ニュー・アース   第10章 新しい地

「ニュー・アース―意識が変わる 世界が変わる―」(サンマーク出版)
エックハルト・トール(著),吉田 利子(翻訳)



















第10章 新しい地

形ではないもの

宇宙飛行士は、宇宙が百五十億年前の巨大な爆発によって誕生し、それ以来拡大し続けていることを示す証拠を発見した。
宇宙は拡大するだけでなく複雑性を増し、さらに多様なものを生み出し続けている。
科学者のなかには、この一から多重・多様性への動きがいずれは逆転すると考えている人たちがいる。
そのとき宇宙は拡大をやめて再び縮小に転じ、ついには形のない、想像も及ばない無へと、そこから生まれてきた起源へと戻るだろう。
そして、誕生、拡大、収縮、死というサイクルが何度も何度も繰り返されるだろう。

それはいったい何のためか?
「どうして宇宙はわざわざ生まれ出たのか?」と問いかけた物理学者のスティーヴン・ホーキングは、同時に数学的モデルではこの答えは出せないだろうと気づいた。

しかし外側だけではなく内側に目を向けるとき、あなたは自分に内なる目的と外部的な日的とがあること、自分は大宇宙を反映する小宇宙なのだから、宇宙にもそれと不可分の内なる目的と外部的な目的があるだろうということに気づく。
宇宙の外部的な目的とは形を創造し、形の相互関係、相互作用を――舞台、夢、ドラマ、何と呼んでもいいが――経験することだ。

内なる目的とは、その形ではない本質に気づくことである。
そのとき外部的な目的と内なる目的の融和が起こる。
つまり、その本質――意識――を形の世界に導き入れ、それによって世界を変えようと思う。
この変容の究極の目的は人間の心の想像や理解をはるかに超えている。
しかしいまこの地球では、その変容が私たちに割り当てられた仕事なのだ。
それが外部的な目的と内なる目的との融和、世界と神の融和である。

宇宙の拡大と縮小が自分の人生にどんな関係があるのかを考える前に、心に留めておいていただきたいのだが、ここで宇宙について述べることを絶対的な真実と受け取ってはならない。
どんな概念も数式も、無限を説明することはできない。
どんな思考も、全体の広大さを把握することはできない。
現実とはひとつの全体だが、思考はそれを断片化する。
そこから、たとえば個別のものがあり出来事があるとか、これがあれの原因だという基本的な誤解が生じる。
すべての思考はある視点を意味し、すべての視点はその性格上へ限界を意味する。
つきつめれば、それは真実ではない、少なくとも絶対的な真実ではない。

全体だけが真実なのだが、その全体は語ることも考えることもできない。
思考の限界を超えたところから、したがって人間の心には理解できないところから見れば、すべてはいまこの瞬間に起こっている。

相対的な真実と絶対的な真実の例として、日の出と日没を考えてみよう。
朝に太陽が昇り、夕方に太陽が沈むというのは真実だが、それは相対的な真実でしかない。
絶対的な意味では間違っている。
地上あるいは地表に近い場所で観察する者の限られた視点では、太陽は昇ったり沈んだりする。
だが宇宙に出て眺めれば、太陽は昇りも沈みもせずに輝き続けているだろう。
しかしそのことがわかっても、それが絶対的な真実ではなく相対的な真実だと知ってもなお、私たちは日の出と言い、日没と言い、その美しきに感動し、描き、詩を書くことができる。

もう一つ、相対的な真実について考えてみようか。
宇宙が形となって誕生し、やがて形のないところへ戻っていくということ。
これは時間的に限られた視点を意味するが、あなたの生命(人生)とどう関わるだろうか。
もちろん、「私の生命(人生)」というのも思考によって生み出された限られた視点であり相対的な真実である。
つきつめれば「あなたの」生命(人生)などというものはない。
あなたと生命(人生)は別個のものではなくてひとつなのだから。


あなたの生命の短い歴史

世界が形として現れ、また形のないものへと戻っていく――拡大と収縮――という宇宙の二つの動きは、出て行くことと帰ってくること、と言ってもいい。
この二つの動きは、あなたの心臓の絶え間ない拡大と収縮の動きや吸って吐くという呼吸のように、宇宙全体のさまざまなところに反映されている。
眠りと目覚めというサイクルもそうだ。
毎晩、夢も見ない深い眠りに就くとき、あなたはそれと気づかずに形のないすべての生命の源へと戻っていき、朝になると生気を補充して再び現れる。

この出て行くことと帰ってくることという二つの動きは、個人の人生のサイクルにも反映されている。
言ってみればどこからともなくとつぜん「あなた」はこの世に現れる。
誕生のあとは拡大だ。
身体的な成長だけではなく知識も活動も所有物も経験も増大していく。
影響範囲も拡大し、人生はますます複雑になる。

これは主として外部的な目的を発見し追求する時期である。
ふつうはそれに伴ってエゴも成長する。
エゴの成長は何よりも先にあげたものごとへの自分の同一化であり、したがって形への同一化がますます明確になる。
この時期はまたエゴに外部的な目的――成長――を支配されがちだが、エゴは自然と違ってどこで拡大を止めるべきかを知らず、貪欲にもっと多くもっと多くと求め続ける。

やがて、さあうまくいった、自分はここに属していると思い出したころ、回帰の動きが始まる。
たぶん近しい人、あなたの世界の一部だった人々に死が訪れるだろう。
次にあなた自身の肉体も衰弱し、影響力の範囲も縮小する。
さらに多くではなくますます少なくなり、これに対してエゴは不安や鬱(うつ)で反応する。
あなたの世界は縮小し、自分はもう支配力を失ったと気づくかもしれない。

人生に働きかける代わりに、人生のほうがあなたに働きかけて、ゆっくりとあなたの世界を小さくしていく。
形に同一化していた意識は日没を、形の解体を経験する。
そしてある日、あなたも消えてなくなる。
あなたの安楽椅子はまだそこにあるが、あなたはもう座っていない。
空っぽな空間があるだけだ。
あなたは何年か前にそこから来た場所に戻ってしまう。

各人の――実際には各生命体の――生命(人生)は、一つの世界を表現している。
宇宙がそれ自身を経験する独特な方法だ。
あなたの形が解体するとき、世界が――無数の世界のうちの一つが――終わる。


目覚めと回帰の運動

個人の生命(人生)における回帰の動きが起こるときには、つまり老齢や病気、心身の障害・喪失、個人的な悲劇などを通じて形が弱まり解体するときには、スピリチュアルな目覚めの大きなチャンスが存在する。
意識が形との同一化を解消するチャンスだ。

現代文明にはスピリチュアルな真実はほとんどないので、これをチャンスと捉える人は多くない。
だから自分や近しい人にその時が訪れると、人は何かとんでもなく間違ったことが、起こってはならないことが起こったと考える。
私たちの文明は人間の置かれた条件に大変無知なのだが、スピリチュアルに無知であればあるほど苦しみは大きい。

とくに西欧世界の多くの人々にとって死はもう抽象概念でしかなく、人間の身体の解体が近づいたときに何が起こるのか、想像もできなくなっている。
老いさらばえた人の大半は養老院に閉じ込められる。
死体は(古い文明を伝えている場所ではすべての人に開放するのに)隠されて見えない。
故人の遺族は別として、死体を見ようという試みはなんと違法なのである。
葬儀社では遺体にメーキャップをほどこす。
見ることを許されるのは衛生無害に処理された死だけなのだ。

現代人にとって死は抽象概念でしかないから、ほとんどの人は自分を待っている形の解体に対してまったく準備ができていない。
死が近づいたときは衝撃を受け、理解できず、絶望し、恐怖におののく。
もはやすべてが意味をなさない。
人生の意味や目的はすべて、積み重ねること、成功すること、築くこと、守ること、楽しむことに関わっていたからだ。
どれも外的な動きであり、形への同一化、つまりエゴと関わっている。
ほとんどの人は、自分の生命(人生)と世界が壊れていくとき、どんな意味も見出せなくなる。

しかしそこには外的な動きよりももっと深い意味が潜んでいる可能性がある。
昔から個人の人生(生命)に霊的な次元が開かれるのは、まさに老いや喪失や個人的な悲劇を通してだった。
内なる目的が現れるのは、外的な目的が崩壊し、エゴの殻にひびが入り始めたときだけ、ということかもしれない。
そのような出来事は形の解体に向かう回帰が始まったことを意味している。

多くの古代文明にはこのプロセスに対する直感的な理解があり、だからこそ老人は尊重され、敬われていた。
老人は知恵の貯蔵庫で、それなしにはどんな文明も永らえることのできない深さの次元を体現していた。
現代文明は完全に外部的な目的と同一化していて、内なる霊的な次元に無知だから、「老い」という言葉は主に否定的な意味合いで使われる。
老いは役立たずと同義語で、私たちは老いという言葉をほとんどマイナスイメージとして受け取る。
この言葉を避けるために熟年だのシニアだのという言葉でごまかす。

カナダ先住民の共同体では、「お祖母さん」はとても威厳のある存在なのに、私たちの文明ではかわいいというのが「おばあちゃん」への最高の褒め言葉だ。
どうして老人は役立たずとみなされるのか――老齢になると重点が「行うこと」から「在ること」に移るが、私たちの文明は「行うこと」に埋没していて、「在ること」については何も知らないからである。

人によっては、一見早すぎる回帰の動き、つまり形の解体によって、外へ向かっての成長と拡大の動きが著しく阻害されることがある。
その阻害は一時的な場合もあれば、永久的なこともある。
私たちは幼い子どもを死に直面させるべきではないと思っているが、実際には病気や事故で片親や両親と死に別れる子どもがいるし、自分自身の死に直面することだってある。
また生命(人生)の自然な拡大を厳しく制約する障害をもって生まれる子どももいる。
あるいは比較的若いころに、人生(生命)を大きく制約されることもある。

「まだそんな時期ではない」のに外に向かっての動きが阻害されると、それが早いスピリチュアルな目覚めをもたらす機会になるかもしれない。
結局のところ、起こるべきでないのに起こることなどないのだ。
つまり偉大なる全体とその目的の一部でないことなど、いっさい起こらない。
だから外部的な目的の破壊や阻害は内なる目的の発見に、さらには内なる目的と調和したもっと深い外部的な目的の出現に結びつくことがある。
大きな苦しみを経験した子どもは、年齢よりもはるかに成熟した幼いおとなへと成長することが多い。

形のレベルでの喪失は本質のレベルでの獲得になる。
古代文明や伝説の「視力のない預言者」や「傷ついた癒し手」の場合には、形のレベルでの大きな喪失や障害がスピリット(塞)
への入り口になる。あらゆる形は不安定であることを直接的に体験すると、二度と形を過大評価しなくなり、むやみに形を追求したり形に執着して自分を忘れたりもしなくなる。

形の解体、なかでも老齢によって現れるチャンスは、現代文明ではようやく認められ始めたばかりだ。
残念ながら大多数の人々はそのチャンスを見損なっている。
エゴが外へ向かう拡大や成長の動きに自分を同一化したように、回帰の動きにも自分を同一化するからだ。
その結果エゴの殻がますます硬くなり、開放ではなく収縮が起こる。
小さくなったエゴは残る日々を愚痴や不満に明け暮れ、恐怖や怒り、自己憐憫(れんびん)、罪悪感、非難、その他のネガティブな精神、感情状態に陥るか、思い出に執着して過去のことばかり考えたり話したりする回避戦略をとる。

個人の人生(生命)で回帰の動きからエゴが離れると、老齢や近づく死は本来の姿を取り戻す。
スピリチュアルな領域への入り口になる。

私はこのプロセスを体現する老人たちと出会った。
彼らは輝いていた。
彼らの弱った身体は意識の光に透き通っていた。

新しい地では、老齢期は意識の花が開く時として、もっと高い価値を認められるだろう。
まだ人生(生命)の外的な環境に自分を見失っていた人たちにとっては、遅くなった回帰の時であり、内なる目的に目覚める時だ。
その他の多くの人たちには目覚めのプロセスの強化と完成を意味するだろう。


目覚めと外への動き

外への動きとともに訪れる人生(生命)の自然な拡大は、これまではエゴに支配され、エゴの拡大に利用されてきた。
「ほら、僕はこんなことができるよ。きみにはできないだろう」というのは、幼い子どもが身体的な力や能力の成長を自覚したときのせりふだ。
これはエゴが外への動きと「きみよりもっと多く」という概念への同一化を通じて自己を確固たるものとし、他を矮小化することで自分を強化しようとする最初の試みの一つである。
もちろんこれはエゴの多くの誤解の始まりにすぎない。

だが気づきが高まり、エゴに人生(生命)を振り回されなくなれば、老齢や個人的な悲劇によって自分の世界が縮小したり崩壊したりしなくても、内なる目的に目覚めることができる。
地球に新しい意識が現れ始めているいま、揺り動かされなくても目覚める人たちが増えている。
その人たちは、まだ外向きの成長と拡大のサイクルにあるときでも、自分から目覚めのプロセスを迎え入れる。

成長と拡大のサイクルからエゴを追放すると、外への動き(思考や講演、活動、創造)を通じても、回帰の動き(静寂、在ること、形の解体)を通じるのと同じくらいに力強く、霊的(スピリチュアル)な次元がこの世界に開かれる。
これまでは人間の知性(宇宙の知性のほんのかけら以上のものではないが)はエゴによって歪められ、誤用されてきた。
私はこれを「狂気の道具となった知性」と呼ぶ。

原子を分割するためには、大きな知性が必要だ。その知性を原子爆弾の製造と貯蔵に使うのは狂気で、どんなに譲歩しても極端に非知性的だと言わざるを得ない。
ただの愚かさは比較的無害だが、知的な愚かさはきわめて危険である。
この知的な愚かさの例は無数に見られるが、人間の種としての生存そのものを脅かしている。

エゴイスティックな機能不全に邪魔されなければ、私たちの知性は宇宙の知性の外向きの動きのサイクルと創造への衝動に充分に調和できる。
私たちは形の創造に意識的に参加するだろう。
創造しているのは私たちではない。
私たちを通じて宇宙の知性が創造する。
私たちは創造の対象に自分を同一化せず、行動に自分を見失うこともない。
創造という行為には高度な集中力が伴うがしかしそれは「大変な労働(ハード・ワーク)」ではなくストレスもないことを学ぶ。

ところで、ストレスと高度な集中とは違うことを理解しておかなくてはいけない。
苦闘やストレスは、障害にぶつかったときに否定的な反応が起こるのと同じで、エゴが戻ってきた証である。
エゴの欲求の陰にある力は、同じくらいの強度の反発力、言ってみれば「敵」を生み出す。
エゴが強いほど、自分たちはばらばらだという人々の意識も強くなる。

反発力を引き起こさない唯一の活動は、全体の善を目指す行動だ。
そのような行動は排他的ではなく、すべてを包み込む。
分割するのではなく、足し合わせる。
「私の」国のためではなくて人類全体のため、「私の」宗教のためではなくて人類の意識の喚起のため、「私の」種のためではなく生きとし生けるものすべてのための活動だ。

さらに私たちは、活動は必要だが、外的な現実を出現させるうえでは二次的な要素にすぎないことも学ぶ。
創造の第一義的な要素は意識なのだ。
どれほど活動的でも、どれほど努力しても、私たちの世界を創造するのは意識の状態であり、内なるレベルで変化がなければ、いくら行動しても何も変化は生まれない。
同じ世界の修正バージョンを、エゴの外的な反映である世界を何度でも再創造するだけに終わるだろう。


意識

意識はすでに目覚めている。
形に現れていない永遠の存在だ。
しかし宇宙は徐々にしか目覚めない。
意識そのものは時間を超えており、進化はしない。
生まれもしないし、死ぬこともない。
意識が事物の宇宙として現れると、時間が流れ出し、進化のプロセスが始まる。
人間の心ではこのプロセスの原因を充分に知ることはできないが、自分自身のなかにそれを垣間見て、自分のなかのプロセスの意識的な参加者になることはできる。

意識は知性であり、形の出現の奥にある組織化原則である。
意識は現れた形を通じてそれ自身を表すために、何百万年も形に向けて準備してきた。

形に現れない純粋な意識という領域は別の次元とみなすことができるが、しかし宇宙という形の次元と離れ離れではない。
形と形のないものは、互いにからみあっている。
形に現れていないものは気づきや内なる空間、「いまに在る」状態として、この次元に流れ込む。
どのようにしてか?
目覚めた、したがってその運命をまっとうする人間という形を通して、である。
この高い目的のために人間という形が創られ、さらにその土台として何百万という形が創られた。

意識は形として現れる次元へと転生する。
つまり形となる。
形となった意識は夢のような状態に入る。
知性は残っているが、意識はそれ自身に無意識になる。
形のなかにそれ自身を失い、形と自分を同一化する。
聖性の物質への下降と考えてもいい。
宇宙の進化のこの段階では、外へ向かう運動のすべてがこの夢のような状態で進行する。

目覚めの気配が訪れるのは個々の形が解体するとき、要するに死の瞬間だけだ。
そのあとは次の輪廻転生が起こり、次の形への同一化が生じ、集合的な夢の一部である個々の夢が再度始まる。

ライオンがシマウマの身体を引き裂くとき、シマウマの形に転生していた意識は壊される形から離れ、一瞬その本質である不死の意識に目覚めるが、たちまち眠りに陥って別の形に転生する。
ライオンが老いて狩りができなくなり、最後の息を引き取るとき、ここでも一瞬の目覚めがあり、再び形という夢が始まる。

私たちの地球では、人間のエゴは宇宙の夢の、意識の形への同一化の最終段階を表している。
これは意識の進化にとって必要な段階だ。

人間の脳は高度に差異化された形であり、この形を通して意識がこの世界の次元に入ってくる。
人間の脳には約一千億の神経細胞があると言われている。
これは大宇宙の脳と言うべき銀河系の星の数に等しい。

脳は意識を生み出さない。
意識のほうが自らを表現するために、地上で最も複雑な形の物質である脳を創造したのだ。
あなたの脳が損なわれても、意識を失うわけではない。
意識がこの次元に入るために脳を使うことができなくなっただけだ。
そのために意識を失うことはない。
意識は本質的にあなただから。
あなたが失うことができるのは、あなたが所持しているものだけで、自分自身を失うことはあり得ない。


目覚めた行動

地球上の意識の進化における次の段階、それが目覚めた行動だ。
私たちが現在の進化の段階の終わりに近づけば近づくほど、エゴの機能不全はひどくなる。

毛虫が蝶になる前に機能不全の状態に陥るのと同じだ。
新しい意識は、古いものが解体したところから生じる。

いままさに人類の意識の進化のなかで画期的な出来事が起こりつつあるが、その出来事は今夜のニュースとして報じられることはないだろう。
地上で(たぷんへ私たちの銀河の多くの場所やそれをはるかに超えたあちこちでも同時に)意識が形の夢から目覚めようとしている。
そこでは確かに解体する形もそうとうあるだろうが、すべての形(世界)が解体するわけではない。

いまや意識が自らを形のなかで失うことなしに形を創造することが可能になる。
意識は形を創造し体験しつつも、それ自身に対する気づきを失わない。
それでも形を創造して体験し続けるのはなぜか?
それが楽しいからだ。
どのようにして体験するのか。
目覚めた人間を通じて、目覚めた行動の意味を学んだ人間を通じて、である。

目覚めた行動とは、外部的な目的(何をするか)と内なる目的(目覚めて目覚めたままでいること)とが調和した行動である。
目覚めた行動を通じて、あなたは外へ向かう宇宙の目的とひとつになる。

あなたを通じて意識がこの世界に流れ込む。
あなたの思考に流れ込み、インスピレーションを与える。
あなたの行動に流れ込んで、行動を導き、力を付与する。

何をするかではなくどのようにするかで、あなたが運命をまっとうしているかどうかが決まる。
そしてどのようにするかを決めるのは、あなたの意識の状態だ。

行動の主な目的が行動そのものになるとき、と言うか行動に流れ込む意識そのものになるとき、優先順位が逆転する。
意識の流れが行動の質を決める。
言い換えようか。
どんな状況で何をするのであれ、最重要要素は意識の状態だ。
どんな状況で何をするのかは二次的な要素にすぎない。
「未来」の成功は行動が生じる意識によって左右されるし、その意識と不可分である。
行動が生じるもとはエゴの反応かもしれないし、目覚めた意識による研ぎ澄まされた観察と関心かもしれない。
真の成功と言える行動は条件づけられた無意識の思考であるエゴからではなく、研ぎ澄まされた観察と関心の場から生まれる。


目覚めた行動の三つのモード

あなたの行動には、つまりあなたを通じてこの世界に流れ込む意識のモードには三種類ある。
あなたが人生(生命)を宇宙の創造的な力と調和させる三つの方法である。
この三つのモードは、あなたの行動に流れ込んであなたの行動をこの世界に生じつつある目覚めた意識と結びつけるエネルギーの周波数を意味する。
この三つ以外のモードであれば、あなたの行動はエゴによる機能不全のそれになるだろう。
またこのモードは一日のなかでも変化するかもしれないが、人生のある段階ではどれか1つが支配的になるだろう。
状況によって適切なモードは異なる。

目覚めた行動の三つのモードとは、受け入れる、楽しむ、情熱を燃やす、の三種である。
それぞれは意識の振動の周波数が異なる。
ごく単純なことからきわめて複雑なことまで、何かをするときにはつねに、三つのうちのどれかが発動しているかどうか敏感に察知しなくてはいけない。
よく観察すると、受け入れるのでも、楽しむのでも、情熱を燃やすのでもない行動は、自分自身か他人を苦しめているはずだ。


受け入れる

楽しむことができなくても、少なくともしなければならないことだと受け入れることはできる。
受け入れるとは、たったいま、この状況のこの瞬間に自分がしなければならないことだからしよう、と思うことである。
いま起こっていることを心のなかで受け入れる重要性についてはすでに詳しくお話ししたが、しなければならないことを受け入れるのもその一つの側面だ。

たとえば深夜、見知らぬ場所で篠つく雨のなか、パンクしたタイヤを交換しなければならないとしたら、情熱を燃やすどころか楽しむことだってできないだろうが、受け入れることはできる。
受け入れれば、安らかな気持ちで行動できる。
その安らぎは微妙な振動のエネルギーとして、行動に流れ込む。
表面的には受け入れるのは受身に見えるが、実際にはこの世界にまったく新しい何かをもたらす積極的で創造的な状態だ。
その安らかさ、微妙な振動のエネルギーが意識であり、そのエネルギーをこの世界に流入させる方法の一つが抵抗せずに降参することだ。
これは受け入れることの一つの側面である。

行動を楽しむことも受け入れることもできないのなら、やめればいい。
そうでないと、自分がほんとうに責任を取れる唯一のこと(ほんとうに重要な唯一のことでもある)に責任を取れない。
その唯一のこととは、あなたの意識の状態だ。
自分の意識の状態に責任を取らないのは、人生(生命)に責任を取っていないということだ。


楽しむ

抵抗せず降伏すると安らぎが得られるが、行動を積極的に楽しむと安らぎは躍動する生命感に変わる。
楽しむというのは目覚めた行動の二つ目のあり方だ。
新しい地では、人々の行動を左右する動機として楽しみが欲望に取って代わるだろう。

欲望は自分たちがばらばらの断片であり、すべての創造のもとにある力と切り離されているというエゴの妄想から生じる。
楽しむことを通じて、あなたは宇宙の創造力そのものとつながる。

人生の焦点を過去や未来ではなくて現在の瞬間に置くと、行動を楽しむ能力は――人生の質も――劇的に増大する。
楽しむことは、「大いなる存在(Being)」のダイナミックな一面である。
宇宙の創造力がそれ自身を意識したとき、それは喜びとして現れる。

人生に何か「意義のあること」が起こらなければ、楽しめないわけではない。
楽しみのなかには、あなたが必要とする以上の意義がある。
「生きがいが見つかるのを待つ」症候群は、無意識状態に最もよく見られる妄想だ。
楽しく行動するために変化が起こるのを待っているときよりも、自分の行動をすでに楽しんでいるときのほうが、外部的なレベルでの拡大や前向きの変化は起こりやすい。

行動を楽しんでいいか、と自分の心に聞いたりしないこと。
そんなことをしても楽しんではいけない理由が山ほど見つかるだけだ。
「いまはいけない」と心は言うだろう。
「いまは忙しいんだよ。わからないのか?
そんな時間はないさ。明日なら楽しめるかもしれないが・・・・」。
しかし、いま楽しまなければ、楽しめる明日など決してやってきはしない。

「私はあれこれをするのを楽しむ」、というのは、実は間違いである。
これでは行動のなかに楽しみがあるようだが、そうではない。
楽しみは行動のなかにあるのではなく、あなたのなかの深い部分から行動へ、したがってこの世界に流れ込むものだ。
行動のなかに楽しみがあるという誤解はありふれているが、危険である。

この誤解から、楽しみは何かから、行動やものごとから奪い取るものだという考え方が生じる。
そうすると、世界が自分に楽しみや幸福をもってきてくれないかと期待することになる。
しかし、そんなことはあり得ない。
だから大勢の人がいつも欲求不満なのだ。
その人たちが必要だと思っているものを、世界は与えてくれはしない。

ではあなたの行動と行動を楽しむ状態とにはどんな関係があるのか?
目的のための手段として行動するのではなく、いまこの瞬間に全身全霊を込めて行動すれば、どんな行動でも楽しむことができる。
ほんとうは楽しいのは行動ではなく、そこに流れ込む深い躍動する生命感で、その生命感はあなたと一体なのだ。
だから行動を楽しむというのは、実は生命感のダイナミックな側面を体験することだ。
だから何であれ楽しんで行動すれば、すべての創造のもとにある力と結びつくことができる。

力強く創造的に拡大する人生を実現するスピリチュアルな実践方法がある。
毎日繰り返す日常活動のリストをつくってみよう。
そのなかにはつまらないもの、退屈なもの、平凡なもの、苛立(いらだ)たしいもの、ストレスの多いものも入れておく。
だが嫌でたまらないことは入れない。
嫌でたまらないことは、受け入れるかやめるかのどちらかしかない。
リストには通勤、食糧品の買い物、洗濯、その他退屈だったりストレスだったりする日常の仕事が含まれるだろう。

次にリストの行動をするとき、それを気づきの実践の道具にする。
することに全身全霊を注ぎ、行動の奥に自分のなかの躍動的な生命感を感じ取るのだ。
こうして一つ一つの行動に気づきつつやってみると、そういう状態ですることはストレスでも退屈でも苛立たしくもなく、それどころか楽しいことがわかるだろう。

もつと正確に言うなら、外形的な行動が楽しいのではなく、行動に流れ込む内なる意識の次元が楽しくなる。
行動のなかに「大いなる存在(Being)」の喜びが発見できる。
人生に生きがいがないとか、ストレスが多すぎる、退屈だと感じているなら、それはこの意識の次元を人生に持ち込んでいないからだ。
まだ自分の行動に意識的になることが主たる目的になっていないのである。

人生の主たる目的は意識の光をこの世界に持ち込むことだと気づいて、することなすことすべてを意識のための道具にする人が増えていけば、新しい地が生まれる。

「大いなる存在(Being)」の喜びは、意識的であることの喜びである。
目覚めた意識はエゴから自分を取り戻し、人生(生命)の主役になる。
そのときあなたは、それまで長いあいだしてきた行動に意識の力が加わって、いつのまにかもっと大きなものになっていくのを感じるだろう。

創造的な行動によって大勢の人々の人生(生命)を豊かにしている人たちの一部は、その行動によって何かを達成しようとか、何かになろうというのではなくそれがいちばん楽しいからやっている。
その人たちは音楽家、芸術家、作家、科学者、教師、建築家かもしれないし、新しい社会的構造やビジネス(啓(ひら)かれたビジネス)構造を生み出そうという人たちかもしれない。
またこの人たちの影響が及ぶ範囲はしばらくは狭いままかもしれないが、ふいに、あるいは徐々に力強い創造の波が流れ込んで、やがて当人たちの想像を超えて広がり、無数の人々と触れ合うだろう。
そのとき彼らの行動には楽しさの他に強さも加わり、それとともに常人では考えられない創造力が発揮される。

だが、その行動を頭に上らせてはいけない。頭にはエゴの残滓(ざんし)が隠れている。
あなたもまたふつうの人間の一人だ。
並外れているのは、あなたを通してこの世界に流れ込むもののほうだ。

その本質を、あなたはすべての生きとし生けるものと共有する。
十四世紀のペルシャの詩人でスーフィ教の賢者であるハフィズは、この真実をこんなふうに美しく言い表している。
「私はキリストの息が通るフルートの穴だ。さあ、この音楽を聞いておくれ」。


情熱を燃やすこと

目覚めという内なる目的に忠実な人たちが経験する創造力の現れがもう一つある。
そういう人はある日とつぜん、自分の外部的な目的を知る。
偉大などジョンや目標を発見し、それ以降はその目標を達成するために働く。
その目標やビジョンはふつう、彼らがそれまで小規模に行って楽しんでいたものとなんらかの形で関連している。
これが目覚めた行動の第三のモードである情熱だ。

情熱を燃やすとは、自分がしていることに深い喜びを感じると同時に、目指す目標やビジョンの要素が加わることを意味する。
行動の喜びに目標が加わると、エネルギーの場というか振動数が変化する。
喜びにある種の構造的な緊張感とでもいうような何かが加わって、情熱になる。
情熱にかりたてられた創造的な活動のさなかには、何をしてもとてつもない緊張感とエネルギーが伴うだろう。
あなたは自分を標的に向かって飛ぶ矢のように感じ、その行程を楽しむ。

傍観者にはストレスの重圧があるように見えるかもしれないが、情熱の緊張感はストレスとは関係ない。
自分がしていることはどうでもいいが、とにかく目標に到達したいというのであれば、ストレスかもしれない。
楽しみと構造的な緊張感のバランスが崩れて、後者が圧倒するからだ。
ふつうストレスは、エゴが戻ってきてあなたを宇宙の創造力から切り離してしまったサインだ。
そこには宇宙の創造力の代わりにエゴの力と緊張しかなくだから「がんばって」働かなければならない。
ストレスを感じながらの行動では、必ず質と効率が低下する。
それに、ストレスと不安や怒りなどのネガティブな感情には強い相関関係がある。
これは身体に有害で、ガンや心臓病などのいわゆる「変性疾患」の主たる原因として認識され始めている。

ストレスと違って情熱はエネルギーの振動数が高いので、宇宙の創造力と共鳴する。
だからラルフ・ウォルド・エマーソンは「情熱なしに偉業が成し遂げられたことはない」と言った。

情熱(enthusiasm)という言葉はギリシャ語のenとtheosから発しているが、theosとは神という意味で、派生語のenthousiazeinとは「神に憑(つ)かれた」という意味である。
情熱が燃えているときには、自分だけで行動しているのではないと感じる。
それどころか、自分だけでできることには何の意味もない。
情熱は創造的なエネルギーの波を呼び起こすから、あなたはただ「波に乗って」いけばいい。

情熱はあなたの行動にすぼらしい力を与える。
その力に触れたことのない人は「あなたの」成果を驚異と賛嘆の目で見るだろうし、その偉業とあなたを同一視するかもしれない。
しかしあなたは「私は、自分では何もできない」というイエスの言葉が真実であるということを知っている。

同じ強さで反発する力を生み出してしまうエゴイスティックな欲望とは異なり、情熱には対立はない。
対決的ではないからだ。
情熱による活動には勝者も敗者もない。
基本的に排他的ではなく、他者をも包み込む。
人々を利用したり操作したりする必要がないのは、それ自身が創造力であり、二次的なエネルギー源から力を得る必要がないからだ。
エゴの欲望は、つねに何かをあるいは誰かから奪おうとするが、情熱は惜しみなく与える。
情熱が逆境や人々の非協力などの形をとる障害にぶつかっても、決して攻撃せずに迂回するか、相手を取り込んだり譲歩したりして対抗勢力を味方に、敵を友人に変えるだろう。

情熱とエゴは共存できない。
いっほうはもういっぽうの不在を意味する。
情熱は自分の行く先を知っているが、同時に現在の瞬間、生命の源、喜び、力と深く一体化している。
情熱には何も欠けていないから、何も「欲しない」。

情熱は生命と一体であり、情熱に動かされる行動がどれほどダイナミックであっても、あなたは行動のなかで自分を失うことはない。
そして回転する輪の中心にはつねに静かでありながら非常に生き生きとした空間があり、活動の中心に平和な中核があって、それはすべての源であると同時に何ものにも影響されない。

あなたは情熱を通じて宇宙の創造原理と完全に調和するが、その創造に自分を同一化することはない。
つまりへそこにエゴはない。
何かとの同一化がなければ、苦しみの大きな原因の一つである執着もない。

創造的エネルギーの波が通りすぎ、構造的な緊張が再び低下しても、行動に感じる喜びは残っている。
誰も情熱的なままで一生を過ごすことはできない。
7つの波が通りすぎたあと、また新しい創造的エネルギーの波が訪れて情熱が甦(よみがえ)るかもしれないが。

形の解体に向かう回帰の動きが始まると、もう情熱はあなたの役には立たない。
情熱は生命(人生)の外に向かう動きのサイクルに属している。回帰の動きには――帰路の旅には――降伏を通じてのみ、自分を調和させることができる。

まとめればこういうことだ。
自分の行動を楽しみ、それが目指す目標やビジョンとうまく組み合わされば情熱が生まれる。
目標があっても、関心の焦点は現在この瞬間にしていることに置かなければいけない。
そうでないと宇宙的な目的と調和できなくなる。
ビジョンや目標が、たとえば映画スターになりたい、有名な作家になりたい、金持ちの事業家になりたいというような自分自身の誇大なイメージ、つまり密かなエゴの形にならないように気をつけなくてはならない。
さらに目標が海辺の豪邸や会社や一千万ドルの銀行預金などのあれやこれやを手に入れること、というのもよくない。
拡大された自己イメージやあれこれを手に入れた自分というイメージは、すべて静的な目標であって、あなたに力を与えることはない。

目標はダイナミックでなければならない。
活動を、それを通じて他の人々や全体と結びつく活動を、目標として目指さなくてはいけない。
自分は有名な俳優だ、作家だと考えるのではなくて、自分の作品を通じて無数の人々にインスピレーションを与え、人々の人生を豊かにする、と考えるべきなのだ。

自分の活動が自分自身だけでなく無数の他者の人生を豊かにし深めていることを感じよう。
自分は回路で、形として現れていないあらゆる生命の源から発するエネルギーが自分を通じて流れ、すべての人々のために役立つことを感じ取ろう。

そのためには、目標やビジョンが自分自身のなかで(心と感情のレベルで)、すでに現実になっている必要がある。
情熱とは心のなかの青写真を物理的な次元に移し替える力だ。
これこそが心の創造的な活用方法であり、だからこそそこでは欠落も欲望も関係ない。
あなたは自分に欠けていて欲するものを表現することはできない。
すでにもっているものを表現することができるだけだ。
刻苦勉励とストレスによって欲望を満足させられるかもしれないが、それは新しい地におけるあり方ではない。

心の創造的な活用方法と、どうすれば意識的に形を現すことができるかについて、次のイエスの言葉は大切なことを教えている。
「祈って求めるものは、何でもすでに受け取っていると信じなさい。そうすれば、その通りになる」。


新しい意識の担い手たち

形へと外に向かう動きは、すべての人に同じ強さで現れるわけではない。
築き、創造し、関与し、達成し、世界に強烈な影響を与えたいという激しい衝動を感じる人もいる。
その人たちが無意識なら、もちろんエゴが支配して、外に向かう動きのサイクルのエネルギーを利己的な目的のために使うだろう。

だが、この人たちが使える創造的なエネルギーの流れは大きく低下し、自分が欲するものを獲得するのに必要な「努力」が増大する。
逆に意識に目覚めていれば、外に向かう動きの強い人たちはきわめて創造的になる。

いっぽう、自然な拡大の軌跡をたどって成長したあとは、外から見れば目立たない、受身で比較的波乱のない人生を過ごす人もいる。

後者の人たちは本来内向きで、形へと外に向かう動きは最小限に留まる。
彼らは出かけていくよりも、帰っていくだろう。
世界に強く関わりたいとか、世界を動かしたいとは毛頭思っていない。
野心があるとしても、ふつうは自立して暮らせるだけの何かを見つけたいという程度だ。
この世界にうまくなじめないと感じる人たちもいる。
定期的な収入のある仕事に就くとか小さな事業を起こすことによって、自分に合ったささやかな場所を見つけ、比較的安楽な人生を送る人もいる。
スピリチュアルなコミュニティや僧院での暮らしにひかれる人もあるだろう。
世間からドロップアウトして、なじむことのできない社会の底辺で生きる人たちもいるはずだ。
この世界での暮らしがあまりに苦しくて、ドラッグに走る者もある。
最終的にはヒーラーやスピリチュアルな指導者、つまり「大いなる存在(Being)」を教える立場になる者もいる。

昔ならこういう人たちは瞑想家、黙想家などと呼ばれた。
現代文明にはこの人たちの場所がないように思われる。
だが新しい地が実現すれば、彼らも創造者、活動家、改革者と同じように重要な役割を担うだろう。
彼らの仕事はこの地球に新しい意識の周波数を根づかせる錨(いかり)となることだ。

そこで、この人たちを新しい意識の担い手と呼ぼうと思う。
彼らの使命は日々の暮らしを通じて、「ただ在ること」と他者との関わりを通じて、新しい意識を生み出すことだ。
この人たちはそのあり方を通じて、一見ささいなことに深い意味を付与する。
彼らが何をするにしても、その仕事はまさにいま、ここに在ることを通じて広い静寂をこの世界にもたらすことだ。
彼らの行動はどんなシンプルなものでも意識がこもっており、したがって質が高い。

彼らの目的はすべてのことを聖なるやり方で行うことだ。
個々の人間は人類の集団的意識と不可分だから、彼らが世界に与える影響は表面的に見えるよりもはるかに深い。


新しい地はユートピアではない

新しい地というのは、もう一つのユートピアにすぎないか?
そうではない。
あらゆるユートピアのビジョンには一つの共通点がある。
すべてがうまくいき、すべてが守られ、平和と調和が実現して、問題がすべて解決する未来が描かれていることだ。

ユートピアのビジョンはたくさんあった。
一部は失望に終わり、その他は大惨事につながった。
すべてのユートピアのビジョンの核心には、古い意識の構造的な機能不全が横たわっている。
救済を未来に求めているのだ。
未来はただあなたの心のなかの思考として存在するだけで、救済を未来に求めるなら、無意識のうちに自分の心に救済を求めることになる。
つまり形に、エゴの罠に落ちる。

「私は新しい天と新しい地を見た」と、聖書の預言者は書いた。
新しい地の基礎は新しい天――目覚めた意識――である。
地――外部的な現実――は、意識の外部への投影にすぎない。

新しい天が生まれ、新しい地が実現するということは、私たちを解放してくれる未来の出来事ではない。
何ものも「将来」私たちを解放してはくれない。
なぜなら、私たちを解放するのは、現在のこの瞬間だけなのだから。

そこに気づくこと、それが目覚めである。
未来の出来事としての目覚めなど、何の意味ももたない。
目覚めとは「いまに在る」状態に気づくことだからだ。
だから新しい地、目覚めた意識は、実現すべき未来の状態ではない。
新しい天と新しい地は、いまこの瞬間にあなたのなかに生じている。
いまこの瞬間に生じていないなら、それは頭のなかの思考の一つにすぎず、したがって生まれ出ることもない。

イエスは弟子たちに何と言ったか?
「神の国はあなたがたのなかにある」。

イエスは山上の垂訓である預言をしたが、いまに至るまでその預言を理解した人はごく少ない。7
イエスはこう言った。
「柔和な者は幸いである。その人は地を受け継ぐから」。

いまの聖書では、「柔和な」とは慎ましいという意味だと解釈されている。
柔和な人、慎ましい人とは誰なのか、そして彼らが地を受け継ぐとはどういう意味か?

柔和な人とは、エゴのない人だ。
自分の本質が意識であることに気づき、その本質をすべての「他者」、生きとし生けるもののなかに認める人だ。
彼らは慎ましく大いなるものに身を委ね、それゆえに全体及びすべての源との一体感を覚えている。
彼らは自然を含め地上の生命のすべての側面を変えようとする目覚めた意識そのものだ。
地上の生命(人生)は、生命を認識し生命と相互作用する人間の意識と不可分だからである。
それが、柔和な者が地を受け継ぐということだ。
たったいま、地上に人類の新しい種が生まれようとしている。
あなたもその一人だ!



 

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