ニュー・アース   第5章 ペインボディ―私たちがひきずる過去の古い痛み

「ニュー・アース―意識が変わる 世界が変わる―」(サンマーク出版)
エックハルト・トール(著),吉田 利子(翻訳)



















第5章 ペインボディ―私たちがひきずる過去の古い痛み


エゴから解放される瞬間

ほとんどの人の思考の大半は自動的反復的で、意図したものではない。
一種の精神的な雑音で、これといった目的はない。
厳密に言えば、あなたが考えているのですらない。
思考があなたに起こっているだけだ。

「私は考える」と言えば意志的な行為を意味する。
自分の意志を働かせることができ、選択することができることになる。
だが、たいていの人の場合はそうではない。
「私は考える」というのは、「私は消化する」「私は血液を循環させる」というのと同じで、文章として成り立っていない。
消化「が」起こり、循環「が」起こり、思考「が」起こる。

頭のなかの声は勝手な生き物だ。
ほとんどの人はその声に引きずり回されている。
思考に、心に、取りつかれている。
心は過去によって条件づけられているから、あなたは何度も繰り返して過去に反応し続けるしかない。
東洋ではこれをカルマと呼ぶ。

この頭のなかの声に自分を同一化しているときには、もちろんそれがわからない。
わかればもう取りつかれてはいないわけだ。
自分に取りついた相手を自分だと誤解し、それになりきっているのが取りつかれているということだから。

何千年かのあいだに人間はますます心に取りつかれるようになり、取りついた相手は「自己ではない」ことに気づかないできた。
心に自分を完全に同一化することによって、間違った自己意識が――エゴが――現れ出る。
エゴの強固さは、あなたが――意識が――心つまり思考と自分をどの程度同一化させているかで決まる。
思考は意識つまりあなたという総体のごく小さな側面でしかない。

心への同一化の程度は人によって異なる。
なかにはほんの短い時間にせよエゴから解放される瞬間があり、そのときに人生に生きる価値を与えてくれる安らぎや喜び、生命の躍動感を体験する人もいる。
創造力や愛や共感が生まれるのもそういうときだ。

だが、つねにエゴイスティックな状態に陥っている人たちもいる。
そういう人たちは他者や周囲の世界だけではなく、自分自身からも疎外されている。
そんな人たちを見ると、表情に緊張感があって、たぶんしかめっ面で、視線が宙に浮いていたり、やたらと何かを見つめていたりするかもしれない。
関心のすべてが思考に吸い取られているので、実際には相手を見ていないし、相手の言葉を聞いてもいない。
その人たちはどんな状況でも現在に生きていない。
過去か未来に関心が集中している。

もちろん過去も未来も彼らの心のなかに思考として存在するだけだ。
さもなければ、人と向かいあっていてもほんとうの自分としてつきあうのではなく役割を演じている。
たいていの人は自分自身から疎外されているし、なかにはそのふるまいや人間関係がほとんど誰にでも「ウソ臭い」とわかるほどの人たちもいる。
ただし同じように疎外がひどくてウソ臭い人たちにはわからないが。

疎外とはどんな状況どんな場においても、自分自身に対してさえ、気持ちを楽にできないということだ。
いつも「うち」に戻りたいと思うが、決して「うちにいるようにのんびり」できない。

二十世紀の偉大な作家の中にはフランツ・カフカ、アルベート・カミュ、T・S・エリオット、ジェームズ・ジョイスのように、この疎外こそが人間存在の普遍的なジレンマであると気づいた人たちがいる。
たぶん、彼らは自分でも深い疎外感を覚えていて、だからこそそれを見事に作品に表現できたのだろう。
だが、彼らは解決策を示していない。
彼らの功績は、われわれにもはっきりとわかるように人間の窮状を映し出して見せたことだ。
自分の窮状をはっきりと観察することは、それを乗り越える第一歩だからである。


感情の誕生

思考の流れに加えて、(もちろんそれと不可分な)もう一つのエゴの次元がある。
感情だ。
だからといって、すべての思考、すべての感情がエゴだというのではない。
思考や感情がエゴになるのは、あなたが思考や感情に自分を完全に同一化したとき、つまり思考や感情が「私」になったときだ。

すべての生命体と同じくあなたの身体にも有機体としての身体自身の知性がある。
その知性はあなたの心の言うことに反応し、あなたの思考に反応する。
感情は心に対する身体の反応なのである。

もちろん身体の知性は普遍的な知性と不可分であり、その無数の現れの一つだ。
その知性は原子や分子を一時的に凝集させてあなたの肉体をつくりあげている。
身体の各器官の働きの奥にある組織化原理であり、酸素と食物をエネルギーに変換し、心臓を鼓動させて血液を循環させ、免疫システムによって身体を侵入者から守り、五感からのインプットを神経の信号に変換して脳に送り、解析し、外界の現実と整合性のある内的イメージにまとめあげている。
このような働きのすべて、それに同じような何千もの機能は、この知性によって完壁に調整されている。

あなたが自分の身体の営みを指図しているのではない。
生命体の知性がそれをしている。
さらにその知性は、環境に対する有機体の反応もつかさどっている。

これはどんな生命体でも同じだ。
たとえばこの知性のおかげで、植物が物理的な形として芽を吹いて花を咲かせ、その花は朝になると花びらを開いて日光を浴び、夜になると閉じる。
また、地球という複雑な生命体すなわちガイアとして現れているのもこの知性である。

この知性の働きで、有機体は脅威や挑戦にさらされると本能的に反応する。
動物でも怒りや恐怖、喜びなどの人間感情に似た反応が起こる。
このような本能的な反応は原初の形の感情と考えてもいい。

ある種の状況では、人間も動物と同じように本能的な反応を経験する。
危険に直面して有機体の生存が脅かされたとき、戦うか逃げるかという選択を迫られて呼吸が速くなる。
原初的な恐怖だ。
追い詰められれば、それまでは考えられなかったような大きなエネルギーがとつぜん身内に湧き起こる。
原初的な怒りである。

こういう本能的な反応は感情に似ているが、真の意味での感情ではない。
本能的な反応と感情の基本的な違いはこういうことだ。
本能的な反応は外的な状況への身体の直接的な反応であるのに対し、感情のほうは思考への身体の反応なのである。

感情も、間接的には実際の状況や出来事に対する反応であり得るが、それは精神的な解釈や思考というフィルター、つまり善悪や好悪、「私に(me)」や「私のもの(mine)」という観念を通して見た状況や出来事への反応だ。

たとえば誰かの車が盗まれたと聞いても何の感情も湧かないだろうが、それが「あなたの車」だったらたぶんあわてるだろう。
「私の(my)」というささいな観念がどれほど大きな感情を生むか、まったく驚くしかない。

身体はとても知的だが、実際の状況と思考との区別をつけられない。
だからすべての思考にそれが事実であるかのように反応する。
ただの思考だとは気づかない。

身体にとっては不安や恐れという思考は「私は危険だ」ということだから、その通りに反応する。
たとえ温かくて快適なベッドに夜ぬくぬくと寝ていても、である。
心臓はどきどきするし、筋肉は緊張するし、呼吸は速くなる。
エネルギーが湧き出るが、危険というのは頭のなかの虚構にすぎないから、溜まったエネルギーの捌(は)け口がない。
その一部は心に還流して、さらに不安な思考を生み出す。
残るエネルギーは調和のとれた身体機能に介入して有害に働く。


感情とエゴ

観察されていない心やあなた自身のふりをする頭のなかの声だけでなく、観察されていない感情(頭のなかの声に対する身体的反応)もエゴである。
これまでにエゴイスティックな声が終始どんなことを考えているか、また内容とは関係なく思考プロセスの構造にどんな本質的機能不全があるかを見てきた。
この機能不全の思考に、身体はネガティブな感情で反応する。

身体は頭のなかの声が語る物語を信じて反応する。
この反応が感情である。
そして今度は感情が、感情を生み出した思考にエネルギーを供給する。
これが観察も検討もされない思考と感情の悪循環で、感情的な思考と感情的な物語づくりにつながる。

エゴの感情的要素は人によって違いがあり、とくにその要素が大きいエゴもある。
身体の感情的な反応のきっかけとなる思考がほんの一瞬のうちに起こり、心が語るより先に身体が感情で反応して行動になることもある。
このような思考は言語以前の状態で、言葉にならない無意識の想定と呼んでもいい。
その根源はその個人の過去、ふつうは子ども時代によって条件づけられている。
たとえば、原初的な人間関係(親や兄弟姉妹との人間関係)によって支えられず、他者への信頼を築けなかった人には、「人は信用できない」という無意識の想定があるかもしれない。

他によく見られるのは、
「誰も私を評価し、感謝してくれない。
闘わなければ生き延びられない。
私は豊かになる価値がない。
私は愛されなくてあたりまえだ」などという想定である。
このような無意識の想定が身体のなかに感情を創り出し、それが心の活動や瞬間的な反応を呼び起こす。
こうして個人の現実が生み出されていく。

エゴの声はつねに身体本来の安らかな状態を攪乱(かくらん)し続ける。
ほとんど誰の身体も大きな重圧とストレスにさらされているが、これは外部的な要因に脅かされているからではなくへ内側の心のせいだ。
身体にはエゴが貼りついているから、身体はエゴがつくり出す機能不全の思考パターンのすべてに反応する。
こうして片時も途切れない強迫的な思考の流れにネガティブな感情が伴う。

ネガティブな感情とは何か?
身体に有害で、バランスのとれた安定した機能を邪魔する感情である。
恐怖、不安、怒り、悪意、悲しみ、憎しみや憎悪、嫉妬、羨望――どれも身体を流れるエネルギーを攪乱し、心臓や免疫システム、消化、ホルモン生成などを妨げる。

まだエゴの働きについてほとんど知らない主流派の西欧医学ですら、ネガティブな感情と身体的疾病のつながりに気づき始めている。
身体を害する感情は当人だけでなく出会う人々にも伝染し、連鎖反応を通じて会ったこともない無数の人々に影響する。
このネガティブな感情をひっくるめて言い表す言葉がある。
「不幸」だ。

それならポジティブな感情は身体に良い効果を及ぼすのか?
免疫システムを活性化し、身体を癒して元気にするだろうか?
実はそのとおりなのだが、エゴが生み出すポジティブな感情と、「大いなる存在」とつながった本来の状態から生じるもっと深い感情とは区別しなければならない。

エゴが生み出すポジティブな感情のなかにはすでに反対物が含まれていて、瞬時にその反対物に変化する可能性がある。
たとえばこんな具合だ。
エゴが愛と呼ぶものには独占欲や依存的な執着が含まれているから、あっというまにそれらに変化しかねない。
これからの出来事に対する期待は未来へのエゴの過大評価だから、その出来事が終わってしまったり、エゴの期待通りにならなければ、簡単にその反対物――落胆や失望――に変わる。

賞賛や承認を受ければ、いっときは生きていてよかったという幸せな気分になるだろうが、批判や無視にぶつかるとすぐに拒否されたと暗い気持ちになる。
楽しいどんちゃん騒ぎの翌朝は、荒涼とした気分と二日酔いに襲われる。
悪のない善はないし、高く上れば必ず落ちる。

エゴが生み出す感情は、心が外部的な要因に自分を同一化させているから起こるのだし、もちろんその外部的な要因は不安定であてにならず、いつも変化をはらんでいる。
これよりもっと深い感情は実は感情ではなく「いまに在る」という状態だ。
感情は二項対立の領域にある。
「いまに在る」状態は覆い隠されることもあるが、そこには反対物はない。
そして「いまに在る」状態は、愛や喜びや安らぎ(あなたの本質のさまざまな側面)として、あなたの内部から発している。


カモに人間の心があったら

私の著書「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」のなかで、二羽のカモの喧嘩について書いた。
カモの争いは決して長くは続かず、すぐに別れてそれぞれ別の方向に泳ぎ去る。
それから二羽は何回か激しく羽ばたいて、喧嘩のあいだに積み上げられた余分のエネルギーを放出する。
そのあとは羽をたたみ、何ごともなかったようにのんびりと水に浮かんでいる。

このカモに人間の心があったら、思考と物語づくりのせいで争いは長引くだろう。
カモはたぶんこんな物語を創る。
「あいつがあんなことをするなんて、まったく信じられない。
あいつは私と五インチも離れていないところまで近づいてきた。
この池を自分のものだとでも思っているのか。
私のプライベートな場への配慮ってものがぜんぜんないじゃないか。
あんなやつ、二度と信頼できないぞ。
この次はどんな嫌がらせをするかわかったものじゃない。
きっともう何かたくらんでいるんだろう。
だが、こっちだって黙ってはいないからな。
二度と忘れないくらい、ひどい日にあわせてやる」。
こうして心はいつまでも物語を紡ぎ続け、何日も何か月も、それどころか何年も考え続けるだろう。

身体にとって闘いはいつまでも続き、このような思考に反応するエネルギーとして感情が生まれ、その感情がまた思考の火に油を注ぐ。
これがエゴの感情的な思考だ。
カモに人間の心があったら、その暮らしがどれほど大変かおわかりだろう。

ところが、おおかたの人間はいつもこんなふうに暮らしている。
どんな状況も出来事も決して完全には終結しない。
心と心が創った「私と私の物語(me and my story)」がいつまでも尾を引く。

私たちは道に迷った種なのだ。
花も樹木も動物も自然はすべて、私たちのほうが立ち止まって見つめ、耳を澄ませば、大事なことを教えてくれる。
カモが教えてくれるのはこういうことだ。
ばたばたと羽ばたいて――つまり「物語を手放して」――唯一の力強い場へ、現在という瞬間へ戻りなさい。


過去にこだわる

人間がいかに過去を手放せないか、あるいは手放す気はないかを見事に示した禅僧の逸話がある。
担山という禅僧が、友人の僧と一緒に豪雨のあとでひどくぬかるんだ田舎道を歩いていた。
村の近くまで来ると、道を渡ろうとしている若い娘に出会ったが、水たまりが探くて着ている着物が汚れそうだった。
担山はすぐに娘を抱き上げて水たまりを渡してやった。
そのあと二人の僧は黙々と歩き続けた。五時間ほどして、その夜の宿になる寺が見えてきたとき、友人がとうとう黙っていられなくなって口を切った。
「あなたはどうしてあの娘を抱き上げて、道を渡してやったのか?」。彼はそう言った。
「僧というものは、ああいうことをすべきではないと思うが」。
「私はもうとうに娘を下ろしたのに」と担山は答えた。
「きみはまだ、抱いていたのかね?」。

この友人のように暮らし、状況を手放せず、また手放す意志をもたずに、心のなかにどんどん溜め込み積み重ねていたら、どんな人生になるか想像していただきたい。
それがおおかたの人々の人生なのだ。
彼らがこだわって心の中に溜めこんでいる過去と言う重荷の何と重いことか。

過去の人生は記憶としてあなたのなかに生き続けるが、その記憶自体は問題ではない。
それどころか記憶のおかげで過去から、そして過去の過ちから学ぶことができる。
記憶、つまり過去に関する思考にあなたが完全に支配され、それが重荷に変わったときに初めて記憶が問題となる。
そしてあなたの自己意識の一部になる。
過去に条件づけられた人格があなたの牢獄となる。
記憶が自己意識の衣をまとい、あなたの物語があなたの考える「私」になる。
この「小さな私(little me)」は幻想で、時も形もない「いまに在る」状態というあなたの真のアイデンティティを覆い隠してしまう。

あなたの物語は頭のなかの記憶だけでなく感情的な記憶、すなわちありありと甦(よみがえ)る古い感情によっても構成されている。
思考によって恨みをふくらませつつ、五時間もこの恨みという重荷を抱えていた禅僧のように、ほとんどの人は不必要に大量の精神的感情的荷物を一生抱えていく。
彼らは不満や後悔や敵意や罪悪感で自分に小さな枠をはめてしまう。
感情的な思考が自己になっているから、そのアイデンティティを強化するために古い感情にしがみつく。

人間には古い記憶を長々とひきずる傾向があるから、ほとんどの人はエネルギーの場に古い感情的な苦痛の集積を抱えている。
私はこれを「ペインボディ」と呼んでいる。

だが、すでにもっているペインボディを大きくするのを避けることはできる。
昨日あるいは三十年前に何が起こったにしろ、カモが羽ばたくように古い感情を溜め込む習慣を打破し、心のなかでいつまでも過去をひきずるのをやめることは可能だ。
状況や出来事を心のなかにいつまでも生かしておいて心のなかの映画づくりを延々と続ける代わりに、つねに自分の関心を本来の状態、永遠のいまに引き戻すことを学べばいい。
そうすれば、思考や感情ではなく「いまに在る」ことがアイデンティティになる。

あなたが「いまに在る」ことを妨げる過去の出来事など何もない。そして現在に在ることを妨げる力がないとしたら、過去にいったいどんな力があるというのか?


個人と集団

ネガティブな感情が湧いたときには、きちんと向き合ってその正体を確認しておかないと、その感情が解消されず、あとに痛みが残る。
とくに子どもはネガティブな感情があまりに強いとどうすることもできなくて、それを感じないようにする傾向がある。
敏感なおとながそばにいて理解し、ネガティブな感情とまっすぐ向き合うように愛情と共感をもって指導してやれればいいが、そうでない場合には、子どもにとっては感じないことが唯一の選択肢なのだ。

残念ながら、こういう子どものころの防衛メカニズムは成人後もひきずっていることが多い。
ネガティブな感情は認識されずに当人の中に残り、不安や怒り、発作的な暴力、むら気、さらには肉体的な病気などの間接的な形で現れる。
心理療法士ならたいてい経験しているように、完壁に幸せな子ども時代を送ったと患者が主張しても、あとになって実は話がまったく違っていたことがわかるケースがある。
ここまでいくと極端だが、感情的な痛みを感じることなしに子ども時代を過ごした人間は誰もいない。
両親がどちらも聡明であってもなお、人はだいたいは無意識の世界で育っていくものなのである。

きちんと向き合い、受け入れ、そして手放すという作業がなされなかったネガティブな感情は痛みを残す。
その痛みが積み重なり、身体の全細胞で活動するエネルギー場をつくりあげる。
このエネルギー場を形成するのは子ども時代の痛みだけではない。
青年期や成人後のつらい感情も付加されていく。
その大半はエゴの声が生み出したものだ。
人生のベースに間違った自己意識があると、感情的な痛みという道連れは避けがたい。

ほとんどすべての人がもっている古くからの、しかしいまも生き生きと息づいているこの感情のエネルギー場、それがペインボディである。
しかしペインボディは非個人的な性格もあわせもっている。
延々と続く部族間闘争や奴隷制、略奪、強姦、拷問、その他の暴力に彩られた人類の歴史を通じて、数えきれない人々が体験してきた痛みもそこには含まれている。
この痛みがいまも人類の集団的心理のなかで生きていて、日々積み重ねられていることは、夜のテレビニュースを見れば、あるいは人間関係で繰り広げられるドラマに目をやれば一目瞭然だ。
まだ明らかになってはいないが、集団的なペインボディはたぶんすべての人間のDNAにコード化されているのだろう。

この世界に生まれ出る新生児はみな、すでに感情的なペインボディをもっている。
なかにはとくに重くて密なペインボディをもっている者もある。
いつも幸せそうな赤ん坊もいるし、大きな不幸を抱えているように見える赤ん坊もいる。
充分な愛情や関心を注がれていないためによく泣く赤ん坊がいるのは確かだが、とくにこれという理由もないのに、まるで周囲の人間を自分と同じように不幸にしてやりたいと思っているような赤ん坊もいる(たいていはその通りになる)。
こういう赤ん坊は人類の苦痛の分け前をとくにたくさんもって生まれてくるのだ。

母親や父親が放出するネガティブな感情を察知してよく泣く赤ん坊もいるだろう。
親のネガティブな感情が赤ん坊に痛みを与え、親のペインボディのエネルギーを吸収して大きくなった赤ん坊のペインボディをさらに成長させるのだ。
いずれにしても、赤ん坊が育つにしたがってペインボディも大きくなる。

軽いペインボディをもって生まれた子どもが、重いペインボディをもった子どもよりも霊的(スピリチュアル)に「進歩した」おとなになるとは限らない。
それどころか、逆の場合のほうが多い。
どちらかといえば重いペインボディをもった人たちのほうが、ペインボディが軽い人たちよりも霊的(スピリチュアル)な目覚めに達する可能性が大きい。
もちろんなかには重いペインボディの罠に落ち込んだままの人たちもいるが、多くは自分の不幸にもう耐えられないという段階に達し、それが目覚めの強い動機になる。

何故苦しむキリストが、苦悶に歪む顔と無数の傷口から血が吹き出ている身体が、人間の集団的な意識にとってかくも重要なイメージとなっているのか?
(とくに中世に)おびただしい人々がキリストのイメージに深く動かされたのは、自分自身のなかに共鳴する何かがあったからで、彼らは無意識のうちにキリストに自分自身の内なる現実――ペインボディ――の表現を見ていたのだろう。
この人々はまだ自分のなかの痛みを直接に認識できるほどは意識が進んでいなかったが、しかし気づきかけてはいたのだ。
キリストは人間の原型であり、人間の苦痛と苦痛の超越の可能性を体現していると見ることができる。


ペインボディはどのように糧を補充するか

ペインボディはほとんどの人間のなかに息づいている半自立的なエネルギー場で、感情からつくりあげられた生き物のようなものだ。
このペインボディは狡猾な動物のような原始的知性をもっていて、その知性を主に自らが生き残るために働かせる。
すべての生命体と同じく、ペインボディもときおり糧を――新たなエネルギーを――取り入れなくてはならない。
ペインボディが補充する糧とは、それ自身と同種のエネルギー、いわば同じ周波数で振動しているエネルギーだ。

感情的につらい体験は、何でもペインボディの糧になる。
だからこそ、ペインボディはネガティブな思考や人間関係の波乱によって肥え太る。
ペインボディは不幸依存症なのだ。

自分のなかにネガティブな感情と不幸を求める何者かがいると気づいたら、あなたはショックを受けるかもしれない。
これは他人の場合のほうがわかりやすく自分のなかにもそれがあると気づくためには進んだ意識が必要だ。
一度不幸に支配されると、あなたは不幸を終わらせたくないと思うばかりでなく、まわりの人間も同じように惨めにして、彼らのネガティブな感情的反応という糧を吸収したいと思う。

ほとんどの人の場合、ペインボディが眠っている時期と活動している時期がある。
ペインボディが眠っているときは、自分のなかに重い黒雲が(ペインボディのエネルギー場の種類によっては休火山が)あるのを簡単に忘れる。
休眠期がどれくらい続くかは人によってまちまちだ。
数週間というのがいちばん多いが、数日あるいは数か月かもしれない。
何年も冬眠していたのが何かのきっかけで活動し始めることもある。


ペインボディの糧となる思考

ペインボディは空腹になると、糧を補充するために目覚める。
それに、いつなんどきでもなんらかの出来事が目覚めのきっかけになる可能性がある。
ペインボディが糧を補充しょうという態勢になっていれば、ほんのささいな出来事でも、誰かが言ったりしたりしたことや単なる思考でも活動開始のきっかけになる。

一人で暮らしていたり、たまたま周りに誰もいなければ、ペインボディは当人の思考を糧にするだろう。
ふいにあなたの思考はひどくネガティブになる。
ネガティブな考えが流れ込む直前に、ある感情が――不安や激怒のような暗く重苦しい気分が――心に侵入していたことにはたぶん自分でも気づかない。

すべての思考はエネルギーで、ペインボディはあなたの思考というエネルギーを食らおうとするが、どんな思考でもいいわけではない。
とくに敏感でなくても、ポジティブな思考とネガティブな思考とでは感覚的なトーンがまったく違うことがわかるだろう。
どちらもエネルギーなのだが、周波数がまったく異なる。
幸せでポジティブな思考はペインボディの糧にはならない。
ペインボディはネガティブな思考だけを消化する。
それだけが自分のエネルギー場に一致した思考だからだ。

物質はすべてへ絶え間なく振動するエネルギー場である。
あなたが座っている椅子も手にもっている本も固くて動かない物質に見えるが、それはあなたに感じ取れない周波数で振動しているからだ。
物質は椅子も本も木も身体も、絶え間なく振動する分子、原子、電子、量子が創り出している。
私たちが物質として知覚しているのは特定の幅の周波数のエネルギーの振動だ。

思考も同じくエネルギーの振動だが、周波数が物質よりも高いので見ることも触れることもできない。
思考には思考の周波数帯があり、ネガティブな思考は低いほうの、ポジティブな思考は高いほうの周波数で振動している。
ペインボディの振動の周波数はネガティブな思考の周波数と共振している。
だからネガティブな思考だけが糧になる。

思考が感情を生み出すというのがふつうのパターンだが、ペインボディの場合は、少なくとも最初は逆転している。
ペインボディから発した感情があなたの思考を乗っ取る。
心がペインボディに乗っ取られると、思考はネガティブになる。
頭のなかの声はあなた自身やあなたの人生について、他の人々について、過去や未来について、あるいは想像上の出来事について、悲しくて不安な、あるいは怒りに満ちた物語を語り出す。

その声は非難し、糾弾し、不満を言い、空想する。
あなたはその声の語ることに自分を完全に同一化し、その歪んだ考えを何もかも信じる。
この時点で不幸への依存症が根を下ろす。

ネガティブな思考の流れは止められないわけではないが、あなたは止めたいと思わない。
ペインボディがあなたを通じて息づいていて、あなたのふりをしているからだ。
ペインボディにとっては痛みが喜びなのだ。
そしてあらゆるネガティブな思考をせっせと貪る。
それどころか、あなたの頭のなかのいつもの声がペインボディの声に変わる。
内的な対話を乗っ取ってしまう。

ペインボディとあなたの思考のあいだで悪循環ができあがる。
あらゆる考えがペインボディの糧となり、いっぽうペインボディはさらに多くの思考を生み出す。
こうして数時間あるいは数日でペインボディは糧の補充を終わり、また眠りにつく。
あとに残されるのはへとへとになったあなたと、弱って病気にかかりやすくなった身体だ。
それでは精神的な寄生体ではないかと思われるなら、あなたは正しい。
その通りなのだから。


ペインボディの糧となる波乱

まわりに誰か(パートナーや家族ならなおいい)がいると、ペインボディは人間関係に波乱を起こして糧にするために、その人たちを挑発しようと――スイッチを入れようと――する。
ペインボディが親密な人間関係や家族を好むのは、多くの糧を摂取できるからだ。
あなたを刺激して反応を起こさせようとする他人のペインボディに抵抗するのはとても難しい。
相手は直感的にあなたのいちばん弱いところ、いちばん傷つきやすいところを知っている。
しかも一度でうまくいかなければ何度でも挑発を繰り返す。
それはさらなる感情を求める生の感情だ。
相手のペインボディはあなたのペインボディを目覚めさせ、両方のペインボディがお互いにエネルギーを活性化しあうように仕向けたがる。

多くの人間関係では、間をおいて定期的に暴力的かつ破壊的なペインボディのエピソードがもちあがる。
幼い子どもにとって両親のペインボディの感情的暴力を目にすることはほとんど耐え難いのに、世界中の何百万人という子どもがそういう悪夢を日常的に体験している。
これも人類のペインボディが世代から世代へと引き継がれていく多くの道筋の一つだ。
それぞれのエピソードのあと、パートナーは仲直りをして、エゴがゆるす限りという期限つきだが比較的平和な幕間がやってくる。

とくに男性だが、女性でもアルコールの飲みすぎはペインボディを目覚めさせやすい。
酔っ払ってペインボディに乗っ取られると、性格が激変する。
無意識の度合いが深くペインボディが他人への暴力から習慣的に糧を摂取している場合には、その暴力は妻や子どもに向かいやすい。
そういう男性は酔いがさめると心から後悔し、もう二度と暴力を振るわないと言うかもしれない。
当人は本気でそう考えているのだが、しかし後悔して約束する者と暴力を振るう者とはまったく別だ。
だから当人が「いまに在る」ことができて、自分のなかのペインボディを認識し、そこから自分を引き離さない限り、暴力は必ず繰り返されるだろう。
場合によってはカウンセリングを受けるのも役に立つ。

ほとんどのペインボディは暴力を振るいたがるし、痛みを受けたがるが、なかには圧倒的に加害者か被害者のどちらかになるものもある。
どちらにしても感情的あるいは物理的な暴力を糧としていることに変わりはない。
「恋に落ちた」つもりが、実は補完的な相手のペインボディにひかれあったというカップルもある。
どちらが加害者でどちらが被害者の役をするか、初対面のときからはっきりしている場合もある。
神の思し召しのような理想的な結婚と思われたものが実は地獄の結婚かもしれない。

ネコを飼ったことがおありなら、ネコは眠っているように見えても周囲の出来事を察知していることをご存じだろう。
わずかな物音にもネコは耳を立て、日を細く開ける。
休眠中のペインボディも同じだ。
あるレベルではいつも目覚めていて、きっかけさえあればぱっと起き出そうとする。

親密な人間関係では、二人が一緒に暮らし始め、さらに残る人生を共に過ごすという契約書にサインするまで、ペインボディは賢く身を潜めていることが多い。
あなたは夫や妻とだけ結婚するのではなく相手のペインボディを――相手もあなたのペインボディを――含めて結婚する。
一緒に暮らし始めて、あるいは新婚旅行から戻ってまもなくパートナーの人格が完全に変化したことにとつぜん気づいたら、さぞやショックだろう。
あるとき、妻は荒々しい声や甲高い声であなたを非難し、罵り、喚きたてる。
それもたいていはほんのささいなことのためだ。
まったくよそよそしくなることもある。
「どうかした?」とあなたは聞く。
「別に」と彼女は答える。
だが彼女が発する敵意に満ちたエネルギーは、「何もかもまずいのよ」と告げている。
目をのぞいても、もうそこに光は見られない。
まるで重いベールに覆われたようで、あなたが知って愛した存在、かつてはエゴを突き抜けて輝き出ていた存在はまったく隠れてしまっている。
見も知らぬ他人があなたを見返す。
その目は憎悪と敵意と苦々しさと怒りを湛(たた)えている。
彼女が話しかけるとき、語っているのは配偶者、パートナーではない。
配偶者、パートナーを通してペインボディがしゃべっている。
彼女の語る現実はペインボディ版のそれで、その現実は恐怖と敵意と怒りと、もっと苦しめたい、苦しみたいという欲望に完全に歪められている。

こうなるとあなたは、それがいままで見たことのないパートナーのほんとうの顔かと思い、この人を選んだのは恐ろしい間違いだったのではないかと考えるかもしれない。
もちろん、それはほんとうの顔ではなく、一時的にその人を乗っ取ったペインボディにすぎない。
ペインボディを抱えていないパートナーを見つけるのは難しいが、しかしペインボディがあまり重くない相手を選ぶほうが賢明というものだろう。


重いペインボディ

決して休眠しない重いペインボディをもっている人もいる。
そういう人たちもふつうに微笑んだり礼儀正しい会話をしているかもしれないが、一皮むけば不幸な感情の塊がふつふつとたぎっていて、ことあるごとに反応しよう、誰かと対決したり非難したりしよう、何か不幸なことを見つけようとしていることは、超能力者でなくても感じ取れる。
彼らのペインボディは、いつも飢えていて飽き足りるということがない。
そのために敵を必要とするエゴの性格がさらに激しくなる。

彼らが他人を刺激して自分のドラマに巻き込むと、このペインボディの反応のために、比較的ささいなことから不相応な大爆発が起こる。
組織や個人を相手に無意味な闘争や訴訟を際限なく続ける人がいる。
元配偶者やパートナーに偏執的な憎悪を抱いて、他のことが目に入らなくなる者もある。
こういう人たちは自分が抱えている痛みを自覚しておらず、自分の反応を通じてその痛みを出来事や状況に投影する。
自覚がまったくないので、出来事と出来事に対する自分の反応を区別できない。
彼らにとっては不幸や痛みそのものさえも、出来事や状況の中に存在している。
自分の状態に気づいていないから、自分が大変不幸だとも苦しんでいるとも思っていない。

こういう重いペインボディの持ち主がなんらかの理想を掲げた運動家になることがある。
理想は確かに立派だろうし、最初は運動も効果を上げるかもしれない。
だが彼らの言動に流れるネガティブなエネルギーと、敵や紛争を必要とする無意識のせいで、反発する者が増えていく。
彼らの運動はふつうは自らの組織のなかに敵を生み出して終わる。
この人たちはどこに行っても不愉快の種を見つけ出すからで、それによってペインボディは求めるものを得ることができるのだ。


娯楽、メディアとペインボディ

あなたが現代文明に無縁だとしたら、別の時代、別の星からやってきたとしたら、まず驚くことの一つが、何百万人もの人々がわざわざお金を払って人が殺しあい苦しめあうのを眺めて喜び、それを「娯楽」と呼んでいることだろう。

どうして暴力的な映画がこれほど観客を集めるのか?
暴力映画は一つの産業を形成していて、その大半は人間の不幸依存症を煽っている。
人々がそういう映画を見るのは、嫌な気分になりたいからだろう。
人間はなぜ嫌な気分になるのが好きで、それが良いと思うのか?

もちろんペインボディのせいだ。娯楽産業の大部分はペインボディにサービスしている。
つまり出来事への反応、ネガティブな思考、個人的なドラマに加えて、映画やテレビを通した追体験によっても、ペインボディは糧を補充している。
そういう映画の脚本を書くのも、映画を製作するのも、お金を払ってその映画を見るのもペインボディである。

それではテレビや映画で暴力を表現し、その作品を鑑賞するのはつねに「いけない」ことなのか?
すべての暴力表現がペインボディへのサービスなのだろうか?

人類のいまの進化の段階では、暴力は依然としてはびこっているどころか増大している。
古いエゴイスティックな意識が不可避的な終幕を迎えるより前に、集団的なペインボディによって増幅され強化されているのだ。
映画が暴力を大きな全体像のなかで表現するなら、その原因と結果を明らかにし、そのために加害者も被害者もどのような目にあうかを示し、その奥にあって世代から世代へと受け継がれていく集団的無意識を(人間のなかでペインボディとして息づいている怒りと憎悪を)暴露してみせるなら、その映画は人類の目覚めに重要な役割を果たす可能性がある。
人類が自分の狂気を映して見る鏡になるだろう。
(それが自分自身のものであっても)狂気を狂気と認識するのは正気だし、目覚めだし、狂気の終わりだからである。

そのような映画は存在するし、ペインボディの火に油を注ぐこともない。優れた反戦映画のなかには、戦争を美化するのではなく、その実態を教えてくれるものがある。
ペインボディが糧とするのは暴力を普通のこととして、それどころか好ましい人間行動として描いたり、観客のネガティブな感情を刺激するだけの目的で暴力を美化し、痛み依存症のペインボディのための「装置」となる映画なのである。

また一般大衆紙はニュースを売るよりもネガティブな感情を――ペインボディの糧を――売ることを主眼としている。
「激怒」だの「ろくでなし」だのという言葉が大活字で躍る。
とくに目立つのは英国の大衆紙だ。
ニュースを載せるよりもネガティブな感情を煽るほうがはるかに新聞が売れることを、関係者はよく知っている。

テレビを含め、マスコミ全体にネガティブなニュースを取り上げたがる傾向がある。
事態が悪化すればするはどアナウンサーや司会者は興奮するし、マスコミ自らネガティブな興奮を煽ることも多い。
ペインボディはその手のことが大好きなのだ。


女性の集団的ペインボディ

ペインボディの集団的側面には違った系統もある。
民族、国家、人種へどれも独自の集団的なペインボディをもっていて、なかには比較的重いものもあり、それぞれの民族、国家、人種のメンバーのほとんどは多かれ少なかれ、そのペインボディを分かち合っている。

また、ほぼすべての女性が集団的ペインボディを分かちもっていて、とくに生理の直前期になると活性化する傾向がある。
そのときには多くの女性が激しいネガティブな感情に押し流されるように感じる。

とくにここ二千年の女性原理の抑圧によって、エゴは人類の集団的心理のなかで圧倒的な優位を獲得した。
もちろん女性にもエゴはあるが、どちらかといえば男性のほうがエゴは深く根を下ろし、簡単に成長する。
女性は男性よりも精神に自分を同一化する度合いが低いためだ。

女性は男性に比べてインナーボディや直感的能力の発生源である生体の知性とより触れ合っている。
女性は男性ほど強固な殻に包まれていないので、よりオープンで、他の生命の形に敏感で、自然界と調和している。

地球上の男性エネルギーと女性エネルギーの均衡が崩れていなかったら、エゴの成長はもっと大幅に抑制されていただろう。
私たちは自然に闘いを挑むこともなく、自分という「大いなる存在(Being)」からこれほど完全に疎外されもしなかったのではないか。

記録がないので正確な数字はわからないが、ローマカトリック教会の「異端審問」によって三百年間に三百万人から五百万人の女性が拷問され殺害されたのはほぼ確かだ。
これは間違いなく人類史でホロコーストと並ぶ突出した暗黒の章の一つである。
女性たちはただ動物をかわいがったり、一人で野原や森を歩いたり、薬草を集めただけで、魔女の賂印を押され、拷問にかけられて火あぶりにされた。
聖なる女性性は悪魔的だと宣告され、人類の経験からこの側面がほぼかき消された。
これほど暴力的ではないにしろ、その他の文明や宗教にも(ユダヤ教やイスラム教、仏教にさえも)女性的側面を抑圧してきた経緯がある。
女性の地位は子を産む道具、男性の所有物にまで定められた。
自分自身のなかの女性性さえも否定した男性が世界を支配し、世界は完全にバランスを崩した。
そのあとのことは人類の歴史(というよりも狂気の症例と言うべきか)が示している。

集団的な妄想としか言いようのないこの女性恐怖の責任は誰にあるのか?
もちろん、男性だろう。
それではなぜシュメール、エジブト、ケルトなどのキリスト教以前の古代文明の多くで女性が敬われ、女性原理が恐れられるどころか尊重されたのか?

とつぜん女性性に脅かされると男性に感じさせたのは何か?
男性のなかで発展したエゴだ。
エゴは男性という形を通じてのみ、この地球を支配できると知っていたし、そのためには女性を無力化しなければならなかった。

時がたつにつれ、エゴは大半の女性をも支配していったが、その支配は男性の場合ほど確固としたものにはならなかった。

現在私たちは女性性の抑圧が内部化された時代に生きている。
多くの女性もその例外ではない。
抑圧された聖なる女性性を、多くの女性は感情的な痛みとして感じている。
それどころかその痛みは、女性が出産、強姦、奴隷化、拷問、暴力的な死を通じて何千年も積み上げてきた痛みとともに女性たちのペインボディの一部となっている。

だが、いま状況は急激に変化しつつある。
意識の目覚めを経験する人が増えて、エゴは人類の心に対する支配力を失おうとしている。
女性の場合、エゴはさほど潔く根づいていなかったから、男性よりも女性に対するエゴの支配力のほうが先に緩み出している。


国家や人種とペインボディ

とくに多くの集団的暴力を経験してきた国々は、集団的ペインボディが他国よりも重い。
だから歴史の古い国のほうが強力なペインボディをもっている。
カナダやオーストラリアのような若い国々や、周辺の狂気から比較的隔離されてきたスイスなどのような国では、集団的ペインボディはまだ軽い。
もちろんこのような国でも、人々には取り組むべき個人的なペインボディがある。
鋭敏な感覚の持ち主なら、ある種の国々で飛行機から降り立ったとたんに重いエネルギー場を感じるだろう。
また日常的な暮らしのすぐ下に潜在的な暴力のエネルギー場を感じる国々もある。
たとえば中東などでは集団的ペインボディがあまりに強力なので、人口の相当部分がそれを暴力と報復という狂気の際限のない悪循環として行動化せずにはいられず、その悪循環のなかでペインボディは引き続き肥え太っていく。

ペインボディは重いけれども、もうそれほど激しくはない国々では、人々は集団的感情的な痛みの感覚を鈍らせようとする傾向がある。
ドイツや日本では仕事によって、また別の国々ではアルコールへの寛容さによって(あまり大量に摂取するとアルコールがペインボディを刺激して逆効果になるが)痛みを和らげようとしている。
中国の重いペインボディは太極拳の広がりによってある程度までなだめられているようで、何であれ支配が及ばないことには脅威を感じて法律で禁止する共産党政府も、驚いたことに太極拳だけは禁止していない。
毎日、街路や公園で何百万人もの人たちがこの身体を動かす瞑想で心を鎮めている。
これは集団的エネルギーの場にかなり影響を及ぼし、思考を減らして「いまに在る」感覚を生み出し、ペインボディを緩和するのに役立っているはずだ。

太極拳、気功、ヨガなどの身体を使ったスピリチュアルな実践は、西欧世界でも広まっている。
このような実践は身体とスピリット(霊)を分離させないから、ペインボディを弱めるのに役立つ。
グローバルな目覚めに重要な役割を果たすだろう。

集団的な人種的ペインボディは、とくに何世紀も迫害されてきたユダヤ人に顕著だ。
また当然ながら、ヨーロッパ人植民者によって大量に殺害されて文化を破壊されたアメリカ先住民にも強い。
アメリカの黒人も集団的ペインボディの激しさが目立つ。
彼らの祖先は暴力的に故郷を追われ、暴力で屈服させられて奴隷として売られた。
アメリカの経済的繁栄の基盤は、四百万人から五百万人の黒人奴隷の労働によって築かれている。
さらにアメリカ先住民や黒人の苦しみはこの二つの人種に留まらず、アメリカ人の集団的なペインボディの一部となっている。

暴力や抑圧や残虐な行動の結果は、つねに被害者と加害者の両方に及ぶ。
他人にすることは自分自身にすることなのだ。

あなたのペインボディのどれくらいが国家や人種のそれであって、どれくらいが個人的なものかは、実はどうでもいい。
どっちにしてもいまの自分の内なる状態に自分で責任を取らなければ、それを乗り越えることはできない。
他を非難して当然の状況であっても、他を非難している限り、自分の思考によってペインボディに糧を与えることになり、エゴの民から逃れられない。

この地上での悪行の犯人はたった一人しかない。
人類の無意識だ。
そこに気づくことこそが真のゆるしである。
ゆるしによって被害者というアイデンティティは消え、真の力が生まれる。
「いまに在る」という力だ。
闇を非難するよりも、光をもたらすべきなのである。

 

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