もそう信じているが、実は自分の役割りアイデンティティを維持したいだけなのだ。

すべてのエゴの動機は利己的な自己強化にあるが、ときには巧みにごまかされていて、そのエゴが働いている当人すら気づかない。
親としての役割に自分を同一化している母親や父親は、子どもを通じて自分がもっと完壁になろうとする。
他者を操ることを通じて自分が感じ続けている欠落を埋めたいというエゴの欲求が子どもに向かう。
子どもを操ろうとする親の衝動の陰には、このほとんど無意識な想定と動機が隠れているが、これが意識されて言葉になれば、きっとこう言い出すに違いない。
「あなたには私が実現できなかったことを実現してもらいたい。
世間の注目を浴びる立派な人になってもらいたい。
そうすれば私もあなたを通じてひとかどの人間になれる。
私を失望させないでほしい。
私はあなたのためにたくさんの犠牲を払った。
あなたの行動を否定するのは、あなたを罪悪感で落ち着かない気持ちにさせて、私の望む通りに動かしたいからだ。
もちろん、何があなたのためになるかは私がいちばんよく知っている。
私はあなたを愛しているし、あなたが私の言う通りにすべきことをするなら、これからも愛してあげる」。

自分が無意識にこんな動機を抱いていると気づけば、それがどれほどとんでもない要求か、すぐにわかるだろう。
背後にあるエゴもその機能不全も見えてくる。
私が話をした親のなかには、「驚いた、私はこんなことをしていたんですか?」とやっとわかった人たちもいた。
自分が何をしているか、何をしてきたかがわかれば、そのむなしさもわかるから、無意識のパターンは自然に終わりを告げる。
気づきは変化の最大の触媒なのだ。

だが親がこの通りであっても、あなたは無意識にエゴに捉えられている、などと親に言ってはいけない。
そんなことを言えばエゴは防衛態勢をとるから、親たちはますます無意識に逃げ込みかねない。
あなたのほうが親のなかのエゴを認識し、エゴと親を区別すればいい。
エゴイスティックなパターンは、たとえ長いあいだ続いてきたものであっても、こちらが抵抗しないでいると奇跡のようにあっというまに消えることがある。
抵抗すれば、相手はますます力をつけるだけだ。
それに相手のエゴイスティックなパターンが消えなかったとしても、親のふるまいにいちいち反応せず、つまりそれを個人的に受けとめず、なるほどそう思うのかと穏やかに受け入れればいい。

それと同時に、定型化した古い自分の反応の陰にある無意識の想定や期待にも気づかなくてはいけない。
「親は私のすることを認めるべきだ。
ありのままの私を理解し、受け入れるべきだ」。
ほんとうにそうだろうか?
どうしてそうすべきなのか?
実は親がそうしないのは、できないからだ。
進化途上の彼らの意識はまだ気づきのレベルへの量子的飛躍を遂げていない。
自分と自分の役割を引き離すことができない。
「それはそうだろうが、親が理解して承認してくれなければ、私は居心地が悪いし、幸せになれない」。
そうなのか?
親が承認してくれようとくれまいと、あなた自身にどんな違いがあるのか?
そういうきちんと検討したことのない想定が、多大のマイナス感情や不必要な不幸の原因となっているのだ。

気をつけたほうがいい。
あなたの心に浮かぶ考えのなかには、内面化されたこんな父親や母親の声が混じっていないだろうか?
「あなたにはまだ足りないところがある。
あなたはきっとろくな者にならない」。
その他似たような批判や見解がくすぶってはいないか?
あなたのなかに気づきがあれば、頭のなかの声の正体は過去に条件づけられた古い思考であると認識することができる。
あなたのなかに気づきがあれば、浮かぶ思考をいちいち信じる必要はなくなる。
それは古い思考、それだけのものだ。

気づきとは「いまに在る」ことを意味する。
「いまに在る」ことだけが、あなたのなかの無意識の過去を解体する。

「自分は悟ったと思うなら、両親を訪ねて一週間一緒に過ごしてごらん」とラム・ダスは言った。
これはいいアドバイスだ。
親との関係はその後のすべての人間関係の基本だというだけではなく、あなたがどこまで「いまに在る」ことができているかの試金石にもなる。
共通の過去が多い人間関係ほど「いまに在る」必要も大きくなる。
そうしないと、何度でも過去を再現して生きなくてはならないからだ。



意識的な苦しみ

幼い子どもがいたらできるだけ助け、指導し、保護してやるべきだが、それよりもっと大切なのは、子どもに場を――生きる場を――与えることだ。
子どもたちはあなたを通してこの世に生れ出るが、「あなたのもの」ではない。
「何があなたのためになるか、わたしが一番よく知っている」という信念は、子どもたちが幼いときは当たっているかもしれないが、大きくなればなるほど見当違いになる。
子どもがどう生きるべきかを期待すればするほど、あなたは子どもたちのために存在するのではなくて、自分の心のなかに引きこもることになる。
すべての人間がそうであるように子どもたちもいつかは過ちを犯すだろうし、何らかの形で苦しみを経験するだろう。
それに親の目から見れば過ちでも、ほんとうはそうではないかもしれない。
あ、なたが過ちだと思っても、それは子どもにはどうしても必要な行為や経験かもしれない。
できるだけの助力や指導はするべきだが、とくにおとなになりかけた子どもには、ときどさは過ちを犯させる必要があることに気づかなくてはいけない。
それにときには苦しませることも必要だ。
苦しみはとつぜん襲いかかってくるかもしれないし、自分の過ちの結果として味わうかもしれない。

子どもが何の苦しみも経験しないように守ってやれればすぼらしいか?
いや、そうではない。
それでは人間として成長できず、浅薄で、外形的な形に自分を同一化したままで終わるだろう。
苦しみは深みのある人間をつくる。
苦しみの原因は形への自分の同一化だが、逆にその苦しみが形との同一化を突き崩す。
苦しみの多くはエゴに起因するが、結局は苦しみがエゴを破壊する――ただし苦しみに意識的でなければならない。

人間は苦しみを乗り越えるようにできているが、しかしエゴが考えるようなやり方で乗り越えるのではない。
エゴの多くの間違った想定の一つ、多くの勘違い思考の一つは、「私は苦しむべきではない」というものだ。
ときにはこの思考は、「私の子どもは苦しむべきではない」という具合に身近な者にまで拡大される。
この考え方そのものが苦しみの根底にある。

苦しみには崇高な目的が、意識を向上させてエゴを焼き尽くすという目的があるのだ。
十字架上のかの人がその原型である。
彼はすべての男であり女だ。
あなたが苦しみに抵抗し続ければ、その抵抗が焼き尽くすべきエゴをさらに生み出すから、苦しみのプロセスは長引く。
だが苦しみを受け入れると、意識して苦しむことによってそのプロセスは加速される。
自分の苦しみを受け入れることもあれば、子どもや親など誰か他者の苦しみを受け入れることもあるだろう。
意識的な苦しみのただなかで、変容はすでに起こり始めている。
苦しみの火は意識の明かりとなる。

エゴは「私は苦しむべきではない」と言うし、その考えがさらにあなたを苦しめる。
これは真実の歪曲で、つねに逆説的だ。
あなたは苦しみを変容させる前に、苦しみにイエスと言う必要がある。それが真実である。


意識的な親

多くの子どもは隠れた怒りや恨みを親に抱いていて、それが真正でない親子関係の原因となることもままある。
子どもは心の奥で親に、親という役割を演じるより(どれほど誠実に演じようとも)人間であって欲しいと思っている。
あなたは子どものために正しいことをして最善を尽くしているかもしれないが、いくら最善を尽くしても、それだけでは足りない。
それどころか正しくても最善でも、行動するだけで、「いまに在る」ことを無視していたのでは、絶対に充分ではない。

エゴは「いまに在る」ことについては何も知らないから、行動によって救われると信じている。
あなたもエゴの罠に落ちているなら、行動をどんどん積み重ねていけば、いつかは充分な「行動」によって自分を完全だと感じられるはずだと思っている。
だが、そうはならない。
行動のなかで自分を失うだけだ。
現代文明そのものが、「いまに在る」ことに根ざしていない。
したがって無駄な行動のなかで自分を失っている。

どうすれば忙しい家庭生活のなかに、子どもとの関係に、「いまに在る」ことを持ち込めるか?
鍵は、子どもに関心を注ぐことだ。
ただし、関心には二種類ある。
一つはいわば形に基づく関心で、もう一つは形のない関心だ。
形に基づく関心は、つねに何らかの形で行動や評価と関係する。
「宿題はやったの?さっさと食事をしなさい。部屋を片づけなさい。歯を磨きなさい。
これをしなさい。あれをしてはいけない。急いでさっさとしなさい」。

次にしなければならないことは何か?
この間いが多くの家庭生活を要約している。
形に基づく関心ももちろん必要だし、それが有効な場がある。
だが親子関係にそれしかないと最も重要な次元がなおざりにされ、行動、つまりイエスが「この世の思い煩い」と言ったことによって、「いまに在る」ことが完全に覆い隠されてしまう。
形のない関心は、「いまに在る」次元と不可分だ。
それはどんなふうに働くか?

子どもを見つめ、話を聞いてやり、触れ合い、あれこれを手伝ってやるときにはその瞬間以外は何も望まず、決して上の空にならず、穏やかに、静かに、完全にいまこのときだけを意識していること。
そうすれば、「いまに在る」ことが可能になる。
あなたがその瞬間に在るなら、そのとき、あなたは父親でも母親でもない。
あなたは静かな気づきとなって「存在」し、その「存在」が耳を傾け、見つめ、触れ、話すだろう。
あなたは行動の奥にある「存在」になる。


子どもを認める

あなたは人間という大いなる存在(human being)だ。
これは何を意味するか?
人生のコツは支配にではなく人間(human)と大いなる存在(Being)のバランスを見つけることにある。
母親、父親、夫、妻、若者、老人、演じる役割、果たすべき機能、何であれ行動はすべて人間(human)の次元に属する。
人間の次元にはそれなりの場所があり、尊重すべきだが、それだけでは充分に満たされた真に意義ある人間関係や人生にはならない。

そこで大いなる存在(Being)の出番だ。
これは静かで鋭敏ないまに在る意識のなかで見つかる。
その意識があなただ。
人間とは形であり、「大いなる存在」には形がない。
人間と「大いなる存在」は別々ではなく、不可分にからみあっている。

人間の次元では、あなたはもちろん子どもより上だ。
大きいし、強いし、知識も多く、たくさんのことができる。
その次元しか知らなければ、あなたはたとえ無意識であっても子どもに優越感をもつだろう。
そして子どもにはたとえ無意識であっても劣等感を抱かせる。
あなたと子どもは対等ではない。親子関係に形しかなく形のうえではもちろん親子は対等ではないからだ。
あなたは子どもを愛しているだろうが、その愛は人間の次元でしかない。
つまり条件つきで、独占歌がからみ、波がある。
形を超えた「大いなる存在」の次元でのみ、あなたがたは対等だし、自分自身のなかに形のない次元を発見できたときにだけ、親子関係に真の愛情が生まれる。
その「大いなる存在」とはあなたであり時間のない「私は在る」であり、その「大いなる存在」を他者のなかに認めたとき、この場合は子どものなかに認めたとき、子どもは愛されていると感じるし、自分が認められていると感じる。

愛するとは、他者に自分自身を認めることだ。
そのとき、他者の「他者性」は人間的な領域、形の領域に属する幻想としての正体を現す。
すべての子どものなかにある愛への欲求は、形のレベルだけでなく「大いなる存在」のレベルでも認められたいという欲求である。
親が人間の次元だけで子どもを尊重し、「大いなる存在」の次元を無視するなら、子どもは親子関係に満足せず、不可欠な何かが欠けていると感じ、子どものなかに苦しみが積みあがっていき、ときには無意識のうちに親を恨むだろう。
「どうして、私を認めてくれないの?」。
子どもの苦しみや恨みはそう言っているように聞こえる。

誰かがあなたを認めてくれたとき、認め認められた二人を通じて「大いなる存在」の次元がこの世界により豊かに導き入れられる。
それがこの世界を救い出す愛である。
これは親子関係という具体的な事例についての話だが、もちろんすべての人間関係にあてはまる。

「神は愛である」と言われるが、これは厳密に言えば正確ではない。
神は無数の生命体のなかにあって、しかもその生命体を超える「ひとつの生命」だ。
愛とは二元性を意味する。
愛する者と愛される者、主体と客体である。
だから愛とは二元性の世界において一元性を認識することなのだ。
これが形の世界に生まれ出た神である。

愛はこの世界をこの世界らしくなくする。
愛によってこの世界はより軽やかになり、透明になって聖なる次元と意識そのものの光を透通させる。


役割を演じることをやめる

どんな状況でも、その役割に自分を同一化せずに、しなければならないことをする。
これがこの世に生まれ出た私たちが学ぶべき人生の基本的なレッスンである。

何をするにしても、役割というアイデンティティを守ったり強化したりするために、あるいは役割にはめ込むために行動するのではなく、ただ目的を達成するために行うとき、人はとても力強くなる。
どんな役割もでっちあげられた自己意識で、その意識を通じてすべてが個人的に受けとめられ、心がつくりあげた「小さな私(little me)」とそれが演じる役割によって汚されたり歪められたりする。
多少の例外はあるものの、政治家、テレビの司会者やニュースキャスター、ビジネスリーダーや宗教界の指導者などこの世界で権力者の地位にある人々の大半は、その役割に完全に自分を同一化している。
彼らはVIPとして扱われているかもしれないが、いくら重要らしく見えても結局は真の目的などないエゴというゲームの無意識のプレーヤーであることに変わりはない。

シェークスピアの言葉を借りれば、「愚者のおしゃべり、わいわいがやがや、騒がしいばかりで何の意味もない」。
驚いたことに、シェークスピアはテレビなどない時代にこの結論に達している。
地上で繰り広げられているエゴのドラマに何か目的があるとするなら、それは間接的なものだろう。
エゴのドラマはこの地上にさらに多くの苦しみを撒き散らしていくのだが、その苦しみはだいたいがエゴによって創り出されたものなのに、結局はエゴを破壊するからだ。
苦しみはエゴが自らを焼き尽くす炎なのである。

役割と演技だらけの世界では、心が創り出したイメージを投影しない人たち(こういう人はテレビ界やメディアの世界、ビジネスの世界にも存在する)、その存在の深い核心から機能を果たし、自分を実際以上に大きく見せようとはせず、ただ自分らしくある人たちは、際立った光彩を放っているし、こういう人たちだけがこの世界をほんとうに変えることができる。
彼らは新しい意識の担い手だ。
彼らの行動はすべて、全体の目的に合致しているから力強い。
しかも彼らの影響力はその行動や機能をはるかに超えたところまで及ぶ。
彼らが――シンプルに自然に控えめに――存在するだけで、出会う人々を変容させる効果がある。

役割を演じていないとは、行動に自己(エゴ)がでしゃばらないということだ。
自分自身を守ろうとか強化しようという下心がない。
その結果、あなたの行動ははるかに大きな力をもつ。
あなたは完全に状況に焦点をあわせる。
いまの状況とひとつになる。
とくにこういう人間になろうとは思わない。
完壁に自分自身であるとき、あなたは非常に力強く、その力は効果的だ。

だが、自分自身であろうという努力はやめたはうがいい。
それもまた一つの役割になるからだ。
「かまえない自然な私」という役割だ。
あれこれになろうと努力を始めたとたんに、あなたは役割を演じる。
「ただ自分らしくあればいい」というのは優れたアドバイスだが、誤解もされる。
心が介入してきて、こう言うのだ。
「ええと、待ってくださいよ。どうすれば、自分らしいだろう?」。
そして心はある種の戦略を立てる。
「自分らしくある方法」だ。
これも役割である。

「どうすれば自分らしくあることができるか?」というのは、質問として間違っている。
自分自身であるために、何かをしなければならないのか。
あなたはすでに自分自身なのだから、ここでは「どうすれば」という言葉はふさわしくない。
すでにある自分に無意識のよけいな荷物を負わせるのはやめたはうがいい。
「だが私は自分が何者なのかわからない。
自分らしくあるというのがどういうことなのか、わからない」。

自分が何者かわからなくてもぜんぜんかまわないと思えたら、そのとき残っているのがあなただ――人間(human)の奥にある大いなる存在(Being)、すでに定義された何かではなく、純粋な可能性が展開する場である。

自分自身を――自分にも他人にも――定義することはやめよう。
定義をやめても死にはしない。
それどころか定義をやめれば生命を取り戻す。
それから、他人があなたをどう定義するかを気にするのもやめよう。
定義する人は自分自身を制約しているのだから、それはその人たちの問題だ。
人々とつきあうときには、横能や役割であるよりも、意識的に「いまに在る」場として向き合おう。

エゴはどうして役割を演じるのか?
きちんと検討されていない想定、基本的な過ち、無意識の思考のせいだ。
その思考とは「私は充分ではない」ということである。
この思考から、次のような思考が導かれる。
「私が充分に自分自身であるために必要なものを獲得するには、役割を演じなくてはならない」
「もっと存在するためには、もっと獲得しなくてはならない」。
だが、自分よりもっと多く存在することなどできない。
あなたという肉体的心理的な形の奥では、あなたは「生命(Life)」そのもの、「大いなる存在(Being)」そのものとひとつだからだ。
形のうえでは、あなたは誰かより劣り、誰かより優れているだろう。
だがあなたの本質は誰にも劣っていないし、優れてもいない。
それを認識したときに、真の自尊心と真の慎み深さが生まれる。
エゴの目から見ると、自尊心と慎み深さは矛盾している。
ほんとうは両者は同じものなのだ。


病的なエゴ

言葉の広い意味では、どんな形をとろうとエゴはそれ自体が病的(pathological)だ。
「pathological」という言葉のギリシャ語の語源を見ると、これがエゴにどれほどぴったりかがよくわかる。
この言葉はふつうは病気の状態を表現するのに使われるが、もともとは苦しみや悲しみを表すpathosから来ている。
もちろん二千六百年前にブッダが人間存在の本質は苦だと見抜いた、あの苦である。

エゴに囚われている人は苦しみを苦しみと認めず、どんな状況でもそれが唯一適切な対応だと考える。
エゴには自分が自分自身や他者に及ぼす苦しみが見えない。
不幸はエゴが創り出した精神的な病だが、それが伝染病と化している。
地球の環境汚染と同様の心の汚染だ。
怒りや不安や憎悪、恨み、不満、羨望、嫉妬、その他のネガティブな状態がネガティブと感じられず、完全に正当化され、しかも自分が創り出したのに他人か何らかの外部要因のせいだと勘違いされている。
「私の苦痛はあなたのせいだ」。
エゴはいつもそう言う。

エゴは状況と状況に対する解釈および反応を区別できない。
「なんてひどい天気だ」と言うあなたは、寒さや風雨その他あなたが反応した状況が「ひどい」わけではないと気づかない。
ひどいと反応したのはあなたであり、あなたの内なる抵抗であって、ひどいなあという感情はその抵抗が生み出したものだ。
シェークスピアの言葉を借りれば、「ものごと自体には良いも悪いもない。良いか悪いかは考え方ひとつ」なのである。
しかも苦しみや否定的な状態もある程度までならエゴの強化に役立つため、エゴは往々にしてそれを喜びと勘違いする。

たとえば怒りや恨みは他者との分離意識を強め、他者の他者性を拡大して、「正義」という一見難攻不落の砦(とりで)のような精神状態を生み出すので、エゴが大幅に強化される。
そういうネガティブな状態になったとき、自分にどんな心理的変化が起こるか、また心肺や消化器、免疫系その他無数の身体機能にどんな悪影響が出るかを観察できれば、その状態が病的であり、喜びではなく苦しみの一形態であることは一目瞭然だろう。

ネガティブな状態になったとき、あなたのなかには必ずその状態を望む何者かがいて、そのネガティブな状態を喜びだと感じるか、それによって欲しいものが手に入ると信じている。
そうでなければ、どうしてネガティブな状態にしがみつき、自分や他人を惨めにして身体的な病を創り出したがるのか。
だから自分のなかにネガティブな状態が生まれたとき、そのネガティブな状態に喜びを感じる、あるいはそれが目的達成に役立つと考える部分があると気づけたなら、あなたはまさにエゴに気づいたことになる。
そのとき、あなたのアイデンティティはエゴから気づきへとシフトしている。
エゴが縮み、気づきが成長したということだ。

ネガティブな状態のさなかに、「いまこの瞬間、私は自分で苦しみを創り出して自分を苦しめている」と気づくことができれば、それだけで条件に限定されたエゴイスティックな状態と反応という限界を乗り越えることができる。
気づきによって訪れる無限の可能性が開ける。
どんな状況にも知的に対応できる可能性である。
こんなのは知的ではないと気づいた瞬間に、あなたは自分の不幸から解放されて自由になる。
ネガティブな状態は知的ではない。
それはつねにエゴである。
エゴは小賢しいかもしれないが、知的ではない。
小賢しさは小さな目的を追いかける。
知性はすべてが関連したもっと大きな全体像を見る。
小賢しさは利己心によって動機づけられ、きわめて近視眼的だ。
政治家やビジネスマンのほとんどは小賢しい。
知的な人はとても少ない。
小賢しさによって獲得したものは長続きせず、結局は自己破壊につながる。
小賢しさは自分や人々を分断し、知性はすべてを包み込む。


そこはかとない不幸

エゴは分離を創り出し、分離は苦しみを創り出す。
したがってエゴは明らかに病的だ。
ネガティブな状態には怒りや憎悪など見てすぐにわかるものの他に、もっと微妙な状態があって、それはふつうネガティブとはみなされていない。
たとえば短気、苛立ち、神経質、「うんざり」な状態などだ。
こういう状態がそこはかとない不幸を生み出す。
それが多くの人の日常的な状態だ。

そこに気づくためにはすこぶる鋭敏で、絶対的に「いまに在る」必要がある。
そんなふうになれれば、それこそが気づきの瞬間であり、心の支配から脱するときだ。

ごく一般的なネガティブな状態で、だからこそ簡単に見すごされ、あたりまえだと思われているものがある。
あなたにもきっと馴染みがあるはずだ。
あなたはしばしば、そこはかとなく恨みがましい気持ちというのがぴったりの感情を経験するのではないか?
これという原因がある場合もない場合もあるだろう。
多くの人は人生の大半をこういう状態で過ごす。
その状態とあまりに同一化してしまって、客観的に見られないので、自分では気づかない。
その底流にあるのは、ある種の無意識の信念、思考の集まりだ。
そういう思考は眠っているときに見ている夢と同じようなもので、夢を見ている人が夢を見ていると思っていないように、自分で考えているとは意識せずに考えている。

次にあげるのは、そのようなそこはかとない不満や恨みの感情を煽る無意識の思考のごく一般的なものである。
ここでは内容は抜き取って、むき出しの骨格だけを残してある。
そのほうがわかりやすいからだ。
あなたが人生の背景に(あるいは前景に)不幸を感じたら、次のどの思考の骨格があてはまるかを考え、個人的な状況に応じて内容を補足してみるといい。

「私が安らぎを得るには(幸せになるには、満たされるには、等々)、あることが起こる必要がある。
それが起こっていないのが不満だ。
不満に思っていれば、そのうちそれが起こるかもしれない」

「過去に起こってはならないことが起こった。
それを私は恨んでいる。
あれが起こらなかったら、私はいま安らかな気持ちでいられたのに」

「いま起こってはならないことが起こっている。
そのせいで私は安らかな気持ちでいられない」

この無意識の信念はよく誰かに向けられ、「起こる」べきことが「する」べきことになる。

「あなたはあれこれをするべきだ。
そうすれば、私は安らかな気持ちでいられる。
それをあなたがしないから、私は恨んでいる。
恨んでいれば、あなたはそれをするかもしれない」

「過去にあなた(私)のしたこと、言ったこと、あるいはしなかったことのせいで、いま私は安らかな気持ちでいられない」

「いまあなたがあることをしようとしないために、私は安らかな気持ちでいられない」


幸福の秘訣

先にあげたのはすべて検討されていない想定、思考で、それが現実と混同されている。
どれも、あなたがいま安らかな気持ちでいられない、いま充分に自分らしくいられない理由として、あなたを説得するためにエゴが創り出した物語だ。
安らかな気持ちでいられるのと自分らしくいられるのとは同じことである。

エゴは言う。
将来のいつか、私は安らかな気持ちになれるかもしれない――あれやこれやが起これば、これが得られれば、こうなれば、あるいはこう言う。
私は決して安らかな気持ちにはなれない。
なぜなら過去にこんなことがあったから。
人々の物語はみんな、「どうして私はいま安らかな気持ちになれないのか?」という物語だ。
エゴはあなたが安らかな気持ちになれるチャンスはいましかないことを知らない。
知っていても、あなたがそれに気づいては大変だと恐れている。
安らぎはエゴの終わりだからだ。

それでは、いま安らぎを得るにはどうすればいいか?
いまという瞬間と仲直りをすることだ。
いまという瞬間は、生命というゲームが展開している場である。
生命は他のどこで展開することもあり得ない。
いまという瞬間と仲直りしたら何が起こるかを、自分には何ができ、どんな行動を選ぶことができるかを、それよりもあなたを通して生命がどう展開するかを見つめよう。

生きる秘訣、すべての成功と幸福の秘訣は、次の言葉に要約できる。
「生命とひとつになること」。
生命とひとつになることは、いまという時とひとつになることだ。
そのときあなたは、自分が生命を生きているのではなく、生命があなたを生きているのだと気づく。
生命が踊り手で、あなたが舞踊なのだ。

エゴは現実を恨むのが大好きだ。
どんな現実か?
どんな現実でも、である。
ブッダはそれを夕タータ、あるがままの人生と呼んだ。
あるがままの人生とは、あるがままのこの瞬間でもある。
あるがままの人生、あるがままのこの瞬間に対抗する、それがエゴの特徴の一つだ。
それによってネガティブな状態が創り出され、そのネガティブな状態のおかげでエゴが肥え太り、エゴの大好きな不幸が生まれる。
そうやってあなたは自分も他人も苦しめるが、自分ではそれに気づかないし、自分がこの地上に地獄を創り出しているとも思っていない。
知らずに苦しみを創り出す、それが無意識な生き方の本質だ。
完全にエゴに囚われた生き方である。
自分を認識できず、自分が何をしているかもわからないエゴの無能力さは驚異的で、まさに信じがたい。

エゴは他人を糾弾するが、自らがそれとまったく同じことをしているのに気づかない。
その事実を指摘されれば怒って否定し、巧みに反論し、自己正当化のために事実を歪曲する。
個人もそうだし、企業も政府もそうだ。
そしてすべての対抗策に失敗すると喚き散らし、物理的暴力まで振るう。
海兵隊を派遣する。
そう考えると、十字架上のイエスの「彼らをおゆるしください。自分で何をしているかわかっていないのです」という言葉がどれほど深い智恵から発していたかがよくわかる。

何千年も人類を苦しめてきた悲惨さに終止符を打つには、まず与えられた瞬間の自分の内面の状態に自分が責任をもつことから始めなくてはならない。
つまり、たったいまからである。
自分自身に聞いてみよう。
「いまこの瞬間、自分のなかにネガティブな状態がないか?」。
それから自分の感情や思考を冷静に見つめる。
先にあげた不満や苛立ちや「うんざり」した気分など、低レベルの不幸が自分のなかにないかを観察しよう。
とくにその不幸を正当化したり説明する思考(実はそれが不幸の原因なのだ)に気をつけて観察しよう。
自分のなかにネガティブな状態があると気づいても、それは失敗ではない。
それどころか成功である。
そこに気づかない限り、内面の状態と同一化したままであり、それがエゴとの同一化なのだから。

だが気付けば、思考や感情や自動的な反応と自分が切り離される。
これを否認と混同してはいけない。
否認ではなく思考や感情や自動的な反応の認識で、認識の瞬間にそれらとの同一化が解消する。

あなたは自己を、自分が何者かを意識し、そこで変化が起こる。
それまでのあなたは思考であり感情であり自動的な反応だった。
だがいまのあなたは気づきであり、「いまに在る」意識として内面状態を観察している。

「私はいつか、エゴから解放されるだろう」。
そう言っているのは何者か?
エゴだ。
エゴからの解放は決して大それた偉業ではなくちょっとした仕事にすぎない。
必要なのは自分の思考と感情に――それが起こったときに――気づくこと。
これはしっかりと「観察する」ことで、「行動」ではない。
その意味では、エゴからの解放のためにできることは何もないというのは当たっている。
思考から気づきへの変化が起こると、エゴの小賢しさよりもはるかに偉大な知性があなたの人生に働き始める。
気づきによって、感情や思考さえも個人的なものではなくなる。
それが本来、個人的なものではないことがわかってくる。
もうそこには自己はない。
ただの人間的な感情、人間的な思考だ。
あなた個人が生きてきた物語(それは結局は7つの物語にすぎない)、思考と感情の塊の重要性は二の次になり意識の前面を占領することはない。
もうあなたのアイデンティティの基盤ではなくなる。
あなたは「いまに在る」という光になり、思考や感情よりも先行するもっと深い気づきになる。


エゴの病的な形

病的という言葉を機能不全や苦しみまで含めた意味で使うなら、これまで見てきたようにエゴは本質的に病的である。
精神障害の多くは、ふつうの人々にも見られるエゴの特徴を示している。
ただ、苦しんでいる当人は別として、誰の目から見ても明らかなほど極端になったというだけだ。

たとえばふつうの人でも、自分を重要人物に、特別な存在に見せたい、人々に印象づけたいがために、ときおりウソをついたりする。
誰と知り合いか、どんな業績や能力や所有物があるか、その他エゴが同一化することなら何でもそういうウソの対象になる。
ところがなかには、自分が不充分だから「もっと」大きく見せなければならないというエゴの不安に駆り立てられて、常習的、強迫的にウソをつく人がいる。
彼らが自分について語る物語は完全に幻想で、自分をもっと大きく特別な人間に見せるための虚構の大建造物なのだ。
ときにはその壮大にふくらませたイメージで人をだますこともできるが、たいていは長続きしない。
ほとんどの人にはたちまちまったくの虚構だとばれてしまう。

妄想型統合失調症、略して妄想症という病気は、基本的にはエゴの誇張された形だ。
ふつうはつきまとう不安を理屈づけるために、心が虚構の物語をつくりあげる。
たいていはある種の人々(それが多数に、あるいはほとんどすべての人になることもある)が自分を陥れようとたくらんでいるとか、自分を支配しようとしている、殺そうとしているという物語だ。
そしてこういう物語の多くはそれなりに一貫性があって筋が通っているので、ときにはだまされて信じ込む人も出てくる。

組織や国家全体の基盤にこういう妄想症的な信念体系が存在することもある。
エゴの不安と他者への不信や相手の欠陥をあげつらうことに集中し、その欠陥を相手のアイデンティティと思い込んで、それによって他者の「他者性」を強調する傾向が進むと、他者は非人間的な怪物にされる。
エゴには他者が必要なのだが、しかし深いところで他者を憎み恐れているというジレンマがある。
ジャン・ポールル・サルトルの「地獄とは他者だ」という言葉はエゴの叫びだ。
この地獄をいちばん強烈に体験するのは妄想に苦しむ人たちだが、エゴのパターンが作用している人はすべて、程度の差はあっても同じことを感じるだろう。
あなたのなかのエゴが強ければ強いほど、人生でぶつかる問題は誰か他人のせいだと思うはずだ。
それに、きっとまわりの人たちに生き難い思いをさせていることだろう。
もちろんあなたはそれに気づけない。
いつも苦しめられているのは自分なのだ。

妄想症にはすべてのエゴにある要素が極端な形になった症状がもう一つある。
自分が迫害されている、監視されている、脅かされていると思えば思うほど、患者は自分が宇宙の中心ですべては自分のまわりを回っていると考え、これほど多くの人々の関心の対象となる自分は特別な重要人物だと感じる。
これほど多くの人に迫害される犠牲者だということで、自分が非常に特別な存在になるわけだ。
その妄想体系の基本をなす物語のなかでは、当人は被害者であり、同時に世界を救い悪の軍隊を打ち負かすかもしれない力を秘めた英雄なのである。

部族や国家、宗教組織の集団的エゴも強烈な妄想的要素を有していることが多い。
われわれ対邪悪な彼ら、という思い込みだ。
この妄想が人類に多大の苦しみをもたらしてきた。
異端者や「魔女」を裁判にかけて焼き殺したスペインの異端審問、第一次世界大戦と第二次世界大戦につながった国家間の関係、共産主義体制の歴史、「冷戦」、一九五〇年代のアメリカの「マッカーシズム」、中東で延々と続く武力紛争や人類史の苦痛に満ちたエピソードのすべてが極端な集団的妄想に支配されている。

個人や集団や国家が無意識であればあるほど、エゴの病理が物理的暴力という形をとる。
暴力は原始的だが、エゴが自分を確認し、自分が正しくて相手が間違っていることを証明しようと試みる方法としていまでも広くはびこっている。
無意識が強い人たちの場合には、議論は簡単に物理的暴力に発展する。
議論とは何か?
二人以上の人が見解を表明し、その見解が異なるということだ。

それぞれは自分の見解をつくりあげた思考に自分を同一化し、その思考が自己意識という衣をまとって精神のなかに凝り固まっている。
言い換えれば、アイデンティティと思考がひとつに溶け合っている。
こうなると、自分の見解(思考)を擁護しようとするとき、まさに自分自身を擁護しているように感じて、その通りに行動する。
議論は無意識のうちに自己の存在をかけた闘いになるから、感情もその無意識の信念を反映する。
そうなると人は荒れ狂う。
動揺し、怒り、防戦し、攻撃する。
どんな犠牲を払っても勝たなければならない、そうでなければ自分が滅びると思う。

しかしこれは妄想だ。
心や精神的な立場と自分自身が何者であるかとは何の関わりもないことを、エゴは知らない。
エゴとは観察されていない精神だからである。
禅では「真理を求めるな。ただ思念を捨てよ」と言う。
これはどういうことか?
心との同一化を捨てなさい、ということだ。
そうすれば、心を超えたあなた自身が姿を現す。


エゴがつきまとう仕事、つきまとわない仕事

多くの人はエゴから解放された瞬間を経験している。
例外的に優れた仕事をしている人たちは、仕事をしているときに完全にあるいはほほエゴから解放されている。
当人はそうは思っていないかもしれないが、こういう人たちの仕事はスピリチュアルな修行になっている。
そのほとんどは仕事をしているときには完全に「いまに在り」、私生活では比較的に無意識な状態に戻る。
これは彼らの「いまに在る」ことが当面は人生のある領域に限られていることを意味している。

私は教師や芸術家、看護師、医師、科学者、ソーシャルワーカー、ウエイター、ヘアドレッサー、会社のオーナー、セールスマンなど、自分探しなどしないで、その瞬間瞬間に求められることに充分に応え、賞賛すべき仕事を成し遂げている人たちに会ってきた。
彼らは仕事とひとつになり、「いま」とひとつになり、ともにいる人たちや遂行している業務とひとつになっている。
このような人たちの影響は、それぞれの仕事を超えてもっと遠くまで広がる。
彼らと出会う人たちもエゴが軽減されるからだ。
こういう人たちとの関わりでは、重いエゴを抱えた人たちでさえ緊張を解いて防備を緩め、役割を演じるのをやめる。
エゴに邪魔されずに仕事をする人が大成功するのも不思議ではない。
自分がしていることとひとつになれる人は、新しい地を築く。

技術的には優秀なのに、いつもエゴが仕事を邪魔している人たちも大勢知っている。
この人たちは関心の一部だけが仕事に向かっている。
他の部分は自分自身に向けられているからだ。
彼らのエゴは認められたがり、充分な承認が得られないと恨みがましくなって、エネルギーを無駄遣いする。
しかも充分認められることなどあり得ない。
「誰かが私より認められているのではないか?」。

あるいは利益や権力に関心が集中して、仕事が目的のための手段になっている。
目的のための手段と化した仕事には、質の高さは望めない。
こういう人たちは仕事で障害や困難にぶつかり、ものごとが予想どおりにならないと、または他人や状況が不利に働いて協力的でなくなると、新しい状況とひとつになって現在の要請に応えるのではなく、状況と対立し、自分をそこから引き離す。
個人的にむかついたり恨みがましくなった「私」に、無駄な抵抗や怒りに多大のエネルギーが費やされる。
ほんとうはそのエネルギーを問題解決に注げばいいのに、エゴが乱用してしまう。
しかもこの「対抗」的なエネルギーは、新たな障害、新たな対立を生みだす。
実は多くの人にとって最大の敵は自分自身なのだ。

誰かが「私」より成功したり良い成績を上げたりするのがおもしろくなくて、その人たちを助けたり、情報提供したりするのを拒むとき、あるいは他人の足を引っ張ろうとするとき、当人は知らず知らずのうちに自分自身の仕事を邪魔している。
下心があるときは別として、エゴにとって協力は無縁なのだ。
エゴは自分が他者を包み込めば包み込むほどものごとが円滑に流れるし、仕事がやりやすくなることを知らない。
あなたが人を助けなかったり邪魔をしたりすると、(人々と環境という形をとる)宇宙はあなたを助けてはくれない。
あなたが自分を全体から切り離したからだ。
エゴが無意識のうちに抱え込む「まだ充分ではない」との思いが誰かの成功に反応し、その成功は「私」から奪われたものだと感じる。
他人の成功を恨む気持ちが自分の成功のチャンスを狭めていることをエゴは知らない。
成功を引き寄せるためには、誰の成功であっても歓迎するべきなのに。


病気とエゴ

病気はエゴを強くも弱くもする。
不満を言ったり自己憐偶に耽ったり病気を恨んだりしていると、エゴは強くなる。
「私はこれこれの病気に苦しむ患者だ」というわけだ。
また病気を自分の観念的なアイデンティティの一部に取り込んでも、エゴは強まる。
なるほど、あなたは患者なんですね、ということになる。

いっぽう、ふつうの暮らしをしているときにはエゴが強かったのに、病気になると急に穏やかに優しく親切になる人たちがいる。
そういう人たちは、ふつうに暮らしていたときにはなかった洞察を得られたのだろう。
内面的な知力や充実感に触れて、智恵の言葉を語るようになるのだ。
そして、痛気が回復してエネルギーが戻ると、エゴも復活する。

病気のときはエネルギーレベルが非常に低いため、生体の知性が働き、残っているエネルギーは身体を癒すために使われる。
だから精神のための、つまりエゴイスティックな思考や感情のためのエネルギーが不足する。
エゴには相当量のエネルギーが必要だ。
だが場合によっては、残ったわずかなエネルギーを依然としてエゴが使っていることがある。
言うまでもないが、病気になったときにエゴが強くなる人たちは、病気の治癒に時間がかかる。
なかには回復できずに病気が慢性化し、間違った自己意識のなかに恒久的に組み込まれてしまうこともある。


集団的なエゴ

自分自身を生きるとは、なんと難しいことか!
エゴが不満足な自己から逃れる方法の一つは、集団に――国家や政党、会社、機関、党派、クラブ、徒党、フットボールチームなどに――自分を同一化して、強く大きくなったつもりになることだ。

ときには報酬も名誉や栄達も求めず、集団の大きな目的のために生涯をささげ、個人的なエゴが完全に溶解したように見えることもある。
個人的な自己というすさまじい重荷から解放されれば、さぞやせいせいするだろう。
そういう集団のメンバーはどれほど仕事が大変でも、どれほどの犠牲を払っても、満ち足りて幸せだと感じる。
彼らはエゴを超越しているように見える。
問題は、ほんとうにエゴから解放されたのか、それともエゴが個人から集団にシフトしただけなのか、ということだ。

集団的なエゴには紛争や敵が必要で、もっともっとと要求し、相手が間違っていて自分が正しいと思わずにはいられないというように、個人的なエゴと同じ特徴を示す。
集団が遅かれ早かれ別の集団と対立するのは、無意識に紛争を求めており、対立相手との関係で自分の境界を決定し、それによってアイデンティティを確認する必要に迫られるからだ。
そうなると、集団のメンバーはエゴに突き動かされた行動に必ずつきまとう苦しみを体験する。
そのときに目が覚めれば、自分たちの集団には激しい狂気の要素が潜んでいたことに気づくだろう。

自分が同一化し献身していた集団が実は狂気をはらんでいたと気がつくのは、最初はつらいかもしれない。
そこでひねくれてシニカルになり、それ以降はすべての価値や重要性を否定する者も出てくる。
だがそれは以前の信念体系が妄想だと判明して崩壊したあと、あわてて別の信念体系を採用しただけのことだ。
そういう人たちは自らのエゴの死と直面せず、逃げ出して新たなエゴとして生まれ変わる。

集団的なエゴはふつう、集団を形成する個人よりも無意識度が高い。
たとえば(一時的なエゴ集団である)群集は、一人ならやらないような残虐行為を平気でやってのける。
個人なら即座に精神病質と認定されるような行為を国家が実行することも珍しくはない。

新しい意識が芽生えると、その啓かれた意識を反映する集団をつくりたいと感じる人たちもいるだろう。
その集団は集団的エゴではない。
その集団を形成している個人には、もう集団を通じてアイデンティティを確認する必要はないから、自分たちを定義する形を求めようとは思わないだろう。
たとえメンバーがまだ完全にはエゴから解放されていなくても、自分や他者のなかでエゴが頭をもたげればすぐに気づくくらいには目覚めているはずだ。
それでも、つねに注意を怠らないでいる必要はある。
エゴはあらゆる方法を使って自分を主張し支配しようと虎視耽々と狙っている。

啓かれた企業、慈善団体、学校、地域的コミュニティのいずれであろうとも、気づきの光のなかに引き出して人間のエゴを解体することがこうした集団の主たる目的になる。
啓かれた集団は新しい地を生み出す新しい意識を芽生えさせるために重要な役割を果たすだろう。
エゴイステケツクな集団はあなたを無意識と苦しみに引きずり込むが、啓かれた集団は地球の変化を加速させる意識の旋風となる可能性がある。


不死の決定的な証拠

人間は心のなかで自分を「私(T)」と「対象としての私(me)」、あるいは「対象としての私(me)」と「私自身(myself)」という二つの部分に分けてしまうが、その裂け目からエゴが生じる。
したがってパーソナリティの分裂ということから言えば、エゴはすべて統合失調症だ。

あなたは自分自身という観念的なイメージを抱き、それと関わりながら生きている。
生命(人生)そのものも概念化され、「私の生命(my life)」というように、あなた自身とは別個のものとして捉えられている。
「私の生命(my life)」と言ったり考えたりするとき、そして(単なる言葉の約束事としてではなく)その言葉を自分でも信じているとき、あなたは妄想の領域に入っている。
「私の生命(my life)」というものがあるなら、私と生命とは別ものだということになるから、大切な宝物だと思っている生命を失うこともあり得る。
したがって死が現実の脅威になる。
言葉と概念が生命を、それ自体は何のリアリティもない二つの部分に分割してしまうのだ。
だから「私の生命(my life)」という言い方こそ、分離分割という妄想のもとでのエゴの源泉だと言うことさえできる。
私と生命が別個で、私は生命と別に存在するなら、私はすべてのもの、すべての存在、すべての人々とも別々だ。
だが、私が生命と別に存在するなんてことがあるだろうか?
生命や「大いなる存在(Being)」と離れて、どんな「私」があり得るのか?
まったく不可能だ。
だから、「私の生命(my life)」なんてものはないし、私が生命を所有しているのでもない。
私が生命そのものなのだ。

私と生命はひとつである。
それ以外はあり得ない。
それなら、どうして私が生命を失うことが可能だろう?
そもそも、もってもいないものをどうすれば失えるのか?
私は私であって、私の所有物ではない。
私が私を失うことなど、まったく不可能だ。



 

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