ニュー・アース   第8章 内なる空間の発見

「ニュー・アース―意識が変わる 世界が変わる―」(サンマーク出版)
エックハルト・トール(著),吉田 利子(翻訳)



















第8章 内なる空間の発見

これもまた過ぎ去る

スーフィ教徒たちに伝わる古い物語によれば、中東のある王様はしょっちゅう幸福と意気消沈を繰り返していた。
ちょっとしたことで動転して激しい反応を起こし、幸福はあっというまに落胆から絶望へと変わる。
やがて王様もそんな人生がほとほと嫌になり、なんとか脱出できないかと考え、使いを出して、悟りを開いたと評判の賢者を呼び寄せた。
賢者がやってくると、王様は言った。
「私はあなたのようになりたい。
人生に調和と静護と智恵をもたらしてくれるものはないか?
あるなら望み通りの報酬をとらせるが」。

賢者は答えた。
「そのようなものはないこともありません。
しかし報酬となると王国すべてをいただいても足りないでしょう。
だからお受けくださるなら、贈り物として差し上げましょう」。
王様はぜひ欲しいと答え、賢者は立ち去った。

数週間後、賢者は戻ってきて王様にヒスイに彫刻を施した美しい箱を渡した。
開けてみると、箱のなかにはシンプルな金の指輪が入っていて、指輪には文字が彫り込まれていた。
こんな言葉だった。
「これもまた過ぎ去るだろう」。

「どういうことか?」。
王様は尋ねた。
賢者は答えた。
「いつもこの指輪をはめておられることです。
そして何かが起こったら、それが良いことか悪いことかを決める前に、指輪に触れてこの言葉をお読みになるのです。
そうすれば、いつも平和な気持ちでいることができます」。

これもまた過ぎ去るだろう。
この簡単な言葉にそれほど大きな力があるのだろうか?
ちょっと考えると、これは困ったときには多少の慰めにはなっても、良いことが起こったときにはかえって人生の喜びを半減させてしまうように思われる。
「あまり有頂天になるな。これもまた過ぎ去るのだから」
と言っているように聞こえるからだ。

この言葉の深い意味は、前出の二つの物語と合わせて考えるとよくわかる。
いつも「ほう、そうか?」としか答えなかった禅の老師の物語は、目の前の出来事に抵抗しない――起こった出来事をまるごと受け入れる――ことのすばらしさを教えている。
また、いつも「そうかもしれない」という簡潔な返事をした男性の物語は、判断しないという知恵を、
そしてこの指輪の物語は、すべては無常であり移ろうものと知れば執着せずにすむことを教えているのである。

抵抗しない、判断しない、そして執着しない。
この三つは真の自由の、そして悟りを開いた生き方の三つの側面なのだ。

指輪に記された言葉は、人生の良いときを楽しむなと言っているわけでもないし、苦しいときの気休めを提供しているわけでもない。
この言葉にはもっと深い意味がある。
すべての状況は変化し、すべての形は(良いものも悪いものも)一時的でしかないと気づきなさいということだ。

すべての形は無常であると気づけば、形に対する執着も、形への自分の同一化も減る。
執着しないとは、この世界が提供してくれる良いものを楽しまないことではない。
それどころか、もっと楽しむことができる。
すべては無常で変化が不可避であることを知って受け入れれば、楽しいことを失うのではないかと恐れたり将来を心配したりせずに、楽しいことが続いているあいだは楽しむことができる。

執着しない人は人生の出来事の罠に落ちる代わりに、すべてを見通す一段高い視点に立つことができる。
広大な宇宙空間に浮かぶ地球を見つめて、地球はこのうえなく貴重だが、同時に一つの惑星にすぎないという逆説的な真実に気づく宇宙飛行士のようなものだ。
これもまた過ぎ去るだろう、という認識は無執着につながり、無執着によって人生に新しい次元――内なる空間――が開かれる。
執着せず、判断せず、内なる抵抗をやめることで、その次元に近づくことができるのだ。

形への全面的な同一化から離れると、意識――本来のあなた――が形という牢獄から解放される。
この解放が内なる空間の誕生だ。
たとえ悪いことが起こっているように見えるときでも、この空間は静寂と不思議な平安をもたらしてくれる。
これもまた過ぎ去るだろう、と。

さまざまな出来事、現象のまわりに、ふいに空間ができる。
感情の起伏や苦痛にさえも、そのまわりに空間が生まれる。
何よりも、あなたの思考のまわりに空間が生じる。
その空間から「この世のものならぬ」平安がにじみ出る。
この世は形であり、この平安は空間だから。
それが神の平安である。

そうなればこの世界の出来事を楽しみ尊重しても、そこに本来あるはずのない重要性や意味を見出したりはしなくなる。
創造のダンスに参加して結果に執着せずに活動し出し、
私を満たしてくれ、私を幸せにしてくれ、安全だと思わせてくれ、私が何者かを教えてくれ、という理不尽な要求をしなくなる。
この世界はそんな要求には応えられないし、そういう期待を捨てれば、自分で創り出している苦しみはすべてなくなる。
そんな苦しみはいずれも形の過大評価と、内なる空間次元を知らないことから生まれている。
あなたの人生に内なる空間の次元が生じれば、感覚の喜びに溺れも執着もせずに、つまりこの世界に嗜癖(しへき)せずに、ものごとを楽しむことができる。

これもまた過ぎ去るだろう、という言葉は、現実への道標だ。
すべての形は無常であると示すことで、逆に永遠をも指し示している。
あなたのなかの永遠なるもの、それだけが無常を無常と認識できる。

内なる空間を失ったり、知らずにいると、この世界のものごとをやたらと重要だと考え、本来あるはずのない深刻さや重さをはらんでいるように思う。
形のない次元から見ないと、この世界は脅威で、ついには絶望するしかない場所になる。
「すべてのことはものうい。人は語ることさえできない」
と言った旧約聖書の預言者も、そう感じていたに違いない。


モノの意識と空間の意識

たいていの人の人生は物質的なモノやしなければならないこと、考えるべきことなどのものごとでいっぱいだ。
そういう人生はウィンストン・チャーチルが「ろくでもないことの連続」と評した人類史のようなものだろう。
その人たちの心は思考で散らかっていて、次から次に思考が押し寄せてくる。
これがモノの意識の次元で、多くの人々にとっての圧倒的な現実であり、だから彼らの人生はまったくバランスを欠いている。

地球に正気を取り戻し、人類が運命をまっとうするために、モノの意識に対して空間の意識でバランスをとらなくてはならない。
この空間の意識の台頭、それが次の段階の人類の進化である。

空間の意識とは、モノの意識――要するに知覚、思考、感情――をもつと同時に、その底流に目覚めているということだ。
この目覚めは、ものごと(モノ)を意識するだけでなく、自分が意識している存在であることをも意識することである。
前景でものごとが起こっていても、その背景に内なる静寂があると感じ取れれば、それが空間の意識である!
誰にでもこの次元はあるが、ほとんどの人はまったく気づいていない。

私はときどき、こんなふうに指摘する。
「あなたは自分自身が『いまに在る』と感じていますか?」。
何かの出来事や人や状況に動転するとき、ほんとうの原因はその出来事や人や状況そのものではなく空間(スペース)だけが可能にする真の視点が失われることだ。

そのとき、あなたはモノの意識に囚われて、時を超越した意識そのものである内なる空間を見失う。
これもまた過ぎ去るだろう、という言葉を道標にすると、その内なる次元を取り戻すことができる。

もう一つ、真実への道標としてこんな言葉がある。
「私は自分の思考のせいで動揺したりはしない」。


思考より下、思考より上

ひどく疲れたときなど、いつもより穏やかなリラックスした気分になることがある。
これは思考が後退し、心が創り出した問題だらけの自己を思い出さなくなるからだ。
そのとき、あなたは眠りに近づいている。
お酒やある種のドラッグでも(ペインボディの引き金にならなければ)気楽なリラックスした気持ちになるし、しばらくはいつもより元気になって歌ったり踊ったりするかもしれない。
歌や踊りは大昔から人生の喜びの表現だった。

心という重荷が少し取り去られて、「いまに在る」喜びを垣間見るのだ。
だからこそ、アルコールは「スピリット」とも呼ばれるのだろう。
だが、それには無意識という高い代償が伴う。
思考より上に上るのではなく、思考より下に墜落するのだ。
もう何杯か重ねれば、植物状態に退行してしまうだろう。

空間の意識は、こういう「いってしまった」状態とはあまり関係ない。
どちらも思考を超えた状態で、それは共通する。

しかし基本的な違いは、前者は思考より上に上るのに対して、後者はそれより下に落ちることである。
いっぽうは人間の意識の進化の次のステップであり、もういっぽうは大昔に脱した段階への退行なのだ。


テレビと意識

テレビを見るのは世界じゅうの大勢の人々が大好きな余暇活動、というか不活動だ。
六十歳の平均的なアメリカ人は、生涯の十五年分をテレビ画面を見つめて過ごしている計算になるという。
他の多くの国でも同じような数字が出るだろう。

たくさんの人々がテレビを見ていると「リラックス」できると感じる。
自分自身をよく観察してみると、テレビ画面に関心を集中している時間が長くなるほど思考活動が棚上げになり、トークショーやクイズ番組、連続ドラマ、それどころかコマーシャルでも、見ている時間には心のなかで何の思考も生まれていないことがわかるだろう。
もう自分の問題を覚えていないことはもちろん、一時的には自分自身からさえも解放されている。
これ以上にリラックスできることがあるだろうか?

それでは、テレビを見ていると内なる空間が生まれるか?
それによって、いまに在ることができるか?
残念ながらそうはいかない。
あなたの心は長時間、何の思考も生み出さないかもしれないが、その代わりにテレビ番組の思考活動とつながれている。
テレビ版の集団的な心とリンクされて、その思考を思考している。
心が活動していないといっても、自分の思考を生み出してはいないというだけのことで、依然としてテレビ画面から思考やイメージを吸収し続けている。

そこには催眠状態に似ていなくもない、受け身でぼうっとした、きわめて影響されやすい状態がある。
だからこそ、テレビは「世論」操作に利用される。
広告業者だけでなく政治家や種々の利害関係者もテレビが人々をぽんやりした受け身の状態にできることを知っていて、そのために大金を払うのも辞さない。
彼らは自分たちの思考をあなたに植えつけようと考え、ふつうは成功する。

したがってテレビを見ているときは、思考より上に上るのではなく、思考より下に落ちる傾向がある。
この点でテレビは、アルコールやある種のドラッグと同類だ。
ある程度は心から解放してくれるが、意識の喪失という高い代償を支払わなければならない。

それにドラッグと同じで強い依存性がある。
テレビを消そうとリモコンに手を伸ばしたはずなのに、気づけばあちこちとチャンネルを替えている。
三十分たっても一時間たっても、あなたはあいかわらずチャンネルを替えながらテレビを見続けているだろう。
電源を切るボタンだけはどうしても押せないかのように。

ふつうテレビを見続けているのは、おもしろいからではなく逆に興味がもてる番組がないからなのだ。
いったんテレビ依存症になると、番組がつまらないほど、無意味なほど、ますます依存が激しくなる。

興味深くて思考を刺激する番組であれば、あなたの心は自ら思考を始めるだろう。
これなら多少は意識が働くから、テレビが引き起こす催眠状態よりはまだましだ。
画面のイメージに完全に没入しているのではないから。

ある程度良質な番組であれば、ときには催眠状態に対抗し、心を麻痺させるテレビというメディアの効果を解消してくれることもあるだろう。
人々の暮らしを良いほうに変えて、心を開き、意識を高めてくれるような、多数の人々に非常に役立つ番組もないではない。

とくに内容のないコメディ番組でさえ、人間の愚行とエゴを諷刺(ふうし)し茶化すことで、はからずもスピリチュアルな効果をもたらすことがある。
そんな番組は何事であれあまり深刻に受けとめず、軽やかに人生と取り組みなさいと教えてくれるし、何よりも笑わせてくれる。
笑いは人を癒し、自由にする大きな力をもっている。
だがほとんどのテレビ番組はいまも完全にエゴの支配下にある人々にコントロールされているから、視聴者を眠らせる、つまり無意識にさせて支配することがテレビの密かな目標になっている。
しかしテレビというメディアには膨大な、いまもほとんど開拓されていない大きな可能性が存在する。

二、三秒ごとに変わるイメージで速射攻撃してくる番組やコマーシャルを見るのはやめたほうがいい。
テレビのなかでもとくにそのような番組の見すぎが、いま全世界の大勢の子どもたちに広がっている注意力欠陥障害の大きな原因になっている。
関心の持続時間が短いと、すべての知覚や人間関係が浅薄で不満足なものになる。
そんな状態ではすることなすことすべての質が落ちる。
関心がなければ質の高さは保てないからだ。

しょっちゅう長時間テレビを見ていると、無意識になるばかりでなく受け身になって、エネルギーが枯渇する。
だから手当たりしだいに見るのではなくて、番組を選ばなくてはいけない。
ときにはテレビを見ながらでも、自分の身体のなかの生命の躍動感を感じ取ろうと試みることだ。
あるいはときどき呼吸に関心を向けてみる。また視覚を完全にテレビに占領されないように、ときどきテレビ画面から目を離す。
聴覚を庄倒されないように、音量は必要以上に大きくしない。
コマーシャルのあいだは消音にしておく。
またテレビを消してすぐには就寝しないほうがいい。
つけっぱなしで寝るのはもっと良くない。


内なる空間の認識

あなたもときおりは思考と思考のあいだの空間が生じているのに、自分では気づいていないのかもしれない。
経験に振り回され、形に、つまりモノの意識にばかり自分を同一化するよう条件づけられていると、最初はその空間に気づくことがとても難しい。
要するにいつもほかのことに気を取られているから、自分自身に気づけない。
つねに形に振り回されているのである。

自分自身に気づいているように見えるときでも、自分自身をモノとして、思考の形として見ているから、気づいている対象はその思考であって、あなた自身ではない。
内なる空間のことを耳にしたら、探したくなるかもしれないが、モノや経験を探すように探しても決して見つかりはしない。
これはスピリチュアルな認識や悟りを求めるすべての人々が陥るジレンマだ。

だからこそイエスは言った。
「神の国は目で見える道しるべを伴って来るのではなく、また
『ほら、ここにある!』『あそこにある!』というようなものでもない。
神の王国はあなたがたのなかにあるのだから」。

目が醒めているあいだじゅう不満や不安や心配や鬱(うつ)や失望やその他ネガティブな状態で過ごしているのでなく、たとえばシンプルな雨や風の音を楽しむことができるとしたら、空を流れる雲を美しいと眺め、ときには一人でいても寂しさを感じず、娯楽という精神的な刺激物も必要としないとしたら、何も求めずに親切に対応する赤の他人のように自分自身を見られるとしたら・・・・・ふつうなら絶え間ない思考の流れで占領されている心に、ほんの一瞬であれ空間が開かれたということだ。

そのときには、たとえかすかであっても静かな生き生きとした安らぎが感じられる。
その安らぎは、背景にやっと感じ取れる充足感から、古代インドの聖賢がアナンダと呼んだ「いまに在ることへの歓喜」まで、度合いはさまざまだろう。

形だけに関心を向けるように条件づけられていると、間接的にしかこの安らぎに気づけない。
たとえば美を理解し、シンプルなものごとを評価し、一人でいることを楽しみ、愛情をもって親切に人に接するという能力のいずれにも共通する要素がある。
その共通の要素とは、これらの経験を可能にする見えない背景としての充足感、平和、躍動する生命感である。

人生における美や優しさやシンプルなものごとの良さを認識できたときには、その経験の背景として自分のなかに何があるのかを観察しよう。
ただし、モノを探すように探してはいけない。
それは「ああ、こんなものがあった」とわかるようなものでも、精神的に把握して定義できるものでもない。
それはまるで雲ひとつない空のようなものだ。
形のない空間であり、静謐(せいひつ)であり、「いまに在る」楽しさであり、同時にこれらの言葉をはるかに超えていて、言葉はただそれらを指し示す道標でしかない。

自分のなかに直接感じることができれば、それらはさらに深くなる。
だから何かシンプルなものを――音や光景や感触を――評価したとき、美を目にしたとき、他者への愛情あふれる心遣いを感じたとき、その経験の源泉であり背景である内なる広やかさを感じてみよう。

歴史を通じて詩人や賢者は、真の幸福――私はそれを「いまに在る喜び」と呼ぶ――がシンプルで一見ささやかなものごとのなかにあることを見抜いていた。
ほとんどの人たちは何か意味があることが起こらないかとそわそわしていて、ささやかなことを(ほんとうはぜんぜんささやかではないかもしれないのに)見落とす。
哲学者のニーチェは珍しく静かな深い落ち着きを経験したとき、こう書いた。
「幸せには、幸せになるためには、ほんのささやかなことで充分なのだ!
・・・・・まさしくごくささやかで穏やかなちょっとしたこと、滑るように動くトカゲの気配、吐息、挙動、一瞥(いちべつ)――そんな小さなものが最高の幸せをもたらす。
静かであれ!」。

ではなぜ「ごく小さなこと」が「最高の幸せ」をもたらすのか?
実は真の幸せはこのようなものごとや出来事によって引き起こされるのではない(最初はそう感じるかもしれないが)。

これらのものごとや出来事はごくささやかで控えめだから、意識のほんの一部しか占領しない。
そこで残るのが内なる空間、形に邪魔されない意識そのものである。

内なる意識空間とあなたの本質とは同じひとつのものだ。
言い換えればささやかなものごとは、内なる空間の余裕を与える。
そしてこの内なる空間、条件つきではない意識そのものから、真の幸福、「いまに在る」喜びが輝き出す。

だが小さくて穏やかなものごとに気づくためには、あなたの内側が静かでなければならない。
鋭敏さが要求される。
静かであれ。見よ。耳を澄ませ。いまに在れ。

内なる空間を発見する方法がもう一つある。
意識を意識することだ。
「私は在る(I Am)」
と考えるかつぶやき、あとは何も付け加えない。
「私はある(I Am)」
のあとに続く静けさを感じ取ろう。

自分の存在を、何もまとわない素裸の自分自身を感じよう。
そこには老若、貧富、善悪、その他いかなる付属品もない。
それはすべての創造、すべての形を生み出す広々とした子宮である。


谷川のせせらぎが聞こえるか?

ある禅の老師が弟子を連れて無言で山道を歩いていた。
杉の老樹が生えているところまで来ると、二人は腰を下ろし、握り飯と野菜の簡素な食事をとった。
食後、まだ禅の謎を解く鍵を見出していなかった弟子の若い僧が沈黙を破って老師に尋ねた。
「師よ、禅に入るためにはどうすればよろしいのですか?」。

もちろん弟子が尋ねたのは禅という意識の状態に入る方法のことだった。
老師はしばらく黙っていた。
沈黙は五分近く続き、弟子はじりじりと答えを待った。
もう一度尋ねようかと思ったとき、老師がふいに口を切った。
「お前にはあの谷川のせせらぎが聞こえるか?」。

弟子はそれまで、せせらぎに気づいていなかった。
禅の意味について考えるのに一生懸命だったからだ。
ところがそう言われて耳を澄ますと、騒がしかった心の雑音がやんだ。
最初は何も聞こえない。
そのうち思考が減退していって意識が研ぎ澄まされ、ふいに遠いかすかな川の瀬音が聞こえてきた。

「はい、いま聞こえました」。
弟子は答えた。
老師は指を立て、厳しいと同時に慈愛にあふれた目で弟子を見た。
「そこから禅に入りなさい」。
弟子ははっとした。
彼にとっては最初の悟りの一瞬だった。

彼はそれが禅であるとは知らずに禅を知ったことに気づいたのだ。
二人はまた黙って旅を続けた。
弟子は自分の周囲に広がる生き生きとした世界に驚いていた。
すべてを初めて経験するような気分だった。

やがて彼は再び考え出した。
研ぎ澄まされた静謐(せいひつ)が精神的な雑音にかき消された。
ほどなく弟子はまた質問をした。
「師よ。私は考えておりました。
さっき、せせらぎが聞こえないと私が答えたらへ師は何とおっしゃったのでありましょうか?」。

老師は立ち止まへ弟子を見て指を立てた。「そこから禅に入りなさい」。


正しい行動

エゴはこう問う。
どうすればこの状況を使って自分の要求を満たせるのか、あるいは自分の要求を満たす別の状況に変えることができるか?

「いまに在る」とは、内に広がりがある状態だ。
「いまに在る」とき、あなたはこう問う。
どうすれば自分はこの状況の、この瞬間の要求に応えられるだろう?

実は、そんなことを問う必要もない。
あなたは静かで意識が研ぎ澄まされた、あるがままのいまに対して開かれた状態でいる。
そのときあなたは状況に新しい次元を、空間をもち込む。
そして見て、聞く。
状況とひとつになる。
状況に対して反応するのではなく状況とひとつになると、解決策は自ずと現れる。
実際には見て聞いているのはあなたという個人ではなく研ぎ澄まされた静寂そのものだ。
すると行動が可能であるなら、あるいは必要であるなら、あなたは行動を起こすだろう。
と言うか、行動があなたを通じて起こるだろう。

正しい行動とは、全体にとって適切な行動だ。
行動が完了したとき、研ぎ澄まされた広やかな意識はそのまま残る。
誰もガッツポーズを取って「やったぞ!」と叫んだりはしない。
「見ろ、私がやったんだ!」などと言う者は誰もいない。

すべての創造性は、内なる広がりから生じる。

創造が行われて、何かが形になったら、そこに「私に(me)」だの「私のもの(mine)」だのが現れないように気をつけなくてはいけない。
自分のしたことを自分の手柄にしようとすれば、エゴが戻ってきて、せっかくの広がりが邪魔される。


ただ認識する

だいたい人は自分の周囲の世界にほとんど気づいていないし、慣れ親しんだ環境ならとくにそうだ。
関心の大半は頭のなかの声に吸い取られている。

知らない場所や外国に旅行すると生き生きする人がいる。
旅先だと思考よりも感覚的な認識――経験――のほうが意識の大きな部分を占めるから、より「いまに在る」ことができる。

だが旅先でも完全に頭のなかの声に占領されている人もいる。
そういう人たちは瞬間的な判断で認識や経験を歪めてしまう。
彼らは実はどこにも出かけてはいない。
身体が旅をしているだけで、当人はいつもいるところ、自分の頭のなかにいる。

ほとんどの人の現実はこうだ。
何かを認識するとすぐに、幻の自己であるエゴがそれに名前をつけてラベルを貼り、解釈し、何かと比較し、好悪(こうお)や善悪を決める。
この人たちは思考の形に、モノの意識に閉じ込められている。

この無意識の強迫的なラベル貼りがやまない限り、少なくともその行為に気がついて観察できるようにならない限り、スピリチュアルな目覚めはない。
この休みないラベル粘りによって、エゴは観察されない心としての場所を維持している。
ラベル貼りをやめるか、その行為に気づけば、内なる空間ができ、もう心に完全に占領されることはなくなる。

身近なモノ――ペン、椅子、カップ、植木など――を選んで観察してみよう。
好奇心と言えるような強い関心をもって見つめるのだ。
個人的な思い入れの強い、買ったときのことやもらった人など過去を思い出させるモノは避ける。
また本やボトルのように文字があると思考を刺激するので、これも避けよう。
緊張せずリラックスして、しかし感覚を研ぎ澄まして、すべての関心をモノに注いで観察する。

思考が混ざってきても、それに巻き込まれてはいけない。
認識から思考を追放することができるだろうか?
頭のなかの声のコメントなしに、結論を出したり、比較したり、何かをそこから引き出そうとせずに、ただ観察することができるか?

二分ほど観察したら、今度はいまいる場所に視線を向けて、目に入る一つ一つのモノに観察眼を向けてみよう。
つぎに物音に耳を澄ます。
周囲のモノを観察したのと同じ姿勢で聞いてみる。
自然の音――水音や風の音、鳥のさえずり――が聞こえるかもしれないし、人工の音が聞こえるかもしれない。
心地よい音も耳障りな昔もあるだろう。
だが良い音だとか悪い昔だとか、区別をつけてはいけない。
解釈なしに、ただ音を聞く。
ここでもリラックスした、しかし研ぎ澄まされた感覚が鍵だ。

こんなふうに見たり闘いたりしていると、最初はほとんど気づかないような不思議な静謐(せいひつ)さが生まれることがわかるかもしれない。
背景の静寂として感じ取る人もある。
安らぎと呼ぶ人もいる。
意識のすべてが思考に吸収されなくなると、残された部分は形のない、条件づけのない、本来の状態のまま留まる。
それが内なる空間である。


経験しているのは誰?

見る、聞く、味わう、触る、喚ぐという感覚的認識の対象はもちろんモノである。
これが経験だが、それでは経験している主体は誰なのか?

たとえばあなたの答えが、
「もちろん、それは私、ジェーン・スミス、上級会計士で四十五歳、離婚経験あり、二児の母親、アメリカ人、これが経験の主体ですよ」
なら、あなたは間違っている。

ジェーン・スミスもジェーン・スミスという精神的な概念と同一化されているその他の事柄も、経験の対象であって主体ではない。

すべての経験には三つの要素が考えられる。
感覚的認識、思考あるいは精神的イメージ、そして感情だ。
ジェーン・スミス、上級会計士、四十五歳、離婚経験あり、二児の母親、アメリカ人、これらはすべて思考で、したがってそれを考えている瞬間のあなたの経験の一部なのだ。
このどれも、また自分自身について語ったり考えたりするすべても、経験の対象であって主体ではない。

あなたは何者かというこのような定義(思考)ならいくらでも増やせるし、そうすればあなた自身という経験の複雑さは増大する(同時にかかりつけの精神分析医の収入も増える)だろうが、そんなやり方では、すべての経験に先立ち、それがなければどのような経験も成り立たない存在である主体には行きつかない。

それでは経験しているのは誰なのか?
あなただ。
あなたとは何者なのか?
意識である。

意識とは何か?
この質問には答えられない。
質問に答えた瞬間、対象をねじまげてモノ化することになる。
意識とは伝統的な言葉で言えばスピリット(霊)で、言葉の通常の意味で「知る」ことはできない。
探しても無益だ。

「知る」ということはすべて、二元性の領域――主体と客体、知るものと知られるものがある世界――の話だ。
主体、私(I)、それなしには何も感じられることも認識されることも知られることも思考されることもない「知る者」は、永遠に知られないままに存在するしかない。
「私」には形がないからだ。

知ることの対象になり得るのは形だけだが、形のない次元がなければ形の次元も存在できない。
形のない次元とは、世界が立ち現れては消える明るい空間である。
その空間が生命であり、「私は在る」ということだ。
そこには時間はない。
「私は在る」も永遠で、時間を超越している。
その空間で起こることは相対的であり、一時的である。
喜びと苦しみ、獲得と喪失、生と死だ。

内なる空間発見の最大の障害、経験の主体を見つけるうえでの最大の障害は、経験に投入するあまりに自分自身を失うことである。
要するに、意識が自分の夢に呑み込まれてしまう。
あらゆる思考、感情、経験に占領され、まるで夢のなかにいるような状態になる。
何千年ものあいだ、人間にとってはこの状態がふつうだった。

意識を知ることはできないが、自分自身として意識を意識することはできる。
どんな状況でも、どこにいても、直接的に感じ取ることができる。

いまここに在る自分、「いまに在る」自分として、たとえばこのページの言葉が認識され思考になる場、内なる空間として感じられる。
それが土台の「私は在る」ということだ。
読んだり考えたりしている言葉は前景で、「私は在る」は基部、すべての経験や思考や感情を支える背景である。


呼吸

思考の流れを中断して、内なる空間を発見しよう。
この中断がないと、思考は創造の火花のない平凡な繰り返しになるが、いまでも地球上のほとんどの人はそんな状態にいる。
中断の長さは気にしなくていい。
数秒でも充分だ。
努力しなくても、中断時間はだんだん長くなっていく。
大事なのは長さよりも頻度で、日々の活動や思考の流れをこの空間で頻繁にさえぎることである。

先日、ある人にスピリチュアルな大きな組織の事業計画を見せてもらった。
実にさまざまな興味深いセミナーやワークショップが用意されていて壮観だった。
見ているとスカンジナビアのビュッフェ、スモーガスボードを連想した。
さまざまなご馳走のなかから好きなものを選んで食べる、というあれである。
見せてくれた人は、どれか推薦できそうなコースはないかと私に尋ねた。
「さあ、どうだろう。どれもなかなかおもしろそうだがね。
しかし、これだけは言える」と私は答えた。
「できるだけ頻繁に、思い出すたびに自分の呼吸を観察してみること。
これを一年続けてごらん。そうしたらここに書いてあるすべてのコースに参加するよりも効き目があるよ。
それに無料だしね」。

呼吸を観察するというのは、思考から関心を引き離して空間をつくることだ。
意識を喚起する方法の一つである。
意識は外に現れないまま、まるごとあなたのなかにあるのだが、その意識を私たちの次元に引き出すのだ。

呼吸を観察してみよう。
呼吸を感じてみる。
空気が動いて身体のなかに入っていくのを感じる。
息を吸ったり吐いたりするたびに、胸と腹がわずかに広がったり収縮したりするのを感じる。

一つの呼吸を観察するだけでも、それまでは途切れない思考が続いていたところに空間ができる。
意識的な一呼吸(二度三度とすればもっといいが)、これを一日のうちにできるだけめ多く繰り返す。
これは人生に空間をつくるすばらしい方法だ。

ただ、二、三時間 呼吸瞑想法を実践したところで(そういう人たちもいる)、必要なのは一つの呼吸を観察することだけだし、気づくことができるのもそれだけだ。
あとは記憶や予測、つまりは思考である。
呼吸はあなたの行為というよりは自然な出来事で、それを観察するだけのことだ。
呼吸は意図しなくても起こっている。
身体のなかの知性が起こしている。
あなたはそれを観察するだけ。
緊張も努力もいらない。
それから呼吸の短い中断に注目してみる。
とくに息を吐き終わったあとに、再び吸うまでのわずかな中断を観察しよう。

多くの人は呼吸が不自然に浅い。
呼吸に気づけば気づくほど、呼吸は自然な深さを取り戻す。
呼吸には形がないから、昔からスピリット(霊)と――形のない生命と―同一視されてきた。
「神は土地のちりで人を形づくり、その鼻に生命の息を吹き込まれた。
そこで人は生き物となった」。
ドトイツ語の呼吸――atmen――は古代インドの言葉であるサンスクリット語で内なる聖霊と神を意味するアートマンから来ている。

呼吸には形がないという事実も、呼吸の観察が人生(生命)に空間を創り出す、つまり意識を生み出すきわめて効果的な方法である理由の一つだ。
呼吸はモノでなく形がないからこそ、瞑想のすばらしい対象となる。
もう一つ、呼吸の観察が効果的な理由は、呼吸がごくささいなあたりまえに見える現象であることで、ニーチェが言う「最高の幸せ」をもたらす「小さなもの」だからだ。

正式な瞑想法として呼吸観察を実行するかどうかはあなたが決めればいい。
しかし正式な瞑想法も、日常生活のなかに空間の意識を取り入れる代わりにはならない。
呼吸を観察すると、いやおうなしにいまこの瞬間に「在る」ことになる――これがすべての内なる変容の鍵なのだ。
呼吸を観察するとき、あなたは絶対的に「いまに在る」。
それに、考えながら呼吸を観察することはできないことにも気づくだろう。

意識的に呼吸すると心が停止する。
それは茫然自失とか半睡状態とは大違いで、完全に目覚め、意識が研ぎ澄まされている。
思考より下に落ちるのではなく、思考の上に上るのである。
そしてさらによく観察すると、この二つは――完全にいまこの瞬間に在ることと、意識を失わずに思考を停止することは――実は同じことだと気づくだろう。
空間の意識の現れである。


依存症

長いあいだにしみついた強迫的な行動パターンを依存症と呼ぶなら、依存症は半実在、身代わりの存在、定期的にあなたを完壁に支配するエネルギーの場としてあなたのなかに生きている。
あなたの心と頭のなかの声も占領される。
そうなると頭のなかの声は依存症の声になる。

その声はこんなふうに言うだろう。
「今日も大変な一日だった。ご褒美があってもいい。
どうして人生に残されたたった一つの楽しみまで諦めなくちゃいけないの?」。
気づさが欠如し、この内なる声に自分を同一化していると、気がついたら冷蔵庫を開けてカロリーの高いチョコレートケーキに手を伸ばしていることになる。

場合によっては依存症が思考する心を完壁に飛び越えてしまい、ふと気づいてみたらタバコや酒を手にしている。
「あれ、どうしてこんなものをもっているんだろう?」。
まったく無意識のうちにタバコを取り出して火をつけたり、酒をグラスに注いでしまう。

あなたに喫煙、過食、飲酒、テレビやインターネット依存のような強迫的な行動パターンがあるなら、次のようにしてみるといい。
強迫的な衝動が起こるのを感じたら、立ち止まって、三回、意識的に呼吸する。こうすると気づきが生じる。
次にしばらくのあいだ、強迫的な衝動そのものを自分のなかのエネルギー場として観察する。
そしてなんらかの物質を摂取したい、取り入れたい、なんらかの強迫的な行動を実行に移したいという肉体的、精神的欲求そのものを意識して感じる。
それからまた数回、意識的に呼吸する。
そのあとは強迫的な衝動が――そのときだけは――消えているかもしれない。

あるいは衝動のほうが強くて抵抗できず、やっぱり行動に移してしまうかもしれない。
その場合でも、それを問題と考えないほうがいい。
さきほど説明したように、依存症を気づきの実践の一部にしてしまおう。
気づきが強まっていけば依存症のパターンは弱くなり、いずれは消える。
ただし、依存症の行動を(ときにはきわめて巧みに)正当化しようとする考えが生じたら、すぐに気づかなくてはいけない。
そんな主張をしているのは誰か?と自問しよう。
依存症そのものだとわかるはずだ。
それがわかって、心の観察者として「いまに在る」ことができれば、依存症にだまされて言うなりになる危険は少なくなる。


内なる身体への気づき

生活のなかでこの内なる空間を見つけるためのもう一つのシンプルな、しかし非常に効果的な方法も、呼吸と密接に関連している。
身体に入ったり出たりする空気の流れを感じ、胸と腹のふくらみと縮みを感じることで、内なる身体にも気づくことができる。
そうすると関心は呼吸から、身体のなかに存在し全体へと広がっていく生命感を感じることへと移るかもしれない。

たいていの人はあまりに思考に気をとられ、頭のなかの声に自分を同一化しているので、自分のなかの生命感を感じられなくなっている。
物質的な身体を動かしている生命、自分自身である生命を感じられないなんて、こんなひどいことはない。
だから人はこの本来の幸せな状態の代替物を求めるだけでなくいつもちゃんとあるのに見すごしている生命感と触れ合えないことからくる不安をごまかそうとする。
ある人は代替物を求めてドラッグでハイになり、大音量の音楽を聞くなどして五感を過剰に刺激し、スリルや危険な行動やセックスに溺れる。

人間関係の波乱までがこの裏の生命感の代わりに使われることがある。
また多くの人がつねに背景にうごめく不安をごまかそうとしてすがるのが、親密な人間関係だ。
「私を幸せにしてくれる」男性あるいは女性である。
もちろんそんな期待は「失望」に変わることがほとんどだ。
そして再び不安が甦(よみがえ)ると、人はたいていパートナーを責める。

二、三度、意識的に呼吸してみよう。
内なる身体を浸している微妙な生命感を感じ取れるだろうか?
自分のなかにある身体を感じられるだろうか?
順番に身体の各部に意識を向けてみよう。
手を感じ、次に腕を、脚を、足を感じてみる。
腹、胸、首、頭を感じられるだろうか?
唇は?
そこに生命感はあるだろうか?
次にもう一度内なる身体全体を感じてみる。
目を閉じていたほうがやりやすい人もいるだろうが、自分のなかの身体を感じたら、今度は目を開けて、身体を感じながらあたりを見回してみよう。
読者のなかには目を閉じる必要がなくて、このページを読みながら内なる身体を感じられる人もいるだろう。


内なる空間と宇宙空間(アウタースペース)

内なる身体は固体ではなくて広がり、物理的な形ではなく、物理的な形を動かしている生命である。
身体を創り出して支えると同時に、人間の心ではほんの一部しか理解できないような複雑でおびただしい機能を調整している知性なのだ。

あなたがそれに気づいたというのは、その知性そのものが自らに気づいたということである。
それは科学者には発見できない(それは探求している意識自体だから)、捉えどころのない「生命」そのものなのだ。

物理学者が発見した通り、物質が密な固さをもっているように見えるのは、実は人間の五感がつくり出した幻想である。
この物質には肉体も含まれる。
私たちは肉体を形として考え感じているが、その九十九・九九パーセントは空っぽの空間なのだ。
原子の大きさと比べると原子と原子の空間はこれほどに大きいし、その原子のなかにもまた広大な空間がある。
密な物質としての肉体というのは誤解でしかない。
それはいろいろな意味でミクロ版の宇宙空間なのだ。

それでは、宇宙空間における天体と天体のあいだの広がりはどれほど大きいのか。
一秒間に十八万六千マイル(三十万キロ)進む光は、月から地球まで一秒ちょっとで到達する。
太陽の光は約八分で地球に届く。
そして宇宙で私たちにいちばん近い隣人であるプロキシマ・ケンタウリ星(私たちの太陽に最も近い別の太陽)の光が地球に届くのには四・三年かかる。これが私たちを取り巻く空間の大きさだ。
さらに銀河と銀河のあいだの空間となると、もう理解を超える。
私たちの銀河にいちばん近いアンドロメダ銀河の光が届くのには二百三十万年かかるのだ。

あなたの身体がこの広大な宇宙空間と同じように広々とした空間でできているとは、実に驚くべきことではないか?
したがってもっと突っ込んで考えてみると、形であるあなたの肉体は本質的には形ではない。
内なる空間、インナースペースへの入り口だ。
内なる空間には形はないが、生き生きとした生命がある。
その「空っぽの空間」は充実した生命で、そこからすべてのものが生じる隠れた源なのだ。

伝統的な言葉を使うなら、その源とは「神」である。

思考や言葉は形の世界に属している。
だから形のないものは表現できない。
したがって、「私は自分の内なる身体を感じることができる」というのは、思考が創り出した誤解である。

実際に起こっているのは、身体として現れている意識――「私は在る」という意識――がそれ自身を意識したということだ。
「私は在る」という私(I)を一時的な形としての「私(I)」と混同しなくなると、無限にして永遠の次元――神――が「私(I)」を通じて立ち現れ、「私(I)」を導く。
さらに形への依存から解放してくれる。
だが、「この形、これは私(I)ではない」と知的に認識し、あるいは信じても役に立たない。
大事なのはいまこの瞬間、内なる空間の存在を感じられるか、つまり「いまに在る」自分自身を感じ、「いまに在る」ことが自分なのだと感じることができるか?ということである。

あるいは別の道からこの真実にたどりつくこともできる。
こう自問してみよう。
「私はこの瞬間に起こっていることばかりでなく、すべてが起こる場、時間を超えた生きた内なる空間として、いまこの瞬間を感じているだろうか?」。
この質問は内なる身体とは何の関係もないように見えるかもしれないが、いまという空間に気づくと、同時に自分のなかでも生き生きとした生命感を感じることに驚かれるはずだ。

内なる身体の生命感を、「大いなる存在」の喜びと不可分の生命感を感じるのである。
身体を超えるためには身体に入っていき、自分が「身体ではない」ということを知らなくてはならない。

毎日の生活のなかでできるだけ内なる身体に気づき、空間を創ろう。
何かを待っているとき、誰かの話を聞いているとき、空や木を見上げているとき、花を、パートナーを、子どもを見ているとき、それと一緒に自分のなかの生命感を感じよう。
これは関心あるいは意識の一部を形のない次元に留めて、残りを外の形の世界に向けることを意味する。
こうして自分の身体のなかに「住まう」ことは、いまこの瞬間に在るための錨(いかり)として役立つ。
思考や感情や外部的な状況のなかで自分を見失わないですむ。

考え、感じ、感知し、経験しているとき、意識は形として生じる。
思考、感情、感覚認識、経験への輪廻である。
仏教徒がいずれはそこから脱したいと願う輪廻はつねに起こり続けている。
そこから――「いまに在る」という力を通じて――脱出することができるのは、いまこの瞬間しかない。
いまという形を全面的に受け入れることで、あなたは内なる空間、いまの本質と調和する。

この受容を通じて、あなたは内なる広がりになる。
形ではなく空間と調和する。
それによって人生に真の視点とバランスが生まれる。


ギャップに気づく

人は一日じゅうさまざまなものを見たり聞いたりしている。
何かを見たとき、あるいは聞いたとき(それが見慣れない、聞き慣れないものであればとくに)、心が見聞きした対象に名をつけて解釈するより前に、ただ関心が向けられて知覚が生じる瞬間がある。
それが内なる空間だ。

その瞬間の長さは人によって違う。
たいていは一秒にも満たないほんの一瞬なので、多くの人は見逃してしまう。

そこではこんなことが起こっている。
新しい光景あるいは音が立ち上がり、それを知覚する最初の瞬間に習慣的な思考の流れが中断する。
知覚の必要性に応じて、意識は思考から逸れる。
とくに目新しい光景、耳慣れない音だと、呆然として「言葉を失う」。
思考の中断時間が長いためである。

この空間の頻度と長さで、人生を楽しむ能力、他の人々や自然との内なるつながりを感じる能力が決まる。
エゴとはこの空間次元に対する意識の完全な欠如を意味するから、どこまでエゴから解放されるかによっても違ってくる。
自然に起こるこの短い空間を意識できるようになると、その空間は長くなっていく。
そうなれば思考にぜんぜんあるいはほとんど邪魔されずに知覚する喜びを頻繁に味わうことができる。

周囲の世界が新しく、新鮮で、生き生きとして感じられる。
抽象化、概念化という精神的なスクリーンを通して人生(生命)を認識すればするほど、周囲の世界は生気を失った単調なものになる。


自分自身を発見するために自分を捨てる

内なる空間は、形に自分を同一化しなくてはならないという思いを捨てるたびに生じる。
形に同一化しなくてはならないというのはエゴの必要性であって、真の必要性ではない。
これについては前にも簡単に触れた。
そういう習慣的なパターンを捨てるたびに、内なる空間が現れる。
真の自分自身になる。

これはエゴにとっては自分を失うことと感じられるが、実は反対だ。
イエスは、自分自身を発見するためには自分を失わなければならない、と教えた。
形への同一化というパターンを一つ捨てるたびに、形のレベルの自分を重視しなくなるたびに、あなたは形を超えてもっと豊かになる。
少なくなることによって、豊かになるのだ。

人々が無意識に形への同一化を強化しようとするやり方がある。
充分に目覚めていれば、こういう無意識のパターンを自分自身のなかに発見できるだろう。
自分がしたことを認めろと要求し、認めてもらえないと怒ったり動転すること。
自分の問題や病気について語りあるいは騒ぎたてて関心を引こうとすること。
聞かれもしないのに、また状況に変化を起こすこともできないのに、意見を述べること。
他者そのものよりも、その他者に自分がどう見られているかを気にすること、つまり他者を自分のエゴの投影先、あるいは強化策として使うこと。
所有物や知識、容貌、地位、肉体的力などによって他者に感銘を与えようとすること。
何かあるいは誰かに対する怒りの反応によってエゴを一時的にふくらますこと。
ものごとを個人的に解釈して不機嫌になること。
心のなかで、あるいは口に出して無駄な不満を並べて、自分が正しくて相手が間違っていると決めつけること。
注目されたい、重要人物だと思われたいと考えること。

こういうパターンが自分にあることを発見したら、ひとつ実験をしてみることをお勧めする。
そのパターンを捨てたらどう感じるか、何が起こるかを観察するのだ。
ただパターンを捨てて、結果を見ればいい。

形のレベルの自分を重要視しないのも、意識を生じさせるもう一つの方法だ。
形への同一化にこだわらなくなったとき、あなたを通じてどれほど大きな力が世界に流れ出すかをぜひ発見していただきたい。


静寂

「静寂は神の言葉で、他はすべてその下手な翻訳にすぎない」という言葉がある。
静寂とは、実は空間を表すもう一つの言葉だ。

人生で出会う静寂に意識的になると、自分自身のなかの形も時間もない次元、思考やエゴを超えた部分と触れ合うことができる。
それは自然界に充満している静寂かもしれず、早朝の自室に広がる静寂、あるいは音がふと途絶えたときの静寂かもしれない。

静寂には形はない。
だから思考を通じて静寂に気づくことはできない。

思考は形だ。
静寂に気づくとは、静かに停止しているということだ。
静かに停止しているとは、思考抜きの意識でいることだ。
静かに停止しているときほど、深い本質的な自分自身でいるときはない。

静かに停止しているとき、あなたは一時的に個人という心理的、精神的な形をとる前の自分になる。
静かに停止しているとき、あなたは一時的な存在を超えた存在になる。
無条件の、形のない、永遠の意識になる。

 

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