ニュー・アース   第7章 ほんとうの自分を見つける

「ニュー・アース―意識が変わる 世界が変わる―」(サンマーク出版)
エックハルト・トール(著),吉田 利子(翻訳)



















第7章 ほんとうの自分を見つける

自分は何者であるか

「汝自身を知れ」。
これは聖なる預言が授けられたデルフォイのアポロ神殿の入り口に掲げられていた言葉だ。
古代ギリシャの人々は、自分にはどんな運命が用意されているのか、状況がその後どのように展開するのかを知りたくて、預言を聞きに神殿を訪れていた。
その訪問者のほとんどが神殿に入るときにこの言葉を読んだだろうが、これがどんな預言よりも深い真実を指し示していることには気づかなかったのではないか。

またどれほど偉大な啓示があり、与えられた情報がどれほど正確であっても、結局はそんなものは無益であって、「汝自身を知れ」という命令に隠された真実を見出さない限り、さらなる不幸や自業自得の苦しみから救われはしないことも知らなかっただろう。
この言葉が語っているのは、こういうことである。

質問をする前にまず、お前の人生における最も基本的な問題を問わねばならぬ。
私は何者か、と。

無意識な人々――多くの人たちはエゴの罠に囚われて生涯を無意識のままで過ごす――は、すぐに自分は何者か答えるだろう。
これこれという名前で、職業は何で、こんな人生を送ってきて、身体つきはどうで、健康状態はどうと、自分が同一化している事柄を並べるに違いない。
自分を不死の魂あるいは聖なる霊(スピリット)だと考えている、もっと精神的に進化したと思われる人たちもいるだろう。
だが、そんな人たちもほんとうに自分を知っているのか、それともスピリチュアルな響きのある概念を心の中身に付け加えているだけなのか?

自分自身を知るとは、ある種の考え方や信念の受け売りをするよりもはるかに奥深いことだ。
スピリチュアルな考え方や信念は、良くても役に立つ方向指示器でしかなく、これが自分だと思い込んだ強固な中核的概念(これは人間の心を決定している条件の一つだ)を解体する力をもっていることはほとんどない。

自分自身を深く知ることと、心を取り囲んでうごめいているさまざまな思考とは何の関係もない。
自分自身を知るとは、自分の心のなかで迷子になる代わりに、「いまに在る」ことにしっかりと根を下ろすことなのである。


あなたが考える自分

自分を何者だと考えるかによって、自分には何が必要で、自分の人生で何が大事だと感じるかが決まる。
そして自分にとって大事だと感じることは、あなたを動揺させたりあわてさせたりする力をもっている。
そこで何に動揺しあわてるかを、自分自身をどれくらい知っているかの物差しに使うことができる。

大事だと感じていることと、当人が大事だと思ったり言ったりしていることは必ずしも一致しないが、行動や反応を見れば、何が大事だ、重大だと感じているかはすぐにわかる。
そこで自問してみるといい。自分が動揺したりあわてたりするのはどんなことか?
小さなことで動揺するなら、あなたが考えているあなたもその通り小さいのである。
それがあなたの無意識の信念だからだ。

では小さなこととは何だろう?
つきつめてみれば、ものごとはすべて小さいと言える。
すべては移ろいゆくものでしかないから。

あるいは「私は自分が不死の霊(スピリット)であることを知っている」
「もうこんなおかしな世界にはうんざりだ。私が望むのは平安、それだけだ」
と言う人もいるだろう。
だがそれも電話のベルが鳴るまでのことだ。

悪い知らせが来る。
株価が大暴落した。取り引きが失敗しそうだ。
自動車が盗まれた。姑がやってきた。旅行がキャンセルされた。
契約が履行されなかった。相手はあなたのミスだと言う。
ふいに怒りや不安がふつふつと湧き起こる。声が荒々しくなる。
「もう、黙っちゃいないぞ」。
あなたは詰(なじ)り、非難し、攻撃し、自己防衛し、自分を正当化する。

すべては自動操縦で行われる。
さっき自分が望むのは平安だけと言ったが、明らかに心の平安以上に大事なものがあったわけだ。
それにあなたはもう不死の霊(スピリット)でもない。
取り引き、金銭、契約、喪失や喪失の脅威のほうがもっと重要だったのだ。
誰にとって?

あなたが自分だという不死の霊(スピリット)にとってか?
いやいや、「私」にとってだ。

移ろい変化するものごとに安心や満足を求め、それが見つからないからと不安になったり怒ったりする「小さな私」にとってである。
これで少なくともほんとうは自分が何者だと感じているかは明らかになった。

もし平安を望むのなら、平安を選べばいい。
どんなことよりも心の平安が大切なら、そしてほんとうに自分は小さな自分ではなくて、霊(スピリット)だと感じているなら、挑戦的な人々や状況に直面しても反応せず、静かに観察していればいい。
状況に抵抗するのではなく、即座に状況を受け入れ、それとひとつになればいい。

そうすれば観察するなかから自ずと答えは出る。
あなたが自分だと感じる自分(小さな自分)ではなく、ほんとうのあなた(意識)が答えを出す。
その答えは力強くて効果的で、誰もどんな状況も敵にまわすことはないだろう。

世界は必ず自分にとって大事なことをつきつけてくるから、自分を何者と考えているつもりであっても、長期間誤解し続けてはいられない。

とくに難題が生じたとき、人々や状況にどう反応するかで、自分がどれほど深く自分を知っているかが暴露される。
自分についての見方が狭く限られていて自己中心的であればあるほどへ他人についても自己中心的で限界のある無意識な部分にばかり目がいき、そこに反応する。
相手の「欠陥」あるいは欠陥だと思う部分を、相手そのものと見る。
つまり相手のエゴだけを見るわけで、それによって自分のエゴをも強化することになる。
他者のエゴを「通して」他者を見るのではなく、エゴ「そのものを」見るのだ。

ではそのエゴを見ているのは誰か?
あなたのなかのエゴである。
無意識の強い人たちは、他者への投影を通じて自分のエゴを経験する。
相手のなかの何かに反応するのは自分にも同じものがある(自分のなかにだけある場合もある)からだと気づけば、自分自身のエゴが見えてくる。

ここまでくれば、自分が他人からされていると思っていることは、実は自分が他人にしていることだとわかるかもしれない。
そうなれば、自分を被害者だとは思わなくなる。

あなたはエゴではない。
だから、あなたのなかのエゴに気づいたからといって、自分を知ったということではない。
自分は何者ではないかがわかっただけだ。
だが、何者ではないかを知れば、ほんとうの自分自身を知るうえでの最大の障害が取り除かれる。

誰もあなたが何者かを教えてくれはしない。
誰かが教えてくれるのは概念にすぎないから、あなたを変える力はない。
ほんとうの自分自身には信念も必要ない。
それどころか、信念はどれも障害になる。
認識すら必要ではない。
なぜなら、あなたはすでにあなたなのだから。

だが認識しなければ、ほんとうのあなたが世界に向かって輝き出すことはなく埋もれたままになる。
もちろんその埋もれた場所がほんとうのあなたのありかだ。
貧しく見える人が実は一億ドルの預金をもっていることを知らず、せっかくの財産が活用されないのと同じだ。


豊かさ

自分を何者だと考えるかは、他人にどう扱われるかとも密接に関連する。
大勢の人が他人に不当に扱われると不満を抱いている。
「自分は尊敬されず、関心をもたれず、認められず、評価されていない」と彼らは言う。
「自分はないがしろにされている」と。

こういう人は誰かに親切にされると、下心があるのではないかと思う。
「自分を操ろうとしている、利用しょうとしている。誰も自分を愛してくれない」。
では彼らは自分をどう考えているのか。
「貧しい「小さな」私は必要を満たせないでいる」と思っている。

この基本的な誤解があらゆる人間関係の機能不全のもとになる。
この人たちは自分には与えるものが何もなく、人々や世界は物惜しみをして自分の必要なものを与えてくれないと信じている。

彼らの現実はすべて、自分は何者かという妄想の上に築かれている。
それが状況の妨げになり、すべての人間関係を損なう。
自分が考える自分に欠乏――お金でも、承認でも、愛でも――という考え方がしみつくと、いつも欠乏を経験する。
すでにある自分の人生の豊かさを認めず、欠乏ばかりが目につく。

すでにある自分の人生の豊かさを認めること、それがすべての豊かさの基本だ。

世界が物惜しみをして与えてくれないと思っているが、実は自分自身が物惜しみをして世界に与えないでいる。
なぜ物惜しみをするかと亭えば、自分は小さくて、何も与えるものがないと奥深いところで信じているからだ。

次のことを何週間か試して、結果がどうなるかを見ていただきたい。
人々が物惜しみをして与えてくれないと思っているもの――賛辞、感謝、援助、愛情をこめた気遣い、等々――を自分から他人に与えるのだ。
そんな持ちあわせはない、って?

あるようにふるまえばよい。
そうすれば出てくる。
そして与え始めるとまもなく与えられるようになる。

与えないものは受け取れない。
出力が入力を決める。

世界が物惜しみをして与えてくれないと思っているものは、あなたがすでにもっているのに出力しようとしないもの、それどころかもっていることを知らないものだ。
そのなかには豊かさも含まれる。

出力が入力を決定するということを、イエスはこんな力強い言葉で表現した。
「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。
人々は気前よく量り、押しつけ、揺すり、あふれるほどにして、あなたの膝に乗せてくれるでしょう」。

すべての豊かさの源泉はあなたのなかにある。
あなたの一部なのだ。
だが、まず外部の豊かさに目を向けて認めることから始めよう。
どこを見ても充実した人生の証がある。
肌に当たる日差しの温もり、花屋の店先の美しい見事な花々、みずみずしい果物の歯ざわり、あるいは天から降り注ぐ雨に濡れる楽しさ。

どこへ行っても充実した人生が待っている。
あなたのまわりにあるこの豊かさを認めると、あなたのなかで眠っている豊かさが目覚める。
そうすればその豊かさが外に向かってあふれ出る。

見知らぬ人に微笑みかけるとき、それだけでささやかなエネルギーが流れ出る。
あなたは川になる。
自分に始終問いかけてみよう。
「ここでは私に何ができるだろうか。どうすればこの人の、この状況の役に立てるだろう?」

何も所有していなくても豊かさは感じられるし、いつも豊かさを感じていると、豊かさは向こうからやってくる。
豊かさはすでにもっている人にだけ訪れる。

そんなのは不公平じゃないかと思われるかもしれないが、もちろんそんなことはない。
これは普遍的な法則だ。
豊かさも貧しさも内面的な状態で、それがあなたの現実となって現れる。

イエスはこれを次のように説明した。
「もっている人はさらに与えられ、もたない人はもっているものまでも取り上げられる」


自分自身を知ることと、自分自身について知ること

自分自身を知るなんて怖いから嫌だと思われるかもしれない。
多くの人が、自分はだめな人間なのではないかと密かに不安を抱いている。
だがあなたが自分自身について発見したことは、どれもあなたではない。
あなたについて知ったことと、あなたとは違う。

怖いから自分自身なんか知りたくないという人がいるいっぽうで、自分自身について飽くなき興味を抱いて、もっともっと知りたいという人もいる。
自分自身のことを知りたくてたまらず、何年も心理分析を受け、子ども時代のことを隅から隅まで探く、密かな不安や欲望をすべて引きずり出し、幾重にも重なった層を一つ一つはがして、自分の人格や性格を探ろうとする。

十年もたつと、セラピストはあなたとあなたの物語にうんざりして、分析は完了しました、と言うかもしれない。
そして五千ページもの報告書をもたせてくれるだろう。
「これはすべてあなたに関することです。これがあなたです」と。

あなたは重いファイルをもち帰るが、ついに自分を知ったという満足は、すぐにまだ充分ではないという思いと、自分にはもっと何かあるはずだというそこはかとない疑惑に取って代わられる。
たしかにもっと――もっと多くの事実という量的な意味ではなくて、もっと深いという質的な意味で――何かがあるのだ。

自分自身に「ついて」知ることと、自分自身を知ることを混同しなければ、精神分析も自分の過去について知りたいという思いも、別に悪くはない。
五千ページの報告書はあなたに「ついて」書かれている。
過去によって条件づけられたあなたの心の中身、コンテンツである。
精神分析や自己省察を通じて知るのはすべて、あなたに「ついて」であって、「あなた」ではない。
あなたの「心の中身」で、あなたの「本質」ではない。

エゴを乗り越えるとは、中身から脱することである。
自分自身を知るとは自分自身であることで、自分自身であるとは心の中身と自分の同一化をやめることだ。

ほとんどの人は人生の中身を通じて自分が何者であるかを決めている。
自分が感じ取ること、経験すること、行動や思考や感情、それが中身だ。
ほとんどの人は中身にばかり関心を向け、そこに自分を同一化する。
「私の人生(my life)」と考えたり言ったりするとき、あなたは自分の本質である生命(life)ではなく、自分がもっている、あるいはもっているように見える人生(life)を想定している。

中身を、つまり年齢や健康状態や人間関係、経済状態、仕事や生活の状況、それに精神的、感情的な状態などを思い浮かべている。
あなたの人生の内部的、外部的状況や過去と未来、それらはすべて(いろいろな出来事と同じく)中身の領域にあり、したがってどんなことでも起こり得る。

それでは中身以外に何があるのか?
その中身の存在を可能にしているもの、意識という内なるスペースである。


混沌とより高い秩序

中身を通じてしか自分を知らないと、自分は何が善で何が悪なのかわかると考える。
いろいろな出来事の「善悪」を区別し、これは「悪い」ことだと決めつける。
だがそれでは人生(生命)という総体を断片的に把握する結果になる。

人生(生命)という総体ではすべてがからみあい、あらゆる出来事が全体のなかであるべき場所と機能を有している。
しかしその総体はものごとの表面だけを見ていてはわからない。
総体は部分の総和以上のもの、あなたの人生や世界の中身以上のものだからだ。

人生でも世界でも同じだが、一見偶然のような、それどころか混沌としたわけのわからない出来事の連なりの奥には、より高い秩序や目的が隠されている。
禅ではこれを「好雪片々として、別所に落ちず」(舞い落ちる雪のひとひらひとひらは、落ちるべきところに落ちている)と美しく表現している。

私たちはいくら考えても、このより高い秩序を理解することはできない。
私たちが考えるのは中身についてなのに、より高い秩序は形のない意識の領域、普遍的な知性から生じているからだ。
だが、私たちにもそれを垣間見ることはできるし、それ以上により高い秩序の展開の意識的参画者となって、自分をその秩序に合わせることはできる。

人間の手が加わっていない原始の森に入るとき、思考する心には無秩序と混沌しか見えないだろう。
いたるところで朽ち果て腐敗した物質から新しい生命が芽生えていて、生命(善)と死(悪)の区別すらつかなくなる。
ただ静かにそこに留まり、思考というノイズが消えたときに初めて、隠された調和が、聖性が、より高い秩序が存在し、すべてが完壁な場所を得て、あ
るべき姿であることに気づくだろう。

思考する心にとっては造成された公園のほうが心地よい。
公園は自然に生い茂ったのではなく思考を通じて計画されているからだ。
そこには心が理解できる秩序がある。

だが原始の森の秩序は理解できないから、混沌にしか見えない。
善悪という概念の区分を超えている。
それを思考を通じて理解することはできないが、思考を放棄し、静かに観察すれば、そして理解しようとか説明しようとしなければ、感じ取ることはできる。
そのとき初めて、森の聖性に目が開かれるだろう。

隠された調和と聖性を感じ取れれば、自分もその一部であることがわかるし、そこに気づけばあなたはその調和の意識的な参画者になれる。
そして自然のほうもあなたが人生(生命)の総体と調和するのを助けてくれる。


善と悪と

多くの人は人生のどこかで、この世界には誕生や成長や成功や健康や喜びや勝利だけではなく、喪失や失敗や病気や老いや衰えや苦痛や死があることに気づく。
これらは習慣的に「善」と「悪」、あるいは「秩序」と「無秩序」というレッテルを触られている。

人々の人生の「意義」はふつう「善」とみなされるものと関連づけられているが、この「善」なるものはつねに崩壊、破壊、無秩序の脅威にさらされている。
人生の説明がつかなくなり、筋が通らなくなったら、いつ「無意味」と「悪」に陥るかわからない。
誰の人生にも遅かれ早かれ無秩序が忍び入ってるし、どれほど保険をかけてもそれは防げない。
喪失や事故、病気、障害、老齢、死などの形で侵入してくる。

だが人生が無秩序に侵され、人生の精神的な意義が崩壊したとき、それがより高い秩序への入り口になることもあり得る。

「この世の知恵は、神の前では愚である」と聖書には記されている。
この世の知恵とは何か?
思考の運動と思考によってのみ規定される意味のことだ。

思考は状況や出来事がそれぞれ別個の存在であるかのように一つ一つ抜き出し、善か悪かを判断する。
思考に頼りすぎると現実は断片化してしまう。
この断片化は幻想なのだが、その罠に落ちているときには、それが現実だと思い込む。

しかし宇宙とは分断できない総体であり、そこではすべてがつながりあっていて、独立して存在するものは何もない。

すべてのものごとが深く関連しあっていることは、「善」と「悪」という区別が結局は幻想にすぎないことを意味している。
善だの悪だのというのは限られた見方で、相対的一時的な真実を示しているにすぎない。

このことはくじ引きで高級車が当たったある賢い人物の物語を見るとよくわかる。
当選したとき、親戚知人は大喜びで祝ってくれた。
「すごいじゃないか!」と彼らは言った。
「きみはほんとうに幸運だ」。
当選した男性は微笑んで「そうかもしれない」と答えた。
彼は数週間、新車を運転して楽しんだ。

ところがある日、交差点で酔っ払い運転の車にぶつけられ、重傷を負って病院にかつぎ込まれた。
親戚知人が見舞いにやってきて言った。
「とんでもない不運だったね」。
またしても男性は微笑んで「そうかもしれない」と答えた。

彼の入院中のある晩、地すべりが起こって自宅が海に流されてしまった。
翌日やってきた友人たちが言った。
「入院中で、運が良かったね」。
男性はまた答えた。「そうかもしれない」。

この賢者の「そうかもしれない」は、起こった出来事について判断しないことを意味している。
判断する代わりに事実を受け入れ、それによってより高い秩序に意識的に参画しているのだ。
一見偶然に見える出来事が総体という織物のなかでどんな場所をもち、それにどんな目的があるのか、心では理解できないことが多いのを彼は知っている。

しかしまったく偶然の出来事もなければ、それだけが独立して存在する出来事もありはしない。
あなたの身体をつくりあげている原子は、かつて星々のなかで形成された。
どんな小さな出来事も、文字通り無限の因果関係のなかで、思いも及ばない方法で総体と関わっている。

ある出来事の原因を遡(さかのぼ)って知りたいなら、宇宙創生まで戻らなくてはならない。
宇宙(コスモス)は混沌ではない。
コスモスという言葉は秩序、調和を意味する。
その秩序は人間の心が理解できるものではないが、しかし垣間見ることはできる。


何が起ころうと気にしない

J・クリシェナムルティはインドの偉大な哲学者、霊的指導者で、五十年以上も世界各地を旅して講演し、言葉を通じて――言葉とは中身だが――言葉を超え、中身を超えたことを伝えようとした。
人生も後半にさしかかったあるとき、彼は「私の秘密を知りたいと思いますか?」と問いかけて、聴衆を驚かせた。
聞いていた全員がはっと耳をそばだてた。
聴衆の多くは二十年三十年と彼の言葉を聞いてきて、それでもなお彼の教えの本質を理解することができないでいた。
長い歳月のあと、ついに師は教えを理解する鍵を与えてくれるのか。

「これが私の秘密です」と彼は言った。
「私は何が起ころうと気にしない」。
彼はそれ以上説明しなかった。
たぶん聴衆のほとんどはいっそう当惑したのではないか。
だが、このシンプルな言葉の意味はとても奥深い。

何が起ころうと気にしない。
これは何を意味するのか?
自分の内面は起こった出来事と調和している、ということだ。
「何かが起こる」、それはもちろんそのときどきの状態として現れており、つねにすでに存在している。
起こった何かとは中身で、いまという時――時にはこれしかない――の形だ。
その何かと調和しているというのは、起こった出来事との関係に心のなかで抵抗せずにいるということである。

起こった出来事に善だの悪だのというレッテルを貼らず、ただあるがままに受け入れる。
あるがままに受け入れるなら、行動もせず、人生を変化させようともしないのか?
そうではない。
それどころか逆で、いまという時との内的な調和をベースに行動するとき、その行動には「生命」そのものの知性の力が働く。


「ほう、そうか?」

日本のある町に自隠という禅の老師が住んでいた。
彼は人々の尊敬を集めており、大勢の人が彼の教えを聞きに集まってきていた。
あるとき、寺の隣の十代の娘が妊娠した。
怒り狂った両親に、子どもの父親は誰だと問い詰められた娘は、とうとう白隠禅師だと答えた。
両親は激怒して白隠のもとに怒鳴り込み、娘は白状したぞ、お前が父親だそうだな、となじった。
白隠は「ほう、そうか?」と答えただけだった。

噂は町じゅうどころか近隣の地域にまで広がった。
禅師の評判は地に堕ちた。
だが禅師は意に介さなかった。
誰も説法を聞きに来なくなった。
だが禅師は落ち着き払っていた。
赤ん坊が生まれると、娘の両親は禅師のもとへ連れてきた。
「お前が父親なんだから、お前が面倒を見るがいい」。

禅師は赤ん坊を慈しみ、世話をした。
1年たち、慙愧(ざんき)に堪えられなくなった娘が両親に、実は赤ん坊の父親は近所で働く若者だと白状した。
両親はあわてて白隠禅師のもとへ駆けつけ、申し訳なかったと詫びた。
「ほんとうにすまないことをしました。赤ん坊を引き取らせてもらいます。
娘が、父親はあなたではないと白状しましたんで」。
「ほう、そうか?」。
禅師はそう言って、赤ん坊を返した。

禅師は偽りにも真実にも、悪い知らせにも良い知らせにも、「ほう、そうか?」とまったく同じ対応をした。
彼は良くても悪くてもいまという瞬間の形をそのまま認めて、人間ドラマには加わらなかった。
彼にとってはあるがままのこの瞬間だけがある。
起こる出来事を個人的なものとして捉(とら)えない。
彼は誰の被害者でもない。
彼はいまこの瞬間に起こっている出来事と完壁に一体化し、それゆえに起こった出来事は彼に何の力も振るうことができない。
起こった出来事に抵抗しようとするからその出来事に翻弄(ほんろう)されるし、幸福か不幸かをよそから決められてしまうことになる。

赤ん坊は慈しまれ、世話をされた。
抵抗しないという力のおかげで、悪い出来事が良い結果になった。
つねにいまという瞬間に求められたことをする禅師は、時が来たら赤ん坊を手放したのだ。

この一連の出来事の各段階で、エゴならどう反応したかを、ちょっと想像してみていただきたい。


エゴと「いま」という瞬間

人生で最も根源的で重要な関係は「いま」との、と言うか、どのような出来事であれ「いま」という時がとった形との関係である。
この「いま」との関係が機能不全なら、その機能不全はあらゆる関係、あらゆる状況に反映されるだろう。
簡単に言えば、エゴとは現在という時との関係の機能不全であると定義してもいい。

あなたが現在という時とどのような関係でいたいかを決められるのは、いまのこの瞬間だ。
あるレベルの意識に達していたら(本書を読んでおられれば、だいたいは達しているはずだが)、現在という瞬間とどんな関係でいたいかも決めることができるだろう。

現在という瞬間を友人としたいか、敵としたいか?
現在という瞬間は人生(生命)と切り離すことができないのだから、実は人生(生命)とどんな関係でいたいかを決めることでもある。
いまという瞬間を友人としたいと決めたら、まずあなたが働きかけるべきだ。
それがどんな姿で現れようとも、友人らしく歓迎すること。
そうすればどうなるかはすぐにわかる。
人生(生命)はあなたの友人として接してくれる。

人々は親切になるし、状況は都合よく展開する。
一つの決断があなたの現実をまるごと変化させる。
だがこの決断は何度も繰り返してしなければいけない――それが自然な生き方になるまで。

現在という瞬間を友人としようという決断は、エゴの終わりを意味する。
エゴは決して現在という瞬間と仲良くできない。
ということは、人生(生命)と調和できないということだ。

エゴの本質は「いま」を無視し、抵抗し、貶(おとし)めるようにできている。
エゴは時間のなかで生きている。
エゴが強ければ強いほど、人生はいっそう時間に支配される。
そうなるといつも過去か未来のことばかりを考え、自分がどんな人間かが過去によって決定され、自己実現を未来に頼ることになる。

恐怖、不安、期待、後悔、罪悪感、怒りなどは、意識が時間に縛られて機能不全状態になっていることを示している。

現在という瞬間に対するエゴの対応は三つある。
目的のための手段として対応する、障害として対応する、敵として対応する、の三つだ。
順番に見ていこう。そうすれば、あなたのなかにいずれかのパターンが作動したときに気づくことができるだろうし、そのパターンを壊そうという決断もできる。

エゴにとって、現在という瞬間はせいぜい目的のための手段でしかない。
もっと大事だと考える未来に連れていってくれる手段だ。
ただしその未来は現在という瞬間として到来する以外になく、したがって未来は頭のなかの思考としてしか存在しない。
言い換えれば、このパターンが働いていると、あなたはいつもどこかに行こうとして忙しく、決して「いま、ここに」腰を落ち着けることはできない。

このパターンがひどくなると(そういうことはまったく珍しくない)、現在という瞬間が克服すべき障害に見えてくる。
そこで苛立ちや欲求不満、ストレスが生じるのだが、私たちの文明では、それが多くの人の日常、あたりまえの状態になっている。
こうなれば人生は「問題」で、あなたは問題だらけの世界に暮らし、問題を解決しなければ幸せになれず、満たされず、ほんとうに生き始めることもできないと思い込む。

ところが問題を一つ解決するたびに、次の問題が現れる。
現在という瞬間を障害として見ている限り、問題に終わりはない。

人生、つまり「いま」という時は、「あなたの期待どおりになってあげるよ」と言う。
「あなたがとる姿勢に応えよう。
あなたが問題だと思うなら、私は問題になる。
障害だと思うのなら、障害になる」と。

最悪なのは(これもまったく珍しくない)、現在という瞬間に敵として対応することだ。
自分がしていることが嫌だとか、状況に不満だとか、起こっていることや起こったことを憎んでいるとき、あるいは頭のなかの対話がこうすべきだとかすべきでないという判断や不満や非難であふれているとき、あなたは「あるがままのいま」に反論し、すでにある現在に文句をつける。
人生を敵に仕立てているので、人生のほうも「闘いが望みなら、闘わせてやろう」と応じる。

外部的な現実はつねにあなたの内的な状態の反映だから、あなたは当然、敵対的な世界を経験する。

「私は現在という瞬間とどんな関係にあるだろう?」と、始終自分に問いかけることが大切だ。
そしてしっかりと観察して答えを見つけなくてはいけない。
私は「いま」を目的のための手段にしているのか?
それとも障害として見ているのか?
敵にしてはいないか?

現在という瞬間、それは唯一あなたが手にしているもので、人生は「いま」と不可分だから、これは人生とどんな関係にあるかという問いかけなのだ。
この問いは、エゴの仮面をはいで「いまに在る」状態を取り戻すのにとても役に立つ。

この問いには絶対的な真実はないが(つきつめれば、私と現在の瞬間とはひとつなのだから)、正しい方向を指し示してはくれる。
必要がなくなるまで、何度でも問いかけてみてほしい。

現在という瞬間との機能不全の関係は、どうすれば克服できるか?
いちばん大事なのは、自分に、自分の思考や行動に機能不全があると見極めることだ。
それを見抜くことができ、自分と「いま」との関係が横能不全だと気づけば、そのときあなたは「いまに在る」。
事実を見極めることで、「いまに在る」状態が立ち上がる。
機能不全を見抜いた瞬間、その機能不全は解体し始める。

ここに気づいたとき、そうだったのかと笑い出す人もいる。
見極めることによって選択する力が生じる。
「いま」にイエスと言い、友人にするという選択ができる。


時間のパラドックス

現在という瞬間は外形的には「いま起こっていること」だ。
そしていま起こっていることはつねに変化しているから、人生の日々は違うことが起こるおびただしい瞬間からできているように見える。
時間は終わりのない瞬間の連続で、その瞬間には「良い」瞬間も「悪い」瞬間もあると感じるだろう。

だがもっとよく観察してみると(自分の直接的な経験だけを見つめてみると)、そんなにたくさんの瞬間があるわけではないことがわかる。
あるのは「この瞬間」だけだ。
人生とはつねに「いま」なのである。
あなたの人生のすべてはいつも「いま」展開している。

過去や未来の瞬間もあなたが思い出したり予想したりするときにしか存在しないし、思い出も予想もいまこの瞬間に考えている。
つまりは、いまこの瞬間しかないのだ。

それではなぜ、たくさんの瞬間があるように思うのだろう?
それは現在という瞬間を、起こっていること、中身と混同しているからである。
「いま」というスペースが、そのスペースで起こっていることと混同されている。
現在という瞬間を中身と混同することで、時間という幻想だけでなくエゴという幻想も生まれる。
ここに時間のパラドックスがある。

いっぽうでは、時間という現実を否定することはできない。
ここからあそこに行くのにも、食事の支度をするのにも、家を建てるのにも、本書を読むのにだって時間が必要だ。
成長するのにも、新しいことを学ぶのにも時間がいる。
何をするにしても時間がかかる。
すべては時間のしもべであり、いずれはシェークスピアの言う「残酷な暴君という時間」があなたの息の根を止める。
それはあなたを巻き込んで流れる怒り狂う奔流のようなもの、あるいはすべてを焼き尽くす炎のようなものだ。

先日、長年ご無沙汰だった古い友人一家に出会い、衝撃を受けた。
こんなふうに聞きたくなったくらいだ。
「あなたがたは病気なのですか?何があったんです?誰にこんな目にあわされたのですか?」。
母親は杖をついて歩いていたが、身体は小さく縮み、顔は干しリンゴのように皺(しわ)だらけだった。
最後に会ったときには元気いっぱいで前向きで若さと未来への期待に弾んでいた娘は、三人の子どもを育てて疲れ果てているように見えた。

そこで私は思い出したのだ。
この前この一家に会ってからなんと三十年の月日が流れている。
彼らをこんなふうにしてしまったのは時間だ。
そして向こうもまた、私を見てショックを受けたに違いない。
すべては時間の影響を受けずにはいないが、しかしすべては「いま」起こる。
これが時間のパラドックスだ。
何を見ても――腐っていくリンゴを見ても、バスルームの鏡に映るあなたの顔と三十年前の写真を比較しても――時間という現実を思い知らされるような証拠があふれているが、しかし直接的な証拠は絶対に見つからない。
時間そのものを経験することはできない。

経験できるのは現在という瞬間、あるいはその瞬間に起こることだけなのだ。
直接的な証拠だけを探すなら、時間はなくなり、「いま」だけが存在する。


時間を消去する

エゴのない状態を将来の目標にして努力することはできない。
そんなことをしても、いつまでたっても目的地に到達せず、目的の状態を「達成」できなくて満たされない思いが募り、内的な葛藤が激しくなるだけだ。
エゴからの解放が将来的な目標である限り、あなたは自分にさらに多くの時間を与えることになるが、さらに多くの時間とはエゴのさらなる肥大を意味している。

スピリチュアルな探求と見えるものが、実は姿を変えたエゴではないかと慎重に観察する必要がある。
「自己」を解消しようという努力さえもが、それを将来の目標にするときには、もっと「自己」を肥大させようとする努力になる可能性がある。
自分にもっと多くの時間を与えるとは、「自己」に多くの時間を与えることだ。
この時間とは過去と未来で、心がつくり出した偽りの自己であるエゴが生きる糧であり、その時間はあなたの心のなかにある。
「現にそこに」ある客観的な何かではない。

時間は五感による認識のために必要な、現実的な目的に不可欠の心の構造ではあるが、しかし自分自身を知るうえでは最大の障害である。
時間とは人生の水平軸、現実の表層だ。
だが人生には深さという垂直軸もある。
垂直軸には現在という瞬間を入り口として近づくしかない。

だから自分に時間を与える代わりに、時間を取り除こう。
意識から時間を消去することは、エゴを消去することでもある。
それだけが真のスピリチュアルな実践なのだ。

時間の消去と言ったが、もちろん時計で計られる物理的な時間のことではない。
こちらは約束をしたり旅行の計画を立てるために現実的に利用される時間だ。
時計で計る時間なしには、いまの世界ではほとんどやっていけない。

ここで言っているのはこの時間ではなく、心理的な時間の消去ということだ。
心理的な時間とは、不可避の現在の瞬間と調和して生きて人生(生命)と一体になればいいのに、そうしようとはせず、際限なく過去と将来に拘泥(こうでい)するエゴイスティックな心のことである。

人生に言い続けてきたノーがイエスに変わるたび、あるがままのこの瞬間を受け入れるたびに、あなたは時間とエゴを解体する。
エゴが生き延びるには時間を――過去と未来を――現在という瞬間より重要なものにしなければならない。
望みがかなった直後というほんの短期間を除けば、エゴは現在という瞬間を許容して親しくなることはできない。
しかもどんなことをしても、エゴを長いあいだ満足させてはおけない。

エゴに人生を支配されている限り、二種類の不幸が襲ってくる。
一つは望みがかなわない不幸、もう一つは望みがかなう不幸である。

現在の状態や起こっていることは、「いま」がとる形だ。
あなたが心のなかでそれに抵抗している限り、その形、つまり世界は、形を超えたあなた自身、形のない一つの「生命」(それがあなただ)とあなたを隔てる、突破不可能な障害になる。
「いま」がとる形に心のなかでイエスと言えば、その形が形のない世界への入り口になる。
世界、神とあなたを隔てる障害はなくなる。

人生がこの瞬間にとっている形にいちいち反応し、「いま」を手段、障害、敵にしていると、形としてのアイデンティティ、つまりエゴを強化することになる。
エゴの反応を助長する。

エゴの反応とは何か?
反応に嗜癖(しへき)し、反応せずにはいられないということだ。
この瞬間の形に反応すればするほど、あなたは形にからめとられる。
形に自分を同一化すればするほど、エゴが強くなる。
そのとき、あなたの「大いなる存在」が形を超えて輝き出すことはなくなる――あるいは、ごく稀になる。

形に抵抗しないと、あなたのなかの形を超えたものがすべてを包み込む「いまに在る」状態として現れる。
それは短期間に消滅する形との同一化(個人)よりもはるかに大きな沈黙の力だ。

そして、形の世界のどんなものよりも深い意味でのあなたなのである。


夢を見る人と夢

無抵抗は宇宙最大の力を開く鍵である。
その力によって、意識(スピリット)が形から解放されて自由になる。
(どんな状態、どんな出来事でも)形に対する内なる無抵抗は、形の絶対的なリアリティの否定だ。
抵抗すると、形への自分の同化であるエゴを含め、世界と世界のものごとはますます実際よりもリアルに、頑強に、永続的に見えてくる。
世界とエゴに重みと絶対的な重要性を付与してしまい、自分自身と世界を非常に深刻に受けとめることになる。

そうすると形の世界の動きを生存競争と誤解し、その誤解がそのままあなたの現実になる。
起こっている多くの出来事、人生(生命)がとる多くの形は、もともとつかの間の儚(はかな)いものでしかない。
すべては移ろいゆく。
ものごとも、身体とエゴも、出来事も、状況も、思考も、感情も、欲望も、野心も、不安も、ドラマも・・・・・すべてはやってきて、重要そうなそぶりを見せるが、気づかないうちにまたやってきた無へと消えていく。

そんなものが現実だろうか?
そんなものは夢、形という夢ではないのか?

朝、目覚めると夜のうちに見た夢は消えている。
「ああ、ただの夢だった。ほんとうじゃなかった」と私たちは思う。
だが、夢のなかの何かは現実だったはずだ。
そうでなければ夢を見るはずがない。

死が近づいたとき、私たちは人生を振り返り、それもまた一場の夢ではなかったかと思うだろう。
それどころか、たったいまでさえ、昨年の休暇や昨日のドラマを思い返してみると、昨夜の夢のようなものに感じられるのではないか。

夢があり、夢を見る人がいる。
夢は形がつかの間演じるドラマだ。
それがこの世界である。
相対的な現実ではあるが、絶対的な現実ではない。

いっほう夢を見る人がいる。
こちらは形が現れては去る場、絶対的な現実だ。
この夢見る人は個人ではない。
個人も夢の一部だ。
夢を見る人とは、そこに夢が現れる、夢を可能にする基盤である。
それが相対性の陰にある絶対性、時間の陰にある無時間、形の陰にある意識だ。
夢を見る人とは意識そのものである――それがあなただ。

夢のなかで目覚めること、それが私たちのいまの目的だ。
私たちが夢のなかで目覚めたら、エゴが創り出した地球上のドラマは終幕し、もっと穏やかなすばらしい夢が立ち現れる。
それが新しい地である。


限界を超える

誰の人生にも形のレベルでの成長や拡大を追求する時期がある。
身体的な弱さや金銭的貧しさなどの限界を克服しよう、
新しい知識や技能を獲得しよう、
創造的な活動を通じて自分にとっても他者にとっても力強くて新しい何かをこの世界に提供しようと努力する時期だ。

それは音楽や芸術作品、書物となって、あるいは提供するサービスや遂行する機能、創設したり決定的な貢献をするビジネスや組織となって現れるかもしれない。

あなたが「いまに在る」とき、関心が充分に「いま」に注がれているとき、その在り方があなたの行動に流れ込んで、変容をもたらす。
そのような行為は良質で力強いだろう。
あなたの行為が何かの目的の(金や名声や勝利の)ためではなく、行為の遂行そのものが目的で、そこに喜びや活気を感じているなら、あなたは「いまに在る」。
もちろん、現在という瞬間と友人にならなければ、「いまに在る」ことはできない。
「いまに在る」こと、これがネガティブな翳(かげ)りのない効果的な行為の基盤である。

形は限界を意味する。
私たちが地上に生を受けたのは、その限界を経験するためばかりではなく、意識のなかで限界を乗り越えて成長するためでもある。
外的なレベルで乗り越えられる限界もあるが、そのまま抱えて生きることを学ぶしかない限界も人生にはある。
そのような限界は内的にしか乗り越えることができない。

誰でも遅かれ早かれそのような限界にぶつかるだろう。
そういう限界にぶつかると、人はエゴイスティックな反応の罠に落ちるか(これは激しい不幸を意味する)、あるがままを無条件で受け入れることで内的に乗り越えて優位に立つ。

それが私たちに与えられた課題なのだ。
あるがままを意識のなかで受け入れると、人生の垂直軸の次元、深さの次元が開かれる。
そしてその垂直軸の次元から何か、無限の価値をもつ何か、そういうことがなければ埋もれたままだったはずの何かがこの世に現れる。

厳しい限界を受け入れた人々のなかには、ヒーラーやスピリチュアルな指導者になる人もいる。
また人間の苦しみを減らし、この世に創造的な贈り物をもたらすために、自分を捨てて努力する人もいる。

1970年代後半、私は毎日のように一人、二人の友人と、当時学んでいたケンブリッジ大学大学院のカフェテリアで昼食をとっていた。
そのときに近くのテーブルに車椅子の男性がいるのを見かけることがあった。
男性はいつも三、四人の人たちと一緒だった。
あるとき同じテーブルで向かい合わせになったことがあり、ついその男性をしげしげと見て、ひどく驚いた。
彼はほぼ全身が麻痔しているらしかった。
身体には力が入らず、首もがっくりと前に垂れている。
付き添いの人たちの一人が食べ物を口に運んでやるのだが、その大半は別の付き添いが男性のあごの下に差し出す小さな皿にこぼれ落ちる。
ときおり車椅子の男性がうめき声のようなものを発すると、誰かがその口元に耳を近づけ、なんと彼の言わんとしていることを他の人に伝えるのである。

そのあと私は友人に、車椅子の男性が何者か知っているかと尋ねた。
「もちろん知っているさ」と彼は答えた。
「数学の教授でね、付き添っているのは教え子の院生だよ。
身体じゅうで麻痔が進行する運動神経の病気にかかっているんだ。
医者は五年もてばいいほうだと言ったらしい。
あれ以上つらい運命ってないだろうな」。

数週間後、カフェテリアから出ようとして、その男性が入ってくるのと出会った。
電動車椅子を通すためにドアを押さえている私と彼の目が合った。
彼の目があまりに澄んでいるのに、私はびっくりした。
そこには不幸のかけらもなかった。

私はすぐに、彼は抵抗を完全に放棄していると感じた。
彼はありのままをすべて受け入れている。

それから何年もたって、キオスクで新聞を買っているとき、その男性が大手の国際ニュース雑誌の表紙になっているのを見てまたびっくりした。
彼、スティーヴン・ホーキングはまだ生きていたばかりでなく、世界で最も有名な理論物理学者になっていたのである。
記事のなかには、何年も前に彼の目を見て私が感じたことを裏づける見事な一文があった。
自分の人生について尋ねられて、彼は(音声合成装置の助けを借りて)こう答えたという。
「これ以上、何を望めるだろう?」。


生きる喜び

不幸やネガティブ性はこの地球上の病気だ。
外的環境の汚染にあたるものが、人の心のネガティブ性である。
それは人々が貧しい場所だけではなくどこにでも、それどころか人が充分以上のものをもっている場所に多く見受けられる。

意外だろうか?
そんなことはない。
豊かな世界のほうが形への同一化が進行しているし、中身に囚われ、エゴの罠に深く落ち込んでいる。

幸福になれるかどうかは自分に起こる出来事しだいだと、つまり幸福は形に依存していると、人は信じている。

何が起こるかなど、この宇宙で最もあてにならないことだと気づいていない。
起こる出来事はつねに変化しているのに。

人々は、現在の瞬間が、何か起こってはならないのに起こったことによって損なわれているとか、
起こるべきだったのに起こらなかったことのゆえに欠陥があると考える。
そのために人生(生命)本来の深い完全性を、目の前で起こったことや起こらないことという形に幻惑されて、形を超えて存在している完全性を見逃す。

いまこの瞬間を受け入れ、どんな形よりも深くて時間によって侵されることのない完全性を見出さなければいけない。

生きる喜び(真の幸福はこれだけだ)は形や所有や達成や人間や出来事を通じてもたらされはしない――起こる出来事を通じてもたらされることはあり得ない。
その喜びは外からもたらされることは決してない。
それはあなたのなかの形のない次元から、意識そのものから放出されるものであり、したがってあなたと一体だからである。


エゴの縮小

エゴはつねに自分が小さくなるのではないかと警戒している。
縮小しそうだと感じると、自動的なエゴ修復装置が働いて、「私」の精神的な形を回復させる。

誰かに非難されたり批判されると、エゴは縮んだと感じ、すぐに自己正当化、防御、非難によって小さくなった自己意識を修復しようと図る。
相手が正しいか間違っているかはどうでもいい。
エゴの関心は、真実よりも自己保存のほうにある。
「私」の心理的な形の維持が大事なのだ。

路上でドライバーに「馬鹿やろう」と言われて怒鳴り返すというごくふつうの行動も、自動的かつ無意識なエゴ修復メカニズムなのだ。
このメカニズムでいちばんありふれているものの一つが怒りで、怒りには一時的だが強烈なエゴ拡大効果がある。
すべての修復メカニズムはエゴにとっては完壁に筋が通っているのだが、実は機能不全の行為である。
この機能不全の行為のなかでもとくに極端なのが、物理的暴力や誇大妄想という形の自己欺瞞(ぎまん)だろう。

力強いスピリチュアルな実践は、エゴが縮小したときに修復しようとせず、意識的に縮んだままにしておくことだ。
ときおり実行してみることをお勧めする。
たとえば誰かに批判されたり、非難されたり、悪口を言われたとき、すぐに報復や自己防衛を試みない――何もしないでおく。
自己イメージが縮んだままにしておき、そのとき自分の奥深いところでどんな感情が起こるかを観察する。
数秒間は自分自身が小さくなったという不快感があるかもしれない。
しかしそのあと、生命力に満ちた広々としたスペースを感じるのではないか。
あなたはまったく縮んでなどいない。
それどころか拡大した。

そこで驚くべきことに気づくだろう。
なんらかの意味で自分が小さくなったように思えても、それに対して(外部に対してだけでなく内的にも)まったく反応せずにいると、実は確かなものは何も縮小しておらず、それどころか「小さく」なったことでかえって大きくなる。

自己防衛したり、自分自身の形を強化しようとしないでいると、形への自己同一化から、つまり精神的な自己イメージから離れることができる。
(エゴが)「小さくなる」ことによって、あなたは逆に拡大し、「いまに在る」状態が立ち現れる場所ができるのだ。
そのとき、形を超越した真の力、真のあなたが、弱くなったかに見える形を通じて輝き出す。

イエスが「自分を捨てなさい」「もういっぽの頬を差し出しなさい」と言ったのは、このことである。

もちろんこれは虐待に甘んじろとか、人々の無意識の犠牲になりなさいという意味ではない。
状況によっては、相手にきっぱりと「やめろ」と言わなければならないこともあるだろう。
エゴイスティックな自己防衛でなければ、あなたの言葉には反発力ではない力があるはずだ。
必要ならば断固としてはっきりと「ノー」と言ってもいい。
これはすべてのネガティブ性を排した、いわば「質の高いノー」である。

とくにひとかどの人間になろうとか目立とうと思わないでいれば、あなたは宇宙の力と自分を調和させることができる。
エゴにとって弱点に見えるものは、実は唯一の真の力なのだ。
このスピリチュアルな真実は、現代文明の価値観やその文明に条件づけられた人々のふるまいと正反対のところにある。

山であろうとするよりも「天下の深い谷間であれ」と老子は教えている。
そうすれば全体性を回復することができて「すべてに満たされるだろう」と。

同じようにイエスは、あるたとえ話のなかでこう数える。
「招かれて行ったなら、いちばん末席に座りなさい。
そうしたら招いた人がやってきて、友よ、どうぞもっと上席に進んでください、と言うだろう。
そこであなたは同じテーブルの人々すべての前で面目をほどこす。
誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからである」。

この実践のもう一つの方法は、自己意識を強化しようとして自分を見せびらかしたり、目立とうとしたり、特別な存在であろう、強い印象を与えよう、関心を引こうとしないことだ。
その一環として、誰もが意見を言い合っているとき、自分は意見を述べるのを控えていて、それで何を感じるかを観察することも含まれるだろう。


外も内も

澄んだ夜空を見上げれば、実にシンプルでしかもとてつもなく深い真実にすぐに気づく。
そこに見えるのは何か?
月や星、輝く銀河、ときには彗星や二百三十万光年かなたのアンドロメダ銀河もほの見えるかもしれない。
そう、だがさらに単純化したら何が見えるか?
宇宙空間に浮かぶ物質だ。
それでは宇宙は何からできているのか?
物質と空間である。

澄んだ夜空の宇宙空間を見上げて言葉を失わないとしたら、あなたはほんとうには見ていない。
そこにある全体性に気づいていない。
たぶん物質だけを見て、その名前を探している。

宇宙空間を見上げて畏怖の念に打たれ、この理解しがたい謎を前にして深い畏敬の念を感じたとすれば、あなたはその瞬間、宇宙空間の物質だけではなく空間そのものの底知れない深さを感じ取ったはずだ。
そして無数の世界が存在する空間の広大さに気づくことができるほど、あなたの内側も静謐(せいひつ)になっているだろう。

畏敬の念は、無数の世界が存在するという事実からではなく、その世界を包含する無の深さによってもたらされる。

もちろん、空間を見ることはできないし、聞きことも触れることも味わうことも嗅ぐこともできない。
それならどうして空間が存在するとわかるのか?
この一見論理的な質問には、すでに基本的な間違いが潜んでいる。
空間の本質は何もないこと、無だから、それは言葉のふつうの意味では「存在」していない。
存在するのはモノ――形――だけだ。
だから、空間と呼ぶのも誤解のもとである。
名づけることによって、相手をモノ化してしまうからである。

では、こういう言い方をしてみよう。
あなたのなかには空間と親和性をもつ何かがあり、だから空間に気づくことができる。
おわかりだろうか?
これも完全な真実とは言えない。
空間には気づくべき何ものもないのであれば、どうして空間に気づくことができるのか?

答えはシンプルだが奥深い。
空間に気づくとき、あなたは何も気づいていないが、気づきそれ自体に気づいている――気づき、すなわち意識の内なる空間である。

あなたを通じて、宇宙はそれ自身に気づくのだ!

見るべきものが何もないと、その無が空間として感知される。
聞くべきものが何もないと、その無が静寂として感知される。

形を感知するようにつくられた五感が形の不在に出会ったとき、感覚の奥に存在してすべての感知、経験を可能にしている形のない意識は、もはや形にくらまされることがない。

空間の限りない深さを考え、日の出直前の沈黙に耳を澄ますとき、あなたのなかで何かがそれらを認識したというように共振する。

するとあなたは空間のとてつもない深さを自分の深さとして感じ取り、形のない貴重な静寂のほうが、あなたの人生をつくりあげている中身よりもはるかに自分自身であることを知る。

古代インドの聖典ウパニシャッドは、この真実をこんなふうに措いている。
目には見えず、しかし目が見ることを可能にしているもの・・・・・それだけが宇宙原理ブラフマンであり、人々がこの世で崇めているものではないことを知れ。
耳で聞くことはできず、しかし耳が聞くことを可能にしているもの・・・・・それだけが宇宙原理ブラフマンであり、人々がこの世で崇めているものではないことを知れ。
心で考えることはできず、しかし心が考えることを可能にしているもの・・・・・それだけが宇宙原理ブラフマンであり、人々がこの世で崇めているものではないことを知れ。

聖典は、神は形のない意識で、あなたの本質であると述べている。
その他はすべて形であり、「人々がこの世で崇めているもの」なのだ。

宇宙の――モノと空間からなる――二重の現実は、あなた自身の現実でもある。

分別があってバランスのとれた実りある人生は、現実をつくりあげている二つの側面――形と空間―のあいだのダンスだ。

多くの人たちは形の面に、知覚や思考や感情に自分を同一化しているので、大切な残りの半分が隠されて欠け落ちたままになる。
形との自己同一化のために、エゴの罠から出られない。
あなたが見て、聞いて、感じて、触れて、考えることはすべて、いわば現実の半面でしかない。
それが形だ。
それはイエスの教えのなかでシンプルに「この世」と呼ばれているもので、残る面は「天の王国あるいは永遠の生命」と呼ばれている。

空間がすべてのモノの存在を可能にするように、また静寂がなければ音もあり得ないように、あなたも大切な本質である形のない側面なしには存在できないはずだ。
この言葉がこれほど誤用されていなければ、それを「神」と言ってもいい。
私は「大いなる存在(Being)」と呼びたい。
「大いなる存在(Being)」は事物の存在に先行する。
事物の存在とは形であり、中身であり、「起こっていること」だ。

事物の存在は生命(人生)の前景で、「大いなる存在」はいわば生命(人生)の背景にあたる。

人類の集団的な病は、人々があまりに起こることに囚われ、移ろう形の世界に魅了され、人生の中身にばかり夢中になって、中身を超え、形を超え、思考を超えた本質を忘れていることである。

また人々は時間に振り回されて永遠を忘れている。
永遠が真のあなた自身の生きた現実なのだ。

数年前、私は中国を訪れ、桂林に近い山の上の仏舎利塔に詣でた。
塔に金色の文字が彫ってあったので、何と書いてあるのかと中国人の友人に尋ねた。
「佛」と書いてあるのです、ブッダという意味ですよ、と彼は答えた。
「この文字は二つの部分からなっていますね、なぜですか?」。
私は尋ねた。
一つはニンベンで「人間」を表しています。
そしてツクリのほうの弗は「あらず」つまり否定を意味しているのですよ。
この二つを組み合わせるとプツダという意味になります」。

私は感心した。
ブッダを表す漢字にはすでにブッダの教えそのものが含まれている。
そして見る目をもった者には人生(生命)の秘密を明かしている。
ここには現実をつくりあげる二つの側面、思考と無思考が、形と形の否定が、そしてあなたは形ではないという認識が記されているのである。

 

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