ニュー・アース   第6章 「いまに在る」という意識が私たちを解放する

「ニュー・アース―意識が変わる 世界が変わる―」(サンマーク出版)
エックハルト・トール(著),吉田 利子(翻訳)



















第6章 「いまに在る」という意識が私たちを解放する

認識すること

ペインボディからの解放は、まず自分がペインボディを「もっている」と認識することから始まる。
それからもっと重要なのは、しっかりと「いまに在る」能力と観察力だ。

いまの自分をきちんと観察し、ペインボディが活性化したときに重苦しいネガティブな感情が流れ込んだら、それがペインボディだ、と気づくこと。
認識できれば、相手はもうあなたのふりをして暮らし、糧(かて)を吸い上げて大きくなることはできない。

ペインボディへの同一化を断ち切るのは、「いまに在る」という意識だ。
あなたが自分を同一化しなければ、ペインボディはもうあなたの思考を支配できず、あなたの思考を糧にして育つことはできない。
ほとんどのペインボディはすぐには消えないが、あなたが思考とペインボディのつながりを断ち切ればエネルギーを失う。
あなたの思考はもう感情に曇らされることはない。
現在の感覚が過去によって歪められることもなくなる。

するとペインボディに閉じ込められていたエネルギーの周波数が変化し、「いまに在る」意識へと形を変える。
こうしてペインボディは意識の糧となる。
だからこそ、地球上の最も賢明な男女の多くは、かつて重いペインボディを抱えていた。

あなたが何を言い、どんな行動をし、どんな顔を世界に見せていようとも、あなたの心と感情の状能は隠せない。
人間は誰でも心の状態に対応したエネルギー場を放射している。
そしてほとんどの人が潜在的にではあっても、相手が放射しているエネルギーを感じ取る。
言ってみれば知らず知らずに感じているのだが、相手をどう思い、どう反応するかはそれによって大きく左右される。

初対面のとき、言葉を交わす前にいちばんはっきりと感じ取る人もいる。
しかしその後は言葉が関係を支配し、言葉とともに人々が演じる役割が決まることが多い。
すると関心は精神の領域に移り、相手のエネルギー場を感じ取る能力はしぼんでしまう。
とはいえ、無意識のレベルでは感じ続けているのだが。

ペインボディは無意識のうちにさらなる痛みを求める、つまり何か悪いことが起こらないかと待ち構えているとわかると、ペインボディが活性化したドライバーによって多くの交通事故が引き起こされていることも納得できるだろう。
ペインボディが活性化したドライバー同士が交差点で出会うと、事故が起こる可能性は通常の何倍にも上昇する。
両者とも無意識のうちに事故が起こることを望むからだ。
交通事故にペインボディが果たしている役割は、「渋滞中のいらいら、切れるドライバー」という言葉にはっきりと表れている。
こういうときドライバーは、先行する車のスピードが遅いというささいなことで暴力的になる。

暴力行為の実行者の多くは、一時的に凶暴になった「ふつうの」人々だ。
世界中の裁判所で、弁護人が「被告人はまったく、こういうことをするような人間ではなかった」と主張し、被告人が「自分でもどうしてこんなことをしたのかわからない」と述べている。
私の知る限りではまだ、「本件の被告人は心神耗弱(こうじゃく)の状態にありました。
被告人のペインボディが活性化したのであって、当人は自分が何をしているか解らなかったのであります。
それどころか、犯人は被告人ですらありません。
彼のペインボディであります」
という弁論をした弁護人はいないが、そのうち出てくるかもしれない。

それではペインボディに支配されたときの行為に、当人は責任がないのだろうか?
だって、責任の取りようがないではないか。
無意識のあいだの出来事、自分で何をしているかわからなかったときの行為に責任が取れるだろうか?
だがもっと大きく考えれば、人間は意識的な存在へと進化するようにつくられているのだし、進化しない人間は当然、自分の無意識の結果に苦しむ。
そういう人たちは宇宙の進化という動きから外れているのだ。

ところがこの見方も部分的に当たっているだけだ。
もつと高い視点からすれば、宇宙の進化から外れたままでいることなどあり得ないし、人間の無意識とそれが生み出す苦しみも進化のー部なのである。
際限のない苦しみの循環にもはや耐えられなくなると、人は目覚める。
だから大きく考えれば、ペインボディにもそれなりの存在価値がある。


「いまに在る」こと

三十代の女性が私に会いに来た。
初対面の挨拶で早くも、彼女の表面的な微笑みと礼儀正しさの奥にある苦痛が伝わってきた。
話し始めるとたちまち微笑は消え、苦しげな表情が現れた。
さらに彼女はこらえきれずに泣き出した。
ひどく孤独で満たされない思いでいっぱいなのだと言う。
それに怒りや悲しみも激しかった。
彼女は子ども時代に暴力的な父親に虐待されていた。

私はすぐに、彼女の苦痛が現在の生活環境から生じているのではなく驚くほど重苦しいペインボディのせいだと気づいた。
彼女はそのペインボディというフィルターを通して人生を見ていた。
だが感情的な苦痛と思考とのつながりも、その苦痛と思考に完全に自分を同一化していることもわかっていなかった。
自分の思考でペインボディを養っていることを知らなかった。
言い換えれば彼女はひどく不幸な自分という重荷を背負って生きていた。

だが自分の苦しみは自分自身から発している、自分の重荷は自分自身だと、どこかで気づいていたに違いない。
目覚めの用意はできていた。
だから私のもとへ来たのだ。
私は、身体のなかで何を感じているかを見つめてごらんなさい、不幸な思考、不幸な人生の物語というフィルターを通さずに、直接に思いを感じてごらんなさい、と勧めた。

自分は不幸から脱出する方法を教えてもらいに来たので、不幸に沈没するために来たのじゃない、と彼女は言い返したが、とにかくやってみると答えた。
やがて涙があふれて、身体が震え出した。
「それが、あなたのいまの思いです」と私は言った。
「それがいまのあなたの思いだという事実は、どうすることもできません。
では、こんなのは嫌だ、そうじゃない状態になりたい、と考えるのをやめて(そんなことを考えても、すでにある苦しみにさらに苦しみが重なるだけですからね)、いまの思いを完全に受け入れることはできますか?」

彼女はしばらく黙っていたが、ふいに顔を上げ、そのまま立ち上がって帰りそうな素振りで荒々しく言った。
「いいえ、受け入れることなんかできません」。
「そう言っているのは誰ですか?」。私は問い返した。
「あなたでしょうか、それともあなたのなかの不幸でしょうか?
不幸な自分を思って不幸になる、それがまた不幸を積み重ねているのがわかりますか?」。

彼女はまた沈黙した。
「何かをしなさい、と言っているのではないんですよ。
ただ、現にある思いを認めることはできますか、と言っているだけなのです。
奇妙に聞こえるかもしれませんが、言い換えれば、こういうことです。
あなたが自分の不幸を気にしなくなったら、その不幸はどうなるでしょうね?
やってみてはどうですか?」。

一瞬きょとんとしていた彼女は、しばらく口を開かなかった。
私はふいに彼女のエネルギー場が変化したのを感じた。
「おかしいですね。
私はいまも不幸ですが、でもその不幸のまわりにスペースができたみたいです。
前ほど重大に思えなくなりました」。

不幸のまわりにスペースができた、こういう表現を聞いたのは初めてだった。
もちろんそのスペースは、いまこの瞬間に経験していることを全面的に受け入れたときに生じる。
それ以上はあまり言葉をかけず、彼女がいまを経験するのに任せておいた。

やがて彼女は、自分のなかに生きている古い苦痛の感情に自分を同一化するのをやめたとき、そしてそれに抵抗せずにただ見つめたとき、それはもう彼女の思考の支配者ではなくなり、心のなかでつくりあげた「不幸な私」という物語の一部でもなくなる、と気づいた。
彼女の人生に過去を乗り越えた新しい側面が――-いまに在る」という側面が――現れたのである。
不幸な物語がなければ不幸ではいられないから、これで彼女の不幸は終わった。
それは彼女のペインボディの終わりの始まりでもあった。

感情そのものは別に不幸ではない。
感情に不幸の物語がくっついたときにだけ、不幸になる。

セッションが終わったとき、私はある人物の「いまに在る」意識の目覚めを見届けたと満足だった。
私たちが人として生まれたのは意識のこの側面を世界にもたらすためだ。
それにペインボディと闘わず、意識の明かりで照らすことで、ペインボディが縮むのを見ることもできた。

その女性が去って数分後、届け物があって友人がやってきた。
彼女は部屋に入るやいなや言った。
「何があったの?
すごく重くて陰気などんよりしたエネルギーを感じるわ。
気分が悪くなりそう。
窓を開けて、香を焚いたほうがいいわよ」。

私はいましがたここで、ある人がとても重いペインボディからの解放を経験したのだと説明し、あなたはたぶんそのセッションのときに放出されたエネルギーを感じたのだろうと答えた。
だが友人はそれ以上話を聞いているのも嫌だと、早々に立ち去った。

私は窓を開けたまま、近くの小さなインド料理店に食事に出かけた。
そこで起こったことは、私がすでに知っていたことをさらに裏づける結果になった。
個人個人のものであるように見えるペインボディも、あるレベルではすべてつながっているということだ。
しかしそれがそのように具体的な形で確認されたのにはびっくりした。


ペインボディの逆襲

私はテーブルについて料理を注文した。
他にも何人か客がいた。
近くのテーブルに車椅子の中年男性がいて、ちょうど食事を終えたところだった。
彼は私のほうをちらりと、しかし鋭い目で見た。
数分が経過した。
ふいにその男性はいらいらと落ち着かなくなり、身体をもそもそ動かし始めた。
ウエイターが皿を下げにやってきた。
すると男性は文句を言い始めた。
「なんてまずい料理なんだ。まったくひどいものだ」。
「それじゃ、どうして召し上がったんです?」。
ウェイターが言い返した。
すると男性はかっとなって罵(ののし)り出した。
口汚い言葉が次々に飛び出す。
激しい憎悪がレストランに充満した。

エネルギーが獲物を探して身体の細胞の一つ一つに染み込んでいくのがわかるようだった。
男性は他の客にまで八つ当たりし始めたが、「いまに在る」意識を働かせながら座っている私のことはなぜか無視した。
私は人間の普遍的なペインボディが戻ってきて、こう言っているような気がした。
「お前は私を打ち負かしたつもりだろうが、ほら見るがいい、私はちゃんとここにいるぞ」。

それに、さっきのセッションのあとに残されたエネルギー場が私と一緒にレストランまでやってきて、周波数が一致する誰かに、つまり重いペインボディをもった者に取りついたのかもしれない、とも思った。

マネージャーがドアを開け、「とにかく、おひきとりください」と男性に言った。
男性は電動車椅子で出ていき、あとには唖然とした客や従業員が残された。
だが一分もしないうちに男性は戻ってきた。
ペインボディはまだ満足していなかったのだ。
もっと糧を求めていた。
男性は車椅子でドアを押し開け、口汚く叫んだ。
ウエイトレスが彼を押し留めようとすると、ぐいぐいと彼女を押していって壁際に追い詰めた。
客たちがあわてて飛んでいき、車椅子を引き離そうとした。
悲鳴やら怒号やらで、あたりは騒然となった。
まもなく警官が到着した。
男性はおとなしくなり、さっさと出て行って戻ってくるなと言い渡された。
幸いウエイトレスは足に痣(あざ)ができただけで、怪我はなかった。

事態が収まったとき、マネージャーが私のテーブルにやってきて、半ば冗談めかし、だが直感的に事件とのつながりを感じたように、こう言った。
「あなたが仕掛けたんですか?」。


子どものペインボディ

子どものペインボディは、気まぐれや内向状態として現れることがある。
子どもはふくれてそっぽを向き、人形を抱いて隅に座り込んだり、親指を吸ったりする。
発作的に泣き出したり、癇癪(かんしゃく)を起こすこともある。
きいきい泣きわめき、床に転がり、暴れるかもしれない。

欲望が拒否されることは簡単にペインボディの引き金になるし、発達中のエゴでは欲望の力はとくに強くなりがちだ。
さっきまでは天使のようだった子どもが数秒後に小さな怪物に変身すれば、親たちは信じられない思いでなすすべもなく見守るしかないだろう。
「こんな不幸がいったいどこからやってくるのか?」と、不思議に思うかもしれない。
それは多かれ少なかれ子どもが分かちもった人類の集団的ペインボディの一部で、その集団的ペインボディは人類のエゴから発している。

同時に子どもはすでに親のペインボディから痛みを受け取っているのかもしれず、そうなら親は子どもに自分のペインボディの反映を見ていることになる。
とくに敏感な子どもは親のペインボディの影響を受けやすい。
親の感情のドラマを目の当たりにするのはほとんど耐え難い苦痛で、そういう敏感な子どもは成長後、重いペインボディを抱える。
親が自分たちのペインボディを隠そうとして、「子どもの前では喧嘩はやめましょう」と言いあったとしても、子どもはだませない。
親が礼儀正しく言葉を交わしていても、家庭にはネガティブなエネルギーがたちこめる。
抑圧されたペインボディはとりわけ有害で、おおっぴらに行動化されるよりももっと毒性が強く、その心理的な毒は子どもに吸収されて、子どものペインボディの糧になる。

子どもによっては、非常に無意識な親と暮らしているうちに、潜在的にエゴとペインボディについて学び取ることがある。
両親ともにエゴが強くて重いペインボディをもっていたある女性は私に、親を愛してはいたが、親が怒鳴りあっているようすを見てよく
「この人たち、頭がどうかしている。
私はどうしてこんなところにいるんだろう?」と考えたと語った。
彼女は子ども心に、こんな生き方は間違っていると気づいていた。
その気づきのおかげで、親から吸収する苦痛は少なくてすんだのだ。

親は子どものペインボディをどうしていいかわからないことが多い。
もちろん最大の問題は、自分自身のペインボディにどう対応しているか、ということだ。
自分自身のペインボディを認識しているか?
充分に「いまに在る」ことができ、ペインボディが活性化したときには感情レベルで、つまりそれが思考に入り込んで「不幸な私」をつくり出す前に、気づくことができるか?

子どもがペインボディの襲撃を受けているあいだは、こちらが「いまに在って」、感情的な反応に引きずり込まれないようにする以外、できることはあまりない。
こちらが反応すれば、子どものペインボディの糧になるだけだ。
ペインボディのぶつかりあいは極端にドラマチックになり得る。
だからドラマに巻き込まれてはいけない。
あまり深刻に受け取らないこと。

欲求が満たされないことがペインボディの引き金になった場合には、要求に負けてはいけない。
そうしないと子どもは、「自分が不幸になればなるほど、欲しいものが手に入る」ことを学習する。
これはのちの人生の機能不全につながる。
あなたが反応しないと、子どものペインボディは苛立ち、しばらくはさらに激化するかもしれないが、やがては収まる。
幸い子どものペインボディの発作はおとなよりも短いのがふつうだ。

ペインボディの活動が収まってから、あるいは翌日にでも、子どもと話しあってみよう。
だが、子どもにペインボディについて話してはいけない。
代わりにこんなふうに聞いてみよう。
「昨日、あんなに泣きわめいたのはどうしてだろうね?
覚えているかい?
どんな気持ちだった?
きみに取りついたのはいったい何なんだろうね、名前があるのかな?
ないの?
あるとしたら、どんな名前だと思う?
姿が見えるとしたら、どんな姿をしているだろうね?
そいつはどこかへ行ったあとは、どうなるんだろう?
寝てしまうのかな?
そいつはまた来ると思う?」。

この問い方はほんの一例にすぎないが、どの質問も子どもの観察力を目覚めさせることを意図している。
観察力、つまり「いまに在る」力である。
この力があると、子どもがペインボディから自分を引き離すのに役立つ。
それに子どもにわかる言葉であなた自身のペインボディについて話しておくのもいいかもしれない。

次に子どもがペインボディに引きずり回されたときには、
「ほら、あいつが戻ってきたね。そうだろう?」と言おう。
子どもが使った言葉を使えばいい。
それをどんなふうに感じているかに、子どもの関心を向けさせる。
そのときは批判したり非難したりしてはいけない。
興味と関心を抱いて聞いていることを伝えよう。

たぶんこれではペインボディの進撃を食い止めるまでにはいかないだろうし、子どもはあなたの言葉を聞いていないように見えるかもしれない。
しかしペインボディの活動の真っ最中でも、子どもは意識のどこかで目覚めているはずだ。
こういうことが何度か繰り返されるうちに、その目覚めは強くなっていき、ペインボディは弱くなっていく。
子どもの「いまに在る」力が育つ。
そのうち、ほらペインボディに負けているよ、と逆にあなたが子どもに指摘される日が来るかもしれない。


不幸

不幸のすべてがペインボディから発しているわけではない。
新しい不幸、あなたが現在という時とずれてしまい、いろいろな意味で「いま」を否定したために生まれる不幸もある。
いまという時はすでに厳然としてあって、避けようがないことがわかれば、無条件の「イエス」を言うことができるし、よけいな不幸を生み出すこともない。
それどころか内なる抵抗が消えれば、あなたは「生命(人生)」そのものによって力を与えられていることに気づくだろう。

ペインボディの不幸はつねに原因と結果が不均衡で、言うならば過剰反応だ。
だからすぐにそれとわかるのだが、ペインボディに取りつかれている当人にはなかなかわからない。
重いペインボディを抱えている人はすぐに動揺し、怒り、傷つき、悲しみ、不安に陥る。
他の人なら苦笑してやり過ごすような、それどころか気づきさえもしないささいなことで、不幸のどん底に落ちたりする。
もちろん、その出来事は不幸の真の原因ではなく引き金にすぎない。
積み重なった古い感情を甦(よみがえ)らせるのだ。
その感情が頭に上り、拡大されて、エゴの精神構造を活性化する。

ペインボディとエゴには密接な関係がある。
両者はお互いを必要としている。
引き金となる出来事や状況は、重い感情に彩られたエゴというスクリーンを介して解釈され、反応を引き起こす。
このために出来事や状況の重要性が完全に歪められる。
自分のなかにある感情的な過去という目で、いまとを見ることになる。

言い換えれば、あなたが見て経験している中身はいまの出来事や状況にではなくあなた自身のなかにある。
場合によってはいまの出来事や状況のなかにあるかもしれないが、それを自分の反応によってさらに拡大させている。
この反応と拡大こそ、ペインボディが望み、必要としている糧なのだ。

重いペインボディに取りつかれている人は、自分の歪んだ解釈や重苦しくて感情的な「物語」の外に出るのが難しい。
物語のなかの感情がネガティブであればあるほど、その物語はますます重く強固になる。
だから物語であることがわからず、現実だと思い込む。
思考とそれに付随する感情の動きに完壁に取り込まれていると、そこから出ることは不可能だ。

なにしろ外側があることさえわからないのだから。
自分でつくり出した映画や夢の罠にかかり、自分自身でつくった地獄に落ちているのと同じである。
それが当人にとっての現実で、他の現実は存在しない。
さらに当人にとっては、自分の反応以外の反応の方法はあり得ない。


ペインボディから自分を引き離す

活動的な強いペインボディを抱えている人はある種のエネルギーを放出していて、他の人はそれを非常に不快に感じる。
すぐに相手から離れたくなったり、交流を最小限に抑えたいと思う人もいる。
相手のエネルギー場に跳ね返されるように感じるのだ。
またエネルギーを発している人に苛立ちを感じて無礼になったり、言葉やときには物理的な暴力で攻撃しようとする人もいる。
この場合は反応する人のなかにも相手のペインボディに共振する何かがあるのだ。

強く反応する原因は自分のなかにある。
つまり自分自身のペインボディである。
当然ながら、重くてしょっちゅう活性化するペインボディを抱えている人は、年中争いに巻き込まれる。
いちろん自分が積極的に争いを起こすこともあるが、自分では何もしていない場合もある。
それでも放射しているネガティブなエネルギーが敵意を引き寄せて、争いを生み出す。
相手がこういう活動的なペインボディをもった人だと、反応しないでいるためにはこちらがよほどしっかりと「いまに在る」必要がある。

いっぽう、こちらがしっかりと「いまに在る」と、それによって相手がペインボディから自分を引き離し、ふいに奇跡的な目覚めを経験することもある。
その目覚めは短時間で終わるかもしれないが、とにかく目覚めのプロセスの始まりにはなる。

私がその種の目覚めを体験したのは、もう何年も前のことだ。夜中の十一時に玄関のベルが鳴った。
インターフォンから聞こえたのは隣のエセルの不安に怯えた声だった。
「どうしてもお話ししなくてはならないことがあるんです。
とても大事なことなの。
すみませんけど、開けてください」。
エセルは教養ある知的な中年女性だった。
同時に強いエゴと重いペインボディの持ち主でもあった。
彼女は思春期にナチス・ドイツから逃れてきたのだが、家族の多くを強制収容所で失っていた。

入ってきたエセルは興奮したようすでソファに腰を下ろし、もってきたファイルから手紙や書類を取り出して震える手でソファや床に広げた。
とたんに私は、自分の身体のなかで調光器の目盛りが大きく動いてパワーが最大になったという不思議な感覚を覚えた。
とにかくオープンな姿勢でできるだけ観察力を働かせつつ、しっかりと――身体の全細胞をあげて――「いまに在る」しかなかった。

エセルの口から奔流のように言葉があふれる。
「今日また、あいつらからひどい手紙が来たんですよ。
私に復讐しようとしているんだわ。
お願い、あなたも力になってください。
私たち、一緒に闘わなくちゃ。
向こうの性悪な弁護士は何が何でもやり通す気です。
私、住むところがなくなってしまう。
あいつらは権利を剥奪すると脅してきたのよ」。

どうやらエセルは、住宅の管理者が彼女の要求した修理に応じなかったという理由で、管理料の支払いを拒否したらしい。
そこで管理者側は裁判に訴えると脅してきたのだ。
エセルは十分ほどまくしたてた。
私は彼女を見つめながら聞いていた。
とつぜん彼女は口を閉じ、いま夢から醒めたという表情で広げた書類を見回した。
態度は落ち着いて穏やかになり、エネルギー場はすっかり変化した。
それから彼女は私を見て言った。
「こんなに大騒ぎするほどのことじゃありませんわね、そうでしょう?」。
「そうですね」。私は答えた。
それから何分か彼女は黙って座っていたが、やがて書類を拾い集めて立ち去った。

翌朝、通りで出会った彼女はいぶかしげな表情で私を見た。
「あなた、何をなさったんです?
私はここ何年も眠れないで困っていたのに、昨夜はぐっすり眠れたんですよ。
まるで赤ちゃんみたいに熟睡しました」。

エセルは私が何かをしたと思ったらしいが、実は私は何もしなかった。
彼女は、何をしたのかではなく、何をしなかったのかと聞くべきだった。
私は反応せず、彼女の物語のリアリティを保証せず、彼女の精神の糧となる思考もペインボディの糧となる感情も提供しなかった。
そのとき彼女が体験していることを体験するがままにさせておいた。
私の力は、介入しないこと、行為しないことから生じていた。

「いまに在る」ことは、つねに何かを言ったりしたりするよりも強力なのだ。
ときには「いまに在る」ことから言葉や行為が生まれることもあるが。

エセルの変化は恒久的なものではなかったが、しかしある可能性を知らせ、彼女のなかにすでにあるものを垣間見せる結果にはなった。
禅ではこの観察の体験を「悟り」と呼ぶ。
「悟り」とは「いまに在る」ことであり、頭のなかの声や思考プロセスから、それにその思考が身体に引き起こす感情から離れることだ。
すると自分のなかに広々としたスペースが生まれる。
それまでは思考や感情が騒がしくせめぎあっていた場がすっきりと開ける。

考えても「いまに在る」ことは理解できない。
それどころか多くの場合、誤解する。
気遣いがない、よそよそしい、愛情がない、無関心だ、と言われることもある。
だがほんとうは、思考や感情よりももっと深いレベルで関心を寄せている。
それどころか、そのレベルでこそ、ただ関心を寄せるだけでなくほんとうに気遣い、ともにいることができる。
「いまに在る」静謐(せいひつ)のなかで、あなたは自分と相手の形のない本質を感じる。
あなたと相手がひとつだと知ること、それこそが真の愛であり、気遣いであり、共感だ。


「引き金」

ペインボディのなかには、一定の状況にだけ反応するものがある。
ふつう引き金になるのは、過去に体験した感情的苦痛に共振する状況だ。

たとえばお金のことで年じゅう騒ぎたてて争う親のもとで育った子どもは、お金に対する親の不安を吸収し、金銭的な問題が引き金になるペインボディを発達させる。
こういう子どもは成人後、わずかなお金のことで動揺したり、怒ったりする。
その動揺や怒りの裏には、生存がかかっているという強い不安が存在する。

霊的で比較的目覚めた意識をもった人が、株式ブローカーや不動産業者からの電話をとったとたんに声を荒らげ、詰問し、非難するのを目にしたことがある。
タバコのパッケージに健康上有害です、という注意書きがあるように、お札や銀行の通帳にも、
「お金はペインボディを活性化し、完壁な無意識を引き起こすことがあります」
という注意書きが必要かもしれない。

親の片方あるいは両方から育児放棄された子どもは、遺棄への原初的な不安に共振する状況が引き金になるペインボディを発達させるだろう。
この人たちの場合、空港に迎えに来る友だちが数分遅れたとか、配偶者の帰宅が少し遅くなったというだけで、ペインボディの激しい発作が起こる。
パートナーあるいは配偶者に去られたり死なれたりすると、その感情的苦痛は通常の場合をはるかに超え、激しい苦悶やいつまでも続いて立ち直れないほどの鬱(うつ)や偏執的な怒りに取りつかれる。

子どものころ父親に虐待された女性の場合、男性との親密な関係がペインボディの引き金になることがある。
逆にペインボディをつくりあげている感情のせいで、父親と似たようなペインボディをもった男性に惹かれることもある。
そのような女性のペインボディは、同じ苦しみをもっと味わわせてくれそうな誰かに磁力を感じるのだろう。
こういう苦痛は恋と勘違いされたりする。

母親に望まれない子どもで、まったく愛されず、最小限の世話と関心しか与えられなかった男性は、母親の愛と関心に対する強い満たされない憧れと必死に求めるものを与えてくれなかった母親への強い憎悪が混ざり合った、矛盾した重いペインボディを発達させる。
こういう男性がおとなになると、ほとんどすべての女性がその飢えたペインボディ――感情的な苦痛の塊――への引き金になり、出会う女性のほとんどすべてを「誘惑し、征服」せずにはいられない依存症的な衝動が現れる。
それによってペインボディが渇望する女性の愛と関心を得ようとするのだ。
そこで女たらしになるが、女性との関係が親密になりかけたり、誘いを拒絶されたりすると、母親に対するペインボディの怒りが甦(よみがえ)り、人間関係を破壊してしまう。

自分のペインボディの目覚めが感じられるようになると、どんな状況や他人の言動がいちばん引き金になりやすいかもじきにわかるだろう。
引き金になることがあったら、あ、これだなとすぐに気づき、観察眼を鋭くすればいい。
すると一、二秒後に感情的な反応が起こってペインボディが起き上がるのを感じるだろう。
しかし「いまに在る」ことができていれば、そのペインボディに自分を同一化しないから、ペインボディに支配されて頭のなかの声を乗っ取られなくてすむ。
そんなときパートナーがそばにいたら、「あなたの言った(した)ことが、私のペインボディの引き金になった」と説明できるかもしれない。

相手の言動がペインボディの引き金になったらすぐにそれを伝えると、お互いに取り決めておくといい。
そうすれば人間関係のドラマによってペインボディがさらに大きく育つのを防げるし、無意識に引きずり込まれる代わりに、「いまに在る」力を強化するのに役立つ。

ペインボディが目覚めたとき、あなたが「いまに在る」なら、そのたびにペインボディのネガティブな感情的エネルギーの一部が焼失し、「いまに在る」力へと変容する。
残るペインボディはすぐに退却して次のチャンスを、つまりあなたが無意識になる機会を待とうとするだろう。

お酒を飲んだり、暴力的な映画を見たりしたあと、「いまに在る」ことを忘れれば、ペインボディにとってはチャンス到来だ。
苛立ちや心配といったほんの小さなネガティブな感情でも、ペインボディが戻ってくる入り口になりかねない。
ペインボディはあなたの無意識を必要としている。
ペインボディは「いまに在る」という光には耐えられない。


目覚めのきっかけとしてのペインボディ

一見すると、ペインボディは人類の新しい意識の目覚めに対する最大の障害に見えるかもしれない。
ペインボディは精神を占拠し、思考を歪めて支配し、人間関係を破壊する。
エネルギー場に立ちこめる暗雲のような感じだ。
人間を無意識に落とし込む。
スピリチュアルな言い方をするなら、心と感情への完全な同一化をもたらす。
そのために人は直接的に反応し、自分と世界の不幸を増大させるようなことを言ったりしたりする。

しかし不幸が増大すると人生のつまずきも多くなる。
身体がストレスに耐えられずに病気になったり、なんらかの機能不全を起こすかもしれない。
悪いことが起こることを望むペインボディのせいで事故に巻き込まれたり、大きな争いや波乱に遭遇したり、暴力行為の加害者になることもあるだろう。

あるいはすべてが過重で耐えられず、もう不幸な自分として生きることができなくなるかもしれない。
もちろんペインボディは不幸な自分という偽りの自分の一部だ。

ペインボディに支配され、ペインボディをペインボディと認識できずにいると、ペインボディがあなたのエゴの一部に組み込まれる。
あなたが同一化する対象は、すべてエゴに組み込まれていく。
ペインボディはエゴが同一化できる最も強力な対象の一つだし、ペインボディもまた自らに糧を与えて再生するためにエゴを必要としている。

しかしこの不健康な同盟関係は、やがてペインボディがあまりに重くなり、エゴの心の構造では支えきれなくなったとき破綻する。
エゴはペインボディによって強化されるどころか、つねにそのエネルギーを浴びせられて侵食されるからだ。
電流によって動く電気器具も電圧が高すぎると壊れてしまうのと同じことである。

強力なペインボディをもった人々はよくもう人生に耐えられない、もうこれ以上の苦痛もドラマも引き受けられない、というところまで追い込まれる。
ある女性はこれをずばりと、「もう不幸でいることにはうんざりだ」と表現した。
また私がそうであったように、もう自分自身を相手にしていられないと感じることもある。

そうなると内的な平和が最優先になる。
感情的苦痛があまりにも激しいので、不幸な自分を生み出して持続させている心の中身や精神、感情的な構造から自分を引き離すのだ。
そのとき人は、自分の不幸な物語も感情も実は自分自身ではないことを知る。
自分は知る対象、中身ではなく知るほうの側だと気づく。
ペインボディが人を無意識に引きずり込むのではなくて、逆に目覚めのきっかけに、「いまに在る」状態へと赴かざるを得なくなる決定的な要因になる。

しかしいま地球ではかつてなかったほど大きな意識の流れが生じているので、多くの人々はもう激しい苦しみを通過しなくてもペインボディから自分を引き離すことができるようになった。
自分が機能不全の状態に戻ったことに気づいたら、思考と感情への同一化から離れて、「いまに在る」状態へと進めばいい。
抵抗を捨てて、静かに観察し、内側も外側もいまここに在る状態とひとつになるのだ。

人類の進化の次のステップは不可避ではなく、地球上の歴史で初めて意識的な選択が可能になった。
その選択をするのは誰か?
あなたである。
あなたとは何者か?
自らについて意識的になった意識である。


ペインボディからの解放

よく聞かれるのが、「ペインボディから解放されるには、どれくらいかかるのだろう?」ということだ。
答えはもちろん、その人のペインボディの密度と、どこまで真剣に「いまに在る」ことができるかで異なる。

だが当人の苦しみや他人に与えている苦しみの原因はペインボディそのものではなく、自分とペインボディとの同一化のほうだ。
何度も繰り返して過去を生きることを強制し、あなたを無意識の状態につなぎとめているのは、無意識のペインボディではなく、自分とペインボディの同一化のほうなのだ。

だからもっと大事な質問は、「ペインボディとの同一化から解放されるには、どれくらいかかるのだろう?」である。
この問いの答えは、すぐにでも可能、ということだ。
ペインボディが活性化されたとき、この感じは自分のなかのペインボディだと気づくこと。
そこに気づけば、ペインボディとの同一化を断ち切ることができる。
同一化しなくなれば、変容が始まる。
ペインボディだとわかればそれだけで、湧き起こって頭に上った古い感情が内的な対話だけでなく行動や他者との関係まで乗っ取るのを防げる。
つまりペインボディはもうあなたを利用して自らを再生することができない。

古い感情はまだしばらくあなたのなかにあり、ときおり浮上してくるだろう。
ときにはうまくあなたをだまして同一化へと持ち込み、気づきを妨げるかもしれない。
だがそれも長くは続かない。

古い感情を状況に投影しないということは、自分のなかの古い感情と直接に向き合うことを意味する。
それは心地よいことではないが、別に命まで取られはしない。
「いまに在る」ことによって、充分に押さえ込むことができる。
古い感情はあなた自身ではない。

ペインボディを感じたとき、自分は何かが間違っている、ダメな人間なんだなどと誤解してはいけない。
自分を問題視する、それはエゴが大好きなことだ。
ペインボディだと気づいたら、そのことを受け入れなくてはいけない。
受け入れずにいると、きっとまた見えなくなる。
受け入れるとは、何であれその瞬間に感じていることを素直に認めることだ。
それは「いまに在る」ことの一部である。
いまに在ることに反論はできない。
いや反論はできても、自分が苦しむだけだ。
認めることを通じて、あなたは広々とした、せいせいした自分自身になれる。
全体になれるのである。
もう、断片ではない(エゴは自分を断片だと感じている)。
あなたの本来の真のエネルギーが湧き起こる。
それは神の本性と一体だ。

イエスはこれについて、
「だからあなたがたは、天の父が全体であるように、全体でありなさい」と言った。
新約聖書には「完全でありなさい」と記されているが、これは全体という意味のギリシャ語を誤訳している。
これはあなたが全体にならなければならない、という意味ではなく、あなたはすでに――ペインボディがあってもなくても――全体だという意味なのだ。



 

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