ニュー・アース   第9章 人生の目的は「何をするか」ではなく「何者であるか」

「ニュー・アース―意識が変わる 世界が変わる―」(サンマーク出版)
エックハルト・トール(著),吉田 利子(翻訳)



















第9章 人生の目的は「何をするか」ではなく「何者であるか」

内なる目的と外部的な目的

人がただ今日を生き延びられればいいというレベルから脱すると、人生の意義や目的が大きな問題になる。

日々の暮らしに追われて人生の意義など考えていられないと感じている人も多い。
また、人生なんていつのまにか過ぎ去る、あるいは過ぎ去ってしまったと思っている人もいる。
仕事が大変で、家族を養うのに忙しすぎて、あるいは経済問題や日々の問題に制約されて動きがとれないと感じている人もいるだろう。
ある者は強いストレスに、ある者はどうしようもない退屈に押しつぶされているかもしれない。
目の回るような多忙さのなかで自分を失っている者も、停滞のなかで自分を失っている者もいる。
多くの人々が、金持ちになったら自由に伸び伸びと翼を広げられると憧れる。

すでに豊かさが与えてくれる相対的な自由を享受し、それだけでは意義ある人生にはならないと気づいた人たちもいるだろう。
人生の真の目的を発見すること、これに代わるものはない。

しかし人生の真のあるいは第一義的な目的は、外の世界には見つからない。
それはあなたが何をするかではなくて、あなたが何者であるかに、つまりあなたの意識状態に関わっている。

そこで、いちばん大切なのは次のことに気づくことだ。

あなたの人生には内なる目的と外部的な目的とがある。
内なる目的は、あなたがどんな存在であるかに関わる。
こちらが第一義的な目的。

外部的な目的は、あなたの行動に関わる。
こちらは二義的な目的。

本書は主として内なる目的について語っているのだが、本章及び次章では人生の外部的な目的と内なる目的をどう調和させるかという問題を取り上げる。
ただし内なる目的と外部的な目的は密にからみあっているから、いっぽうに触れずにいっぽうだけについて語るのはほとんど不可能なのだが。

あなたの内なる目的はまことにシンプルだ。
目覚めること。

あなたはこの目的を地上のすべての人と分かち合っている。
これは人類の目的だからだ。
あなたの内なる目的は全体の、宇宙の、現出しつつある知性の目的の一環で、それと不可分だ。
外部的な目的は時とともに変わり得る。
人によっても大きく違う。
内なる目的を見出してそれと調和した生き方をすること、それが外部的な目的達成の土台だ。
其の成功の基盤である。

この調和がなくても、努力や苦闘、断固たる決意、この上ない勤勉、あるいは狡猾さによってある種の目標を達成することはできるだろう。
だがそこに喜びはないし、結局はなんらかの形の苦しみにつながる。


目覚め

目覚めとは意識の変化であり、その変化した意識のなかで思考と気づきが分離する。
ほとんどの人にとって、これは一度限りの出来事ではなくて過程、プロセスとして訪れる。
とつぜんの劇的で不可逆的な目覚めを体験する人も稀にはいるが、そういう人たちでも実は新しい意識状態が徐々に流れ込んですべての行動が変化し、その意識状態が人生に取り込まれていくプロセスを経験しているはずだ。

目覚めると、思考に呑み込まれて自分を失うことがなくなる。
思考の背後にある気づきが自分だとわかる。
すると思考はあなたを振り回して指図をする利己的で自律的な活動ではなくなる。
思考の代わりに気づきが主導権を握る。
思考はあなたの人生の主役ではなくなり、気づきに仕えるようになる。

目覚めとは、普遍的な知性と意識的につながることだ。
言い換えれば「いまに在る」こと、思考なしの意識である。

目覚めのプロセスは一つの恩寵として始まる。
自分で起こすことはできないし、そのための準備をしたり、そのために功績を積み重ねていくこともできない。
きちんと段階を踏んでいけば到達できるというものではないのだ。
もしそうなら精神は大喜びだろうが。

そのためにふさわしい人間にならなければいけないというものでもない。
目覚めのプロセスという恩寵は聖人より先に罪人に訪れるかもしれないが、しかし必ずそうだというものでもない。
だからこそイエスは尊敬できる人々だけでなくあらゆる人々とつきあった。

目覚めに関してあなたにできることは何もない。
何かしようとしても、それは目覚めや悟りを価値ある所有物として獲得し、自分をもっと重要に大きく見せようとするエゴの試みになってしまうだろう。
目覚める代わりに目覚めという「概念」を精神に付け足すか、目覚めた人や悟った人はこうだろうというイメージを描き、そのイメージ通りに生きようとするだけになる。
自分や他人のイメージに合わせて生きることは、真正な生き方ではない。
これもエゴの無意識が演じる役割にすぎない。

目覚めるために自分でできることはなくて、それはすでに起こっているかこれから起こるかのどちらかであるなら、どうして目覚めることが人生の第一義的な目的になり得るのか?
目的とはそれに向かって何か行動できることのはずではないか?

最初の目覚め、思考抜きの意識を一瞬であれ垣間見ること、それだけがあなたの側の行為といっさい関わりなく恩寵として起こる。
本書がちんぷんかんぷんだ、わけがわからないとお思いなら、あなたはまだ目覚めを体験していない。
しかしあなたのなかで何かが反応するなら、なるほどそうだと感じるなら、すでに目覚めのプロセスは始まっている。

プロセスがいったん始まれば、エゴに邪魔されて遅れることはあっても後戻りすることはない。
本書を読むことでプロセスが始まる人もいるかもしれない。
また本書がきっかけですでにプロセスが始まっていることに気づき、それを加速、強化する人もいるだろう。
さらに本書を読んで、自分のなかにエゴがあって自分を支配しようとしたり目覚めを邪魔しようとしたりしていると気づく人もいると思う。
人によっては、いままでずっと自分と同一化してきた習慣的な思考、とくにしつこいネガティブな思考にはっと気づくことから目覚めが始まる。

思考に気づいていて、しかもその思考の一部ではない意識がふいに目覚める。
目覚めと思考はどんな関係にあるのだろう?
目覚めとは空間で、その空間が自らに気づいたとき、その空間に思考が存在することがわかる。
目覚め、あるいは「いまに在る」ことは、わかる人には直接的な体験として生じる。
もう単なる精神的な概念ではない。

そうなると無益な思考に耽るのではなく、「いまに在る」ことを意識的に選択できるようになる。
「いまに在る」ことを人生に招き入れる、言い換えれば空間をつくることができる。
目覚めの恩寵には責任が伴う。
何事もなかったように生きていくこともできるし、目覚めの意義を理解して、自分の人生に起こった最も重要な出来事だと認識することもできる。
それは自分で決めることだ。
後者であるなら、現れた意識に向かって自分を開き、その光をこの世界に伝えることが人生の第一義的な目的になるだろう。

「私は神の心が知りたい」とアインシュタインは言った。
「残りは瑣末(さまつ)なことだ」と。

神の心とは何か?
意識である。
神の心を知るとはどういうことか?
目覚めることである。
瑣末なこととは何か?
外部的な目的、外部世界で起こるすべてである。

したがって、あなたが人生に何か意義のあることが起こらないかと待っているとき、実は人間に起こり得る最も有意義なことがすでに自分のなかで起こり、思考と気づきの分離のプロセスが始まっていることに気づいていないのかもしれない。

目覚めのプロセスの初期段階にある人たちの多くは、自分の外部的な目的が何なのかわからなくなる。
世界を動かしているものには動かされなくなる。
現代文明の狂気がはっきりと見えて、周囲から浮き上がったと感じるかもしれない。
二つの世界を隔てる無人地帯にいるような気がする人もいるだろう。
その人たちはもうエゴに動かされてはいないが、まだ目覚めが充分に人生に取り込まれていない。
内なる目的と外部的な目的がひとつになっていないのだ。


内なる目的に関する対話

以下は人生の真の目的を求める人々と私が交わした対話の集約である。
この対話とあなたの奥深くにある何かが共鳴するとしたら、その通りだと感じるものがあるとしたら、あなたの内なる目的と調和するとしたら、そこに真実がある。
だからこそ内なる第一義的な目的にまず関心を向けていただきたいと思う。

「はっきりとはわからないが、人生を変えたいと思うんです。
もっと伸び伸びと羽ばたいてみたい。
何か意義のあることがしたい。
そりゃお金も、お金が実現してくれる自由も欲しいです。
何か意味のあること、この世界に役立つことをしてみたいとも思います。
でも、実際のところ何がしたいのかと聞かれたら、わからないと言うしかありません。
人生の目的を見つけたい。
手伝ってもらえますか?」

「あなたの目的はここに座って、私と話すことでしょう。
だっていまあなたはここにいて、私と話しているんですからね。
あなたが立ち上がって別のことをするならそれはまた別ですよ。
そのときはその別のことがあなたの目的になりますね」

「それじゃ私の目的は、これから引退するまで、あるいはクビになるまでの三十年間、オフィスにじっと座っていることなんですか?」

「あなたはいまオフィスにはいないでしょう。
だからそれは目的じゃありません。
オフィスにいて何かをしているなら、それがあなたの目的です。
これから三十年間ではなくて、いまの目的ですがね」


「何か誤解があるみたいだな。
あなたの言う目的とは、いましていることのようだ。
私の言う目的は人生全体の目的、私の行動を意義あるものとしてくれるようなもっと大きくて意味のあるもの、人生を変える何かなんです。
それはオフィスで書類をいじることじゃない。
それだけはわかっているんです」

「あなたが『いまに在る』ことに気づかない限り、行動だの未来だの、つまり時間の次元でばかり意味を探し続けるでしょう。
そこで意味や充足を発見したとしても、そんなものはいずれは解体したり、偽りだったということになりますよ。
必ず時間とともに壊れていきますからね。
時間のレベルで見出す意味には、相対的で一時的な真理しかないんです。
たとえば、子育てが人生に意味を与えてくれるとしましょう。
でも子どもがあなたを必要としなくなったら、それどころかあなたの言葉に耳も貸さなくなったら、どうなりますか?
人を助けることがあなたの人生に意味を与えてくれるとしたら、人生に意味があるか、良い気分でいられるかは、あなたより困っている人しだいだということでしょう。
あれこれに卓越すること、勝利すること、成功することが人生の意味なら、勝利できなかったり、ある日連勝にストップがかかったらどうなりますか?
いずれはそうなるでしょう?
そうしたら想像や記憶にすがるしかない。
それで人生にささやかな意味を与えようとしても、とても満足できないでしょうね。
どんな分野であれ『成功する』ことに意味があるのは、ほかの数千人数百万人が失敗するからでしょう。
するとあなたの人生を意味あるものにするには、他の人たちの『失敗』が必要だってことになる。
人を助けること、子どもを育てること、どんな分野でも卓越しようと努力することに価値がないと言っているのではありませんよ。
こういうことはみな、多くの人にとっては大切な外部的な目的です。
でも外部的な目的はつねに相対的で、不安定で、一時的です。
だからって、そういうことをするなと言うのではありません。
それを内なる第一義的な目的と結びつけなさい、そうすればあなたの行動にもっと深い意味が生まれますよ、と言っているのです。
第一義的な目的と調和して生きていないと、どんな目的も、地上に天国を創り出したいという目的でさえ、エゴに支配され、時とともに破壊されるでしょう。
遅かれ早かれ苦しみにつながります。
内なる目的を無視しているなら、何をしても、スピリチュアルに見えることをしたとしても、そこにエゴが忍び込みますから、結局は手段が目的を裏切ることになります。
『地獄への道には善意という敷石が敷かれている』という言葉はこの真実を指しているのです。
言い換えれば、大切なのは目的や行動ではなくてそのもとにある意識の状態だということです。
第一義的な目的を達成することは、新しい現実、新しい地球の基礎を築くことです。
その基礎が築かれれば、あなたの目的や意図は宇宙の進化の動きとひとつになり、外部的な目的にスピリチュアルな力がみなぎるでしょう。
思考と気づきの分離、それが第一義的な目的の核心にあるのですが、これは時間の否定を通して起こります。
もちろんここで言っているのは、時間を決めて会う約束をするとか旅行の計画を立てるというような実際的な意味での時間ではありません。
そういう時計で計る時間ではなくて、心理的な時間、見つかるはずのない未来に充実した人生を求め、唯一のアクセスポイントである現在のこの瞬間を無視するという、心の奥底に巣食っている習慣のことです。
いましていること、いまいる場所を人生の主要な目的とみなすなら、あなたは時間を否定しているのです。
これはとても大きな力ですよ。
たったいましていることを第一に考えて、時間を否定すると、内なる目的と外部的な目的、『在ること』と「行うこと』がつながります。
時間を否定すると、エゴを否定することになるんです。
何をするにしても、すばらしくうまくできます。
行為そのものが関心の焦点になりますからね。
そしてその行為は、意識がこの世界に入り込む通路になります。
これはどういうことか。
どんなに単純な行為であっても、電話帳のページをめくるだけでも、部屋を横切るだけでも、その行為に質が伴うということです。
ページをめくる行為の主たる目的はページをめくること、二次的な目的は電話番号を見つけることです。
部屋を横切るという行為の主たる目的は部屋の向こうへ行くこと、二次的な目的はあちらにある本を手に取ることで、本を手に取る瞬間には本を手に取ることが主たる目的になります。
以前お話しした時間のパラドックスを覚えていますか?
何をするにしても時間はかかるが、しかし時間はいつも『いま』なのです。
だから内なる目的が時間の否定でも、外部的な目的には未来が関わってくるし、時間なしには存在できません。
でもそれはつねに二次的なんです。
不安やストレスを感じるのは、外部的な目的に支配されて内なる目的を見失っているからです。
いちばん大事なのはあなたの意識の状態で、あとはすべて二次的なことだというのを忘れているのです」

「そんなふうに生きていたら、大きなことを成し遂げようなんて思えなくなるんじゃありませんか?
どうでもいい小さなことに足を取られて一生が終わるんじゃないか、それが不安なんですよ。
平々凡々のまま、何ひとつ大きなことを達成できず、自分の可能性を発揮できずに終わるのが嫌なんです」

「大きなことは、小さなことを大切にするなかから生まれるんですよ。
どんな人の人生だって小さなことから成り立っているのです。
偉大だとか立派だとかいうのは精神的抽象的な概念で、エゴの大好きな幻想です。
ところが偉大なことの基本は、偉大という概念を追いかける代わりに、いまこの瞬間の小さなことを大切にすることなんです。
逆説的ですがね。
いまこの瞬間はつねにシンプルで、その意味ではつねに小さいでしょうが、そこに偉大な力が秘められています。
いまこの瞬間と自分自身を調和させたとき、そのときにだけ、その大きな力にアクセスすることができます。
と言うよりも、その力のほうがあなたにアクセスし、あなたを通じてこの世界にアクセスする、と言うほうが正確かもしれません。
イエスが『私は、自分では何もできない』と言ったのは、そういう意味です。
不安やストレスやネガティブな精神はその力からあなたを切り離してしまう。
自分は宇宙を動かしている力とは離れた別個の存在だという幻想が戻ってくる。
あなたはまた一人ばっちだと感じ、何かを相手に苦闘したり、あれこれを成し遂げようと必死になる。
でも、どうして不安やストレスやネガティブな精神が生じるのでしょう?
いまという瞬間に背を向けたからです。
では、どうしていまという瞬間に背を向けるのか?
何か他のことのほうが重要だと思ったからです。
肝心の目的を忘れたからです。
ほんの小さな過ち、誤解、それが苦しみの世界を生み出すのです。
いまという瞬間を通じて、あなたは生命そのものの力にアクセスする。
その力は昔から『神』と呼ばれてきました。
あなたが背を向けた瞬間、『神』はあなたの人生の現実ではなくなり、残るのは『神』という概念だけになる。
その概念をある人は信じ、ある人は否定する。
しかし『神』を信じることも、人生のすべての瞬間に立ち現れている『神』の現実を生きることに比べれば、実にお粗末な代用品でしかないんですよ」

「いまという瞬間と完壁に調和するとは、あらゆる動きが止まるということじゃないですか?
目標があると、いまという瞬間との調和が破れ、その目標が達成できたときにやっと、もっと高くて複雑なレベルで調和が回復する、そういうことじゃありませんか?
だって土から芽を吹く若木は、いまという瞬間と完全に調和しているとは言えないでしょう?
若木には大きな木になるという目標があるわけだから。
大きな木になってしまえば、いまという瞬間と調和して存在することができるかもしれないが」

「若木は別に何かになりたいなんて望んではいませんよ。
若木は全体とひとつであって、その全体性が若木を通じて活動しているんです。
『野の百合がどう育つかを見てごらん』とイエスは言いました。
「働きもせず、紡ぎもしない。しかし栄華をきわめたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」。
全体性――生命――は若木が大きな木になることを望んでいるとは言えるかもしれないが、若木は自分と生命を別物だとは感じていないし、だから自分以外の何ものかになりたいとも望んではいませんよ。
生命が望むことと一体なんです。
だから心配もなければストレスもない。
大きな木になる前に枯れても、安らかに死ぬでしょう。
生命に身を預けたと同じように、死に身を預けるはずです。
どれほどかすかであれ、若木は自分が『大いなる存在(Being)』に、つまり形のない永遠なる生命に根ざしていると感じているでしょうね。
古代中国の道教の賢者たちと同じく、イエスも自然に関心を向けなさいと教えた。
それは人間が触れ合うことができなくなった力が自然のなかで働いているのを知っていたからです。
それが宇宙の創造力です。
イエスは、神はたった一つの花でさえこれほど美しく着飾らせてくれる、ましてあなたがたならどれほど美しく着飾らせてくれることか、と言いました。
自然は進化し続ける宇宙の美しい表現だが、人間が宇宙の進化の奥にある知性と調和できれば、人間はもっと高いすばらしいレベルで宇宙の進化を表現するだろう、ということです。
だから、内なる目的に忠実であることで、生命(人生)に忠実でありなさい。
あなたが『いまに在り』、全身全霊をあげていましていることをするなら、あなたの行為にはスピリチュアルな力が働きます。
最初は行為そのものに別に目立った変化はないかもしれない。
ただ、やり方が変わるだけでしょう。
いまや、行為の第一義的な目的はその行為に意識を込めることです。
二次的な目的は、その行為を通じて達成しようとする何かです。
以前の目的はつねに未来にあったのに対して、新たなもっと深い目的はいまに、時間を否定したいまにだけ見つかるのです。
職場やその他の場所で人と会うときには、相手に関心のすべてを注ぎなさい。
あなたは個人としてそこにいるのではなく、気づきの場として、研ぎ澄まされた『いまに在る』状態として、そこにいるのです。
人との関わりの本来の理由――モノの売り買いや情報のやりとりなど――は、二次的なことになります。
二人の人間のあいだに立ち上がる気づきの場、それが人との関わりの第一義的な目的になるのです。
その気づきの空間が、その場の話題よりも、物理的な対象や思考の対象よりも、もっと重要になります。
『人間という大いなる存在(human being)』のほうがこの世界のものごとよりも重要になるのです。
だからといって、実際的なレベルでその場ですべきことを無視しろと言うのではありませんよ。
それどころか『大いなる存在』の次元が認識されて、第一義的な重要性をもてば、行為はもっと容易に、もっと力強くなるでしょう。
この人間同士の気づきがひとつになる場の出現、それが新しい地における人間関係の最も基本的な要素です」

「それじゃ、成功という概念もエゴの幻想にすぎないんですか?
真の成功かどうか、どうすれば判断できるのですか?」

「世間では、成功とは目標を達成することだと言うでしょう。
成功とは勝利であり認められることや豊かになることが成功の不可欠の要素だと。
でもいまあげたのは通常の成功の副産物ではあっても、成功そのものではありません。
世間一般に言う成功とは、あなたの行為の結果のことです。
成功とは刻苦勉励と幸運が、あるいは強い意志と才能が合わさったものだとか、適切なときに適切な場所に居合わせることだと言うでしょう。
どれも成功の要素かもしれませんが、本質ではありません。
世間が数えてくれないのは――知らないから教えられないのですが――あなたは成功者になることはできない、ってことです。
できるのはいま成功すること、それだけです。
成功とは、いまこの瞬間の成功でしかない。
そうじゃないなんていう誤った世間の言葉に耳を貸してはいけません。
では、いまこの瞬間の成功とは何か?
自分の行為に、それがどれほどシンプルな行為であっても、質の裏打ちがあることです。
質の裏打ちがあるとは、心遣いと関心、つまり気づきがあるということです。
質の裏打ちがあるためには、あなたが「いまに在る」必要があるんです。
あなたがビジネスマンで、二年間ストレスに耐えてがんばって、ようやく良く売れる製品あるいはサービスを送り出し、金儲けをしたとしましょう。
これは成功でしょうか。
世間的には成功です。
だがあなたは二年間、自分の身体だけでなく地球もネガティブなエネルギーで汚し、自分自身もまわりの人たちも惨めにして、会ったこともない大勢の人たちにも影響を及ぼしてきたのです。
そういう行為の陰にある無意識の想定は、成功とは未来の出来事で、目的が手段を正当化するというものだが、目的と手段はひとつです。
手段が人類の幸福に貢献しないなら、目的だって貢献しないでしょう。
結果はそこに至る行為と不可分ですから、行為によってすでに汚染されているなら、未来の不幸を生み出すはずです。
それが無意識のうちに不幸を永続させるカルマというものです。
もうご存じのとおり、二義的外部的な目的は時間の次元にありますが、主たる目的はいまと不可分で、したがって時間を否定します。
この二つをどう両立させるか?
自分の人生という旅全体が結局はいまこの瞬間の一歩から成り立っていると気づくことです。
つねにあるのはこの一歩だけ、だからそこにすべての関心を注ぐんです。
もちろん、行き先はどうでもいいってことではありませんよ。
この一歩が主で、行く先は二次的だってことです。
そして目的地に着いたときに何に出会うかは、この一歩の質にかかっているんです。
言い換えれば、どんな未来が開けるかは、いまのあなたの意識が決めるということです。
行為に時間を超えた『大いなる存在』という質が注入されれば、それが成功です。
『大いなる存在』が行為に流れ込まない限り、あなたがいまこの瞬間にいない限り、あなたは目の前の行為にまぎれて自分を見失うでしょう。
また思考のなかで、それに外部世界で起こることへの反応のなかで、自分を見失うでしょうね」

「『自分を見失う』って、どういうことですか?」

「あなたの本質は意識です。
意識(つまりあなた)が思考に自分を完全に同一化し、その本来の性質を忘れれば、思考のなかで自分を見失ったということです。
欲望や恐怖――これはエゴの第一義的な動機ですが――という精神的、感情的な構造物に自分を同一化すれば、その構造物のなかで自分を見失います。
また、行為や出来事への反応に自分を同一化すれば、そこでも自分を見失います。
あらゆる考え、あらゆる欲望や恐怖、あらゆる行為や反応が、偽りの自己という意識を帯び、『大いなる存在(Being)』のシンプルな喜びを感じられなくなって、その代用品として快楽やときには苦痛までも求めるようになります。
これが『大いなる存在(Being)』を忘れて生きるということです。
自分を忘れたこの状態では、どんな成功も儚(はかな)い妄想にすぎません。
何を達成してもすぐに不幸になるか、別の問題やジレンマが生じてあなたの関心をすべて呑み込んでしまうでしょう」

「内なる目的を認識したとして、それでは外的なレベルで自分が何をすべきか、どうすればわかるんですか?」

「外的な目的は人によって違いますし、どんな外的な目的も永遠ではありません。
時間とともに変わるし、別の目的に取って代わられるんです。
それに気づきという内なる目的にどれほど真剣かということでも、人生は大きく変わってきます。
人によっては過去ととつぜん、あるいは徐々に訣別するでしょう。
仕事、生活環境、人間関係――すべてが根源的な変化を遂げます。
そのなかには自然に起こる変化もある。厳しい意思決定のプロセスを経るのではなく、ふいにそうか、そうなんだ、と気づくんです。
こういうことです。
意思決定がいわばできあいのものとして自然にやってくる。
思考を通じてではなく気づきを通じて訪れます。
ある朝、目が覚めたとき、自分が何をすべきかがわかる。
常軌を逸した働き方や生活環境から離れる人もいます。
だから外部的なレベルで何をすべきかを見出すより前に、何をすればいいのか何が気づきという意識と両立するのかを知る前に、何が正しくないのか、何がもう機能しないのか、何が内なる目的と両立しないのかに気づかなくてはならないでしょう。
外からふいに訪れる変化もあるかもしれません。偶然の出会いが新しいチャンスとなって、人生が広がるかもしれない。
長いあいだの障害や葛藤が解決するかもしれません。
友人たちはあなたとともにこの内なる変容を経験するかもしれないし、あなたから遠ざかるかもしれない。
疎遠になる人間関係も、深まる人間関係もあるでしょう。
会社でクビになるかもしれず、逆に職場に前向きの変化を起こす原動力となるかもしれませんね。
配偶者は離れていくかもしれないし、新たなレベルの親近感が生まれるかもしれない。
表面的にはネガティブに見える変化もあるでしょうが、いずれは新しい何かが生まれるための空間ができたのだと気づくでしょう。
不安で不確定な時期も通るでしょうね。
自分は何をすべきなのか?
人生を動かすのがエゴではなくなると、外部的な安定に対する心理的な要求も(これは結局は幻想ですが)減少します。
そうなれば不確定でも生きられるし、それどころか楽しむことさえできるようになります。
不確定に安んじていられると、人生に無限の可能性が開けるのです。
もう恐怖は行動の支配的な要素ではなくなるし、変化を起こす妨げにもなりません。
ローマの哲人タキトウスは、『安全への欲求があらゆる高貴な偉業を阻む』と述べています。
不確定性を受け入れられないと、それは恐怖に変わる。
だが完全に受け入れれば、生命力や研ぎ澄まされた洞察、創造力が充実するんですよ。
何年も前、私は強い内なる衝動に動かされて『前途有望』と言われた学者としてのキャリアを中断し、まったく不確実な道に踏み出しました。
そして数年後、スピリチュアルな指導者としての新たな人生が始まったんです。
転生ですね。
さらにその後にも再び同様のことが起こりました。
とつぜんの衝動のままに私は英国を去り、北米の西海岸に移住したのです。
理由はわからなかったが、私はその衝動に従いました。
この不確定性への移行から、著書『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』が生まれました。
あの本は自分の住まいさえもなかったカリフォルニアとブリティッシュ・コロンビアで書いたんです。
もちろん収入もなく、預金を切-崩して暮らしていたのですが、それもどんどん減っていきました。
ところが、すべて不思議なほどうまくいったんですね。
本を書き終わるころ、ちょうどお金も底をついたのですが、たまたま買った宝くじで千ドル当たったんです。
それでまた一か月、暮らすことができました。
ただし、誰もが必ず外部環境の大幅な変化を経験するわけではありません。
対照的に、それまでとまったく変わらない場所で同じことを続けている人たちもいます。
その人たちにとっては、何をするかは同じでどのようにするかだけが変化するのです。
これは恐怖のせいでも、無力感のせいでもありません。
その人たちがしていたことがすでに、意識をこの世界にもたらすための完壁な手段で、他のものは必要なかったということです。
その人たちもまた、新しい地を出現させるために一役買っているのです」

「誰の場合もそうなんでしょうか?
だって内なる目的の達成がいまこの瞬間とひとつになることなら、どうしていまの仕事や生活環境を変えなくちゃならないなんて思うんですか?」

「あるがままのいまとひとつになることは、もう変化を起こさないとか、活動を起こせないこととは違います。
活動を起こす動機がエゴイスティックな欲望や恐怖ではなく、もっと深いレベルにあるということなんです。
自分のなかでいまこの瞬間と調和すると意識が解放されて、全体との調和が実現します。
いまこの瞬間は全体と不可分ですからね。
そのとき全体、つまり生命(人生)そのものの総体があなたを通じて動き出すのですよ」

「その全体って、何のことですか?」

「全体とは存在するすべてから成り立っています。
世界、宇宙と言ってもいい。
そのいっほうで、存在するすべては微生物から人間、銀河にいたるまで、ほんとうは個別の存在ではなくて、からみあった多次元のプロセスという網の目の一部なんですよ。
私たちにはなぜこの一体性が見えないのか、どうして個別の存在としてしか見られないのか、理由は二つあります。
一つは感覚ですね。感覚は、私たちが五感でアクセスできる狭い範囲に現実を矮小(わいしょう)化してしまう。
見て、聞いて、嗅いで、味わって、触れることのできる世界です。
だが解釈したりレッテルを貼ったりせずに、ただ感じ取ると(つまり感覚によけいな思考を付け加えないと)、一見ばらばらな感覚の底にあるさらに深いつながりを感じ取ることができるんです。
個別という幻想が生じるもう一つの、そしてもっと重大な理由は強迫的な思考です。
宇宙は自分たちとは別のものだという絶え間ない強迫的な思考の流れにからめとられると、すべてがつながりあっていることを感じ取れなくなります。
思考は現実を生命のない断片に切り裂いてしまう。
こういう断片的な現実感から、きわめて非知性的で破壊的な行動が起こるんです。
ただし、この全体には存在するすべてのつながりよりもさらに深いレベルがあります。
その深いレベルでは、すべてはひとつです。
それが源です。
形として現れていない生命です。
時を超えた知性で、それが時間のなかで展開する宇宙という形で現れるのです。
全体はモノの存在と生命という『大いなる存在』によって、形として現れたものと現れないものによって、この世界と神とで成り立っています。
だから全体と調和すればあなたは全体のつながりとその目的の――つまりこの世界に意識を出現させるための――意識の一部になるわけです。
するとどこからか助けが現れ、まさかの出会いや偶然があり、共時性と言われる不思議な一致が頻繁に起こります。
カール・ユングは共時性を『因果律ではないつながりの原理』と呼びました。
私たちの現実という表面的なレベルでは同時に起こる出来事に因果関係が見られない、という意味です。
それは現象世界の奥にある知性の外部的な現れであり、私たちの心では理解できない深いつながりなんです。
でもその知性の展開に、花開く意識に意識的に参加することはできます。
自然は無意識のうちに全体とひとつの状態として存在します。
だから、たとえば2004年の津波災害でも、野生動物には事実上被害はありませんでした。
人間よりも全体と触れ合っているから、見たり聞いたりするよりずっと早く津波の襲来を知って、高台に逃げることができたんです。
いや、これも人間の視点から見た言い方でしょうね。
動物たちはただ高台に移動した、それだけかもしれない。
こういう理由でこう行動する、というのは、心が現実を切り取るやり方です。
ところが自然は無意識のうちに全体とひとつになって生きている。
全体と意識的にひとつになり、宇宙の知性と意識的に調和することで、この世界に新しい次元をもたらす、それが私たちの目的であり、運命です」

「その全体とやらは、その目的と調和するものごとを創造したり状況を創り出したりするために、人間の心を利用することができるんですか?」

「そうです。インスピレーション(インスピレーションとは『スピリット(霊)のなかに』という意味ですね)が働くとき、そして情熱(情熱‥enthusiasmとは、『神のなかに』という意味です)があるとき、単なる個人をはるかに超えた創造力が生まれるんですよ」


 

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