人類の起源とその未来(ケーシーのリーディング)

永遠のエドガー・ケイシー―20世紀最大の予言者・感動の生涯
(トマス サグルー(著),Thomas Sugrue(原著),光田 秀(翻訳),たま出版)




エドガー・ケイシー(Edgar Cayce,1877年3月18日−1945年1月3日)は、リーディングと呼ばれる手法で数々の予言や預言、健康法を遺した。

リーディングでは、催眠状態において第三者からの質問により、アカシックレコード(アカシャ記録)と言われる宇宙意識から宇宙の知識が引き出された。
導き出された知識に関して、ケイシーは催眠状態から覚めた際には全く記憶していなかった。



 



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人類の起源とその未来(ケーシーのリーディング)

エドガー・ケイシーのリーディングから導き出される哲学的思想体系は、エジプト、カルディア、ペルシャ、インド、ギリシャ等に存在した古代神秘宗教のキリスト教版である。
リーディング哲学は、キリストを唯一神の伝統の中に収め、キリストを哲学体系の頂点という、その本来の正しい位置に復せしめたのである。
キリストこそはピラミッドの冠石であったのだ。
神秘宗教によって用いられた難解な象徴学は、キリスト教の中にも断片的にではあるが、受け継がれてきた。
それらは特に教会の建築様式や聖杯を用いるミサの贖(あがな)いの儀式の中に形をとどめている。
しかし、唯一神の伝統は途絶えてしまい、キリスト教以外の宗教は、聖職者、考古学者、歴史学者によって、偽りの神を崇める偶象崇拝者の空想であるとして、一様に厳しく非難されるようになった。

しかし、他宗教教義に対する初期キリスト教徒の理解は、そのようなものではなかった。
たとえばイエスを地上に誕生させるための経路として、母マリアに備えをさせ、父となるヨセフを選び、そしてイエス誕生後は、そのイエスを教え導いたエッセネ派の人々は、そのような神秘学の秘儀体得者(イニシエート)であった。
イエスは(律)法を成就するために来たと語られたが、その法の中にはユダヤ教の秘密の教義―つまりユダヤ教徒の神秘哲学であったカバラも含まれていた。
イエスの教えに改宗したニコデモやアリマタヤのヨセフなどのような人物は、カバラを学んだはずであるし、パウロについても同じことが言える。

それら神秘宗教の目的は、人間の魂をこの世界から解放することであった。

神秘学において、地球は常に下の世界として象徴的に表わされ、魂はその下の世界に落ち、知恵と信仰と理解によってそこから抜け出すまで、いつまでもその世界に束縛されるのである。
たとえばギリシャ神話の中で、ペルセポネは冥府の王プルートに強奪されたが、このペルセポネは人間の魂を象徴しているのであり、人間の真の棲家が天上にあることを教えているのである。

また神秘宗教は、救い主イエスの到来を準備するものでもあった。
イエスの到来は、神秘宗教の努力の結実であり、イエスは一般大衆にその神秘の何たるかを、余すところなく教え示したのである。
しかし、衰退期にあったローマ帝国の中で、キリスト教が支配的な宗教としての他位を奪い合ううちに、神秘思想はその本来の地位を否定されてしまった。
というのも、キリスト教にとって、それら神秘宗教に真理があると認めることは、その宗教の存続を容認することにつながったからである。

それについてマンリー・P・ホールは次のように述べている。
「初期キリスト教徒は、あらゆる手段を講じて、キリスト教の象徴、教義、儀式が異教に本源を持つという真実を隠そうとした。
そうしてキリスト教徒達は他の民族を征服すると、その民族に伝わる聖典類を焼き払ったり、あるいはそのような聖典が、比較宗教学の学徒達の目に触れることのないようにした。
そのようにすることで、キリスト教徒は自分達の教義の本源が、キリスト以前にあるという証拠をもみ消せると考えたのであった」

また考えてみれば興味深いことであるがへエドガー・ケイシーは聖書の教えを絶対とする十九世紀の厳格なキリスト教一家のもとで育てられており、彼自身、自分のリーディングがそういった神秘宗教を真理であると主張したり、あるいはイエスをそのような神秘宗教の結晶であると高らかに宣言した時には、精神的にもまた情緒的にも非常に大きなショックを受けたのである。

その時まで、ケイシーは神秘宗教などということを全く聞いたこともなかったのである。
一方ケイシーのリーディングは、これまで調べがつく範囲において、その正しさが証明されているが、神秘宗教に関して述べた事柄の多くは、現存する記録からはその証拠となるものは発見されていない。
となると、これが新しい資料であるのか、それとも神秘学のイニシエートには知られていたのかについては、リーディング自体によって確認するより他に方法が無いのである。

さて、そのリーディングによれば、全てのイニシエート達は、この世の初めから、全ての真理を知っていたということなのである。
このリーディングの哲学体系を、神秘学との対比において徹底的に論じるには、ゆうに1冊の本を要する。
そこで本書では、いくつか詳述した箇所もあるが、リーディング哲学の本質的なポイントを網羅することで、その概要をお伝えしようと思う。

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人類の魂は、始まりと限界を必要とする。
それ故に、初めに霊の海があった。
そしてその霊の海はあらゆる空間を満たしていた。
霊の海は動くことなく、満ち足り、己に目覚めた巨人であり、自らの想念の内に住し、己の何たるかに深く沈潜していた。

そして霊の海が動いた。
霊の海は己の内に凝縮し始め、ついに全空間は空になり、そしてそれまで全空間を満たしていた霊は、凝縮したその中心から、決して止むことなく沸き返る精神として輝き出した。
こうして霊は他のものと区別出来る個我を持つ存在として顕現したのである。
そして霊が目覚めた時に見い出す己の真の姿も、この霊に他ならないのである。
これが神であった。

神は自らを表わしたいと欲され、また仲間との交流を欲せられた。

それ故に、神は御自身の内より大宇宙系と魂を投射された。

この大宇宙系は人間が音楽、代数、幾何学と呼んでいるもの、つまり調和と秩序とバランスという法則に従って建てられた。

この「建築ブロック」は全て同じ材料で、つまり生命のエッセンスでできていた。
それは神から送られる力であり、根源的光線であった。
そして根源的光線という言葉から我々が想像するように、それは波長と振動数を変えることで色々異なった形態、物質、運動を現出した。
このような特性から、無限のデザインを可能ならしめる「多様性の法則」が創り出されたのである。

人間がピアノを弾いて色々な旋律を創り出し、それらを1つのシンフォニーの中にまとめあげるように、神はその「多様性の法則」を以て奏でられたのである。

全ての被創造物は、創造の時点から進化の計画を内蔵し、その計画は運動、成長、あるいは人間が呼ぶところの「変化」によって成就されるべきものであった。
これはピアノの鍵盤を叩いた時に出て来る音に対応している。
いくつかの音がまとまると和音になり、和音はさらにフレーズへと変わり、フレーズは旋律となり、その旋律は互いに混じり合い、前に後に、あるいは上に下に重なり合うことによってシンフォニーになるのである。
そして音楽は空に始まったように、後に空を残して終わるのである。
しかしその始まりと終わりの間には、輝かしい美と壮大な経験があるのである。

(大宇宙系を論ずる場合、「光」とか「熱」、「電気」という用語は用をなさない。
というのも、これらの用語の意味するものは、地球圏内においてのみ感覚的に知覚される効果だからである。
人間の知覚というものは、地球圏を離れては機能しないのである。
たとえば太陽も、永遠の個我としての存在にとっては、一つの思念、影響力、あるいは天使として映るのかも知れないのである)

全てのものは運動し、変化し、そして個々の振動数に従って様々な形態と物質の様相を帯びた。
活動は引力と斥力の法則によって始まり、維持された。
つまり異種の物が引き合い、同種の物は反発し合うという、「陰と陽の法則」が全てのものの形態と動きを維持したのである。

これら全ては神の一部分であり、神の思念の一つの表われであった。
精神は陰陽の法則に従う運動変化を駆動し、永続させる力であった。
精神は神の想像をすべて具現した。

全ての被創造物は、この精神の「一局面」、精神の「一状態」であった。

魂は神の「友」として創造された。
魂の創造に用いられたパターンは、神自身のパターンであった。
つまり霊と精神と個我、別の見方をすれば、原因と行為と結果の三重性を有する神のパターンである。

まず最初に霊があった。
次いで霊をそれ自身の中に引き込む行為があった。
そして結果としての神の個我が現われた。

魂を創る上で、まず神との同一性を自覚する霊があった。
次に精神という能動的形成力があった。
そして最後に神から分離して精神活動を経験する能力があった。

こうして神から発し、神に依存しつつも、神から離れた自らの存在を自覚する新しい個体が存在するようになった。
この新しい個体に対して、必然的に自らの活動を選択し、方向づけをする力が与えられた。

この「自由意志」が無けれは、新しい個体は神の個体の一部としてとどまっていただろう。

力として神から来た精神は、故意に別の方向に導かれない限り、たくまずして神の思念を実行するものであった。
この精神の力を別の方向に導くパワーは、人間が呼ぶところの「自由意志」である。
そしてこの自由意志の記録が「魂」なのである。

魂は、精神の力を通して、自由意志が初めてそのパワーを用いた瞬間から始まったのである。
精神が自ら生み出した最初の思考、本来の道からの精神の力の最初の逸脱が、魂の始まりなのである。

魂の核は陰と陽の力を同等に持ち、バランスを保ち、調和のとれた活動を生み出していた。
陽は物事を開始し、生み出し、前進させる力であり、
陰は受け容れ、滋養し排出する力である。
この行為を思考の各階段に当てはめてみると、認識、内省、判断になる。

魂は二つの意識状態から成っている。
一つは霊に属するもので、自分と神との同一性を知る意識であり、
もう1つは新しい個我に属するもので、魂の全ての経験を知る意識である。

魂の計画は経験の繰り返しであり、経験の範囲においても、また期間においても制限は無く、その中で新しい個我は自分の意志の判断に従って、創造のあらゆる様相を知るようになるのである。

この繰り返しのサイクルは、意志の望むことがもはや神の思念と異ならなくなった時に完成するのである。

すると新しい個我の意識は、魂の神との同一性を知る霊的意識へと融合し、そして本来の意図であった神の随伴者として、源へ帰るのである。

神に融合した状態でも、魂は分離した自分の意識というものを保持し、今や神の一部として働くようになったとはいえ、なお自分の自由意志というものを自覚するのである。
しかし、この自由意志は、精神の力をその本来の方向に働かせる力に同調するために、精神の力を逸脱させることがないのである。

神への帰還ということが、個我の喪失を意味するという考えは逆説的である。
というのも、神は生起する全てのことを知る存在であり、それ故にそれぞれの個我の意識をも知るはずだからである。
それ故、魂の帰還とは、イメージされたものが、それをイメージしたものへ戻ることであり、魂の意識―精神の内に書かれた記録―がもし破壊されるとしたら、それは神自身の一部を破壊することになるはずである。

しかし魂が神へ帰還した時には、魂は自分が神の一部であることを自覚するだけでなく他のあらゆる魂の一部であり、全てのものの一部であることを自覚するようになるのである。

魂の帰還の際に失われるものは自我なのである―つまり神の意志と異なるものを欲する部分である。
魂が神に帰る時には、自我は自発的に放棄されるのである。
これが十字架の象徴するものである。

魂の計画は創造の全ての様相を経験することも含まれている。
しかし、それは魂があらゆる形態、あらゆる物質(構成要素)に同一化したり、あるいはそのような形態、物質に入り込まねばならないということを意味している訳ではない。
また魂が創造に干渉しなければならないと言っている訳でもない。
あるいは自分達の夢のイメージを創るために、法則をひねったり曲げてみたりして、自分の小さな世界を創ることを意味している訳でもない。

しかし、前述の様なことは起き得たのである。
魂は創造されたものの中で、最も崇高なものであった。
それは自由意志を持っていたのだ。

ひとたび自由意志を与えられたために、神はそれを抑えることは何もされない

しかし、魂がどのように働こうとも、それは神の内で働かなくてはならない。
どのような道を通っても、結局は神へ帰還しなくてほならないのである。

(人間は地球と比べればほんのホコリのようなものであるが、その地球ですら宇宙と比べればチリのようなものであるという事実を思うと、人間は自分自身のことをちっぽけな創造物だと考えがちである。
しかし、魂の大きさを量る尺度はその無限の精神活動であり、壮大なイマジネーションの力なのである)

最初、個我の新しい意識と神との自己同一性を知る意識との間にはほとんど差はなかった。
自由意志は単に精神の流れを眺めるだけであり、それはあたかも人間が、その力と多彩な能力に驚きつつも、白昼夢の中で自分の愉快な幻想を眺めているかのごとくであった。
そのうちに自由意志は自らの自由意志の力を用いるようになり、精神の活動を真似し始めた。

徐々に経験を重ねるうちに、真似の力ではなく、神を補う力になり始めた。

それは神の創造を拡張したり、修正したり、統制することを助け始めた。

自由意志はイエスが行われたごとく、「英知と美」のうちに成長し始めたのである。

魂の中には自分の力の虜(とりこ)になる者が現われ、自分の力を試し始めた。
彼は地のホコリや空の風の中に混じり込み、それがどんなものであるかを感じ、それらの一部となったりした。
このような活動の結果の1つとして、陰あるいは陽のどちらか一方を強めることになり、陰陽の力のバランスを崩した。
すなわち、何かを感じようとするには陰の力が必要であるし、何かを表現しようとしたり、それを方向づけたり、統制するには陽の力が必要であったのだ。

もう一つの結果は、二つの意識状態の結びつきが徐々に弱くなってきたことである。
つまり霊に属する意識と個我に属する意識の結びつきが弱くなったのである。

個体は段々と神による創造よりも自分の手による創造の方にいっそう関心を持ち始め、自覚し始めた。
これが霊の失墜であり、天使達の反逆であった。

創造の一部へ移入し、その一都となるためには、魂は新しい第三の意識状態―その創造を経験し、思考という手段によってその経験を精神に記憶する仕組み―を持つ必要があった。
人間はこの自覚出来る意識を「顕在意識」と呼んでいる。
これは人間が地球を経験するための仕組みであった。
すなわち肉体や五感、腺、神経系などであった。

別の世界、別の宇宙系では、その仕組みは異なるのである。
これらの他の世界や宇宙系、神の精神の局面がどれ程あるかは分からない。
せいぜい人間の思考の範囲と多様性から、それがどれ程のものであるか、ぼんやりとしたイメージを持つことが出来るのみである。

魂が被造物の一部である顕在意識を持った時、魂は一時的に自分の個我としての意識から自らを分離し、そして霊としての意識からはさらに隔絶した存在となったのである。

それ故、創造の流れを導く補助をしたり、創造に寄与するどころか、魂は小さな流れの中に漂っている自分に気づいたのである。


岸から離れる程、魂は流れに巻き込まれてしまい、陸に上がることがますます困難なことになってしまったのである。

それぞれの恒星や太陽系はこのようにして、魂にとって誘惑の場を提供したのであった。
それぞれの恒星や星系は独自の計画を持ち、絶え間ない精神の流れという活動によってその目標に向かって動いて行った。
魂は(自らをその星系の精神の流れの中に浸すことにより)流れの中に飛び込み、思いがけずもその流れが強く自由意志は動きがとれなくなってしまったのである。

このような状況下では、流れのままに容易に流されてしまうのであった。

(各星系はまた、神との親交を完成させるという理想に向けての成長、前進、発展のための機会―つまり、「宇宙精神」という壮大な系における神の共同創造者としての地位へ向けての成長の機会を提供するものでもあった)

太陽系は魂を引きつけたが、各太陽系は惑星を必須の構成要素とし、それら全体で1つのまとまった場であった。
それ故、必然的に地球は魂の通り道に入ったのである。

(太陽系内の各惑星はそれぞれの星系の意識の次元―つまり全体としての意識の各局面―を表わしている。
太陽系の場合、意識は八次元まである。
その中で地球の意識は三次元である)

ケイシー・リーディングによると、惑星と次元との対応は次の通りである。
ただしカッコ内はリーディソクが明示したものではなく、他のリーディングからの推定である。
0次元 ― 土星
1次元 ― 火星
2次元 ― (海王星)
3次元 ― 地球
4次元 ― 金星
5次元 ― 木星
6六次元 ― (天王星)
7次元 ― 水星
8次元 ― (冥王星)

地球はそれ自体の法則、計画、進化を持った神の精神の一つの表われであった。

海の美しさ、風の美しさ、森の美しさ、花の美しさ、そういう諸々の美しさを感じてみたいと切望した魂達は、自らをそれらのものの中に混ざり込ませ、それらのものによって自己を表現した。
彼らはまた動物の中にも混ざり込んだり、また動物を真似て想念体を作り出した。

(訳注)リーディング(364-3)によると、想念体は、地上の物に例えるなら、1種のアメーバのようなもので、自分の想念に従って自由に形を変える能力を有し、またカメレオンのように自由に周囲の色を帯びることが出来たようである。

彼らは創造を楽しみ、神を真似たのであった。

しかしそれはあくまで戯れであり、真似事であり、既存の秩序の下に働いていたものに干渉することとなった。
そのため、地球の計画を運んでいた精神の流れは、徐々に魂達をその流れに巻き込んでしまった。
そして魂達は自らの作り出した想念体の中に捕えられたまま、その流れと共に行かざるを得なくなってしまったのである。

それらは奇妙な体であった。
それは動物の混合体であった。
こういう部分が体にあれば楽しいだろうなあ、という複数の想念が、継ぎ接(は)ぎのようにごっちゃになって想念体は出来上がったのである。
半人半馬や一つ目の巨人伝説が、時代から時代へと伝承されてきたが、これは地球に降り始めた魂の実際の様子を伝えた遺物なのである。

動物界にはすでに性が存在していたが、想念体の中の魂は両性具有であった。
性を経験するために、魂達は自分自身の内に陽を保持しつつ、別の構造体の中に陰の力を分離して、伴侶としての想念体を創り出した。
この実体化を人間はリリス、すなわち最初の女性と呼んだ。

人間が物質と呼ぶものの中へ、こうして魂がもつれ込んで行くこと(entanglement)の可能性は、創造の最初から存在した。
しかし神はそれがいつ起こるかについてはご存じなかったのである。
それがいつ起こるかは魂達が、自分自身の選択により、いつ起こすかによっていたのである。

(神は全ての魂を最初に創られ、それ以後は一つの魂も創られなかったが、その神が創られた魂の中で全体からすればごく少数の魂のみが、太陽系を経験するために来たのである。
といっても、その他の多くの魂は他の天体系において同様の経験を経たか、あるいは現在も経験しているのである)

物質の中にもつれ込んだ魂達のために、そこからの解放の道が用意された。
地上における魂達の乗り物としての形態が選ばれ、また魂を成長させるサイクルの一環として、地球に入り、地球を経験するための道が整えられた。
当時、地上にすでに存在していた形態のうちで、類人猿の1種が、魂の乗り物として必要なパターンに最も近いところまで進化していた。
そこで魂達はこれらの猿達の上に降り始め―といっても、実際に猿の中に入ったのではなく、猿達の上や周りをつきまとうことによって―猿達がそれまで向かっていた単純な進化とは異なった方向へ向かうよう猿達に影響力を及ぼしたのであった。

それによって猿達は木を降り、火をおこし、道具を作り、集団で生活するようになり、互いに意志の疎通をはかるようになった。
人間の時間感覚からしても、猿達は急速に動物的な容貌を失い、体毛を落とし、しぐさや習性が洗練されていった。

このようなことは全て、魂達が腺組織を通して働きかけて行ったことであり、その結果、猿の体は(太陽系内の三次元空間として)猿の周囲をつきまとっていた魂達の「属性」を具象化するものとなった。
そうして魂はその肉体に降りるようになり、地球は新しい住人―人間―を迎えることになったのである。

(訳注)人間の体はそれ故、太陽系を反映しているが、そのことは内分泌腺と惑星の対応に最も顕著に現われている。
ちなみに、その対応を挙げると、
性腺 ― 土星(0次元)
副腎腺 ― 火星(1次元)
ライディック腺 ― 海王星(2次元)
胸腺 ― 金星(4次元)
脳下垂体 ― 木星(5次元)
甲状腺 ― 天王星(6次元)
松果体 ― 水星(7次元)
となる。
例えば火星の影響を受け易い人というのは、副腎腺の働きが活発なのである。

人間は動物の中の意識として、地上の異なった五つの場所に、五つの人種として現われた。
白色人種はコーカサス地方とカルパチア山脈、それからペルシャに現われた。
黄色人種は現在ゴビ砂漠と呼ばれる地方に現われた。
黒色人種はスーダンとアフリカの北西部に現われた。
赤色人種はアトランティス大陸に現われた。
褐色人種はアンデスに現われた。

(南アメリカの太平洋岸は当時、レムリア大陸の西岸であった。
アメリカ合衆国の大西洋岸はアトランティスの低地を含んでいた。
ペルシャとコーカサス地方は肥沃な土地であり、エデンの園とはこの地方のことであった。
我々が今日知るところの北極と南極は、熱帯と亜熱帯地方であった。
ナイル川は大西洋に注いでいた。
サハラは肥沃な土地であり、人が住んでいた。
ミシシッピ川流域は海洋の一部であった)

問題は、魂が肉体にいない時と同じくらいに自由になれるよう、地球からの束縛を克服することであった。

魂の自由な表現に対して、肉体がいささかも障害にならなくなった時にのみ、地球へのサイクルが終わるのであった。

(より小さな場としてみれば、これは自由意志と創造のドラマである。
さらに小さな場では、それ自体でひとつの世界を構成する肉体の各原子そのものが、自由意志と創造のドラマになるのである。
というのも、魂は一つ一つの原子に生命を吹き込み、それ故に各原子は魂のパターソを反映するのである)

これらの新しい、純粋な人種には男性と女性があり、両方とも完全な魂を持っていた。
イブはリリスに取って代わり、地上における肉体・精神・霊の三つのそれぞれのレベルにおける理想的な伴侶であるアダムとで、互いに補い合う対になった。
イブの中では陽の極が抑えられ、陰の極が表わされた。
一方、アダムの中では陰の極が抑えられ、陽の極が表わされた。

(魂が男性、女性のいずれになるかは、魂がどちらか一方にすでにもつれ込んでいたり、バランスを崩していない限り、選択の問題であった。
最終的に、陽の極と陰の極は、バランスを取らなくてはならない性質のものであり、それ故、本質的にはどちらかの性が他方の性に比べて優れているということはないのである。
そしてバランスを得ている魂にとって、性とは地球サイクルに滞在している間に用いる便利な仕組みであり、自分が取り組もうとしている課題に最も適した性が選ばれるのである。
それ故、性は自発的に選択されるものである。
そしていったんある性を帯びると、一般的には地球への転生を繰り返している間は、その性が保持されるのである。
といってももちろん性を変えることがその魂にとって、より望ましい場合には、転生の際に性を変えることも可能である。
自己の性に対する自覚は、転生間、すなわち地球上の肉体に宿っていない期間においても保持されるのである)

人間は自分の意識を持つことによって、人間における性が、動物における性よりももっと深い意味があることを自覚するようになった。
それは新しい魂達が地球に入る時に通る扉であり、太陽系の他の惑星では不要な扉であるということである。
それは肉にもつれ込んだ魂達が、自分達の苦境から抜け出すために持つ唯一の方法であり、魂は自らの選択により地球に入った他の魂達の肉体を通して再誕しなくてはならないのである。
これらの肉体は動物の肉にもつれ込んだものでもなければ、想念体でもないのである。
それらは地上の魂にとって理想的な乗り物なのである。

それ故に、性は善にも悪にも仕える創造的な力であった。
正しく使うなら、それによって人種は純粋に保たれ、地球は完全な肉体に宿る魂にとっては楽園となり、捕獲された魂は、怪物や半獣の形態への輪廻のサイクルから解放され、完全な肉体を得ることが出来たのである。

(これが、アダムとイブと蛇とリンゴの物語なのである。
蛇、つまり英知は善悪を知る木の実を食べるようイブに勧めたのである。
そして陰の受動的な力であるイブはそれを取り、それを心の中で成長させたのである。
能動的な力であるアダムがイブからそれをもらって食べた時、平和であった人間の動物生活は終わったのであった)

地球サイクルにおける魂の計画は、一連の輪廻転生であり、その転生間には太陽系の他の諸次元、つまり他の諸惑星に滞在するのである。
この輪廻転生は、五感と顕在意識を持つ肉体のあらゆる想念、あらゆる行為が、その最初に与えられた魂の計画に調和するようになるまで続くのである。

そして肉体がもはや魂の自由な表現にとっていささかも障害とならなくなると―別の言い方をすれば、顕在意識が潜在意識と融合し、肉体という原子的な建造物が制御されるようになり、魂が肉体の外にある時と同じくらい自由になると―地球への輪廻転生のサイクルは終了し、魂は更なる新しい冒険の旅へと向かうのである。

このような肉体の克服は、太陽系の他の意識次元を完全にマスターしない限り達成されないのである。

というのも地球はこれらの諸惑星と一緒になって初めて太陽とその惑星の完全な表現となるからである。
どの次元の意識状態にあろうとも、その魂がその時点で帯びている意識がその魂にとって活動の焦点となるのである。
その時、他の次元の意讃状態は意識の深層に退き、衝動とか影響力として働くようになるのである。

太陽系内の人間の魂は、あらゆる創造の経験をすでに完成させ、神に帰還し。神の随伴者、神の共同創造者となった魂によって養育されたのである。
この魂こそ人類がキリストとして知る魂である。

このキリストの魂は、地球に捕らえられた同胞の魂達の苦境に心を痛め、汚れを知らない純粋な魂達の一群を指揮して地球に送り込むと、自ら地球の形態をまとい、時代から時代へと現われて人類を導いたのであった。

初めの頃、魂は肉体に浅く入り込んでいただけであり、自己の本性を覚えていたが、転生を繰り返すうちに徐々に、彼らはより物質的な体をまとうようになり、それに伴って霊性が低下し、精神の力についての意識も薄らいで行った。

彼らは真の自己というものを、夢の中とか、世代から世代へと語り継がれて来た物語や神話の中でしか思い出せなくなってしまったのである。
そして宗教が誕生したが、これは失われた記憶を希求させるための儀式であった。
また音楽、代数、幾何学等の学芸が生まれたが、これらの学芸は新しい魂達が来ることでもたらされた。
魂達は徐々に自分達が天上の存在であったことを忘れていき、そのことを書物の上に書き留め、学び、新しい世代に次々に教えていかねばならなくなった。

そしてついに人間は、本来の個我から全く切り離された顕在意識のみを伴侶として取り残されたのである。
(人間はこの個我を潜在意識と呼び、人間の意識の中で地球を知覚する部分を顕在意識と呼んでいる)
潜在意識は顕在意識に影響を与える。

事実、顕在意識の精神的程度、精神の広さ、特質といったものは潜在意識によって与えられているのである。

それは言ってみれば、衣服の下にある体のごときものとなったのである。
そして眠っている時にのみへ潜在意識は顕在意識という衣服を脱ぐのである。

この顕在意識で人間はものを考えたのである。
(というのも、人間の精神は、そのままにしておくと、いつか神の御心を行うようになるからである)
人間は、それが真実かどうかをはっきりと知ることは出来ないのであるが、自分が真実だと感じることに対して理論を作ったのである。
その結果、哲学と神学が生まれた。
人間は自分の周りを見回し、そして地球の中に、自己の内にありながら自分の意識ではもはや到着出来ない神秘を発見し始めたのである。
そこから科学が生まれた。

そうして人間の計画していたことが実現した。
人間は天上の知識から、神秘的な夢、啓示宗教、哲学、神学へとどんどん下って行き、とうとう自分の目で見たり、五感で感じたり、自分の顕在意識で証明出来るものでない限り何も信じようとしなくなるところまで落ちたのである。
そしてそこまで落ちると、今度は自分が唯一残しておいた手段―忍苦、信仰、精神カ―を用いて、上へ向かう道を切り開いて進み始めたのである。

アトランティス大陸もレムリア大陸も沈んだ。
文明は隆盛しては衰退する。
人間はあるところで良くなるかと思えばへ別のところで退化した。
人間は地球の意識の深みにすっかり落ち込み、そこからゆっくりと這い上がって行くのである。

木々の間から下を眺めた最初の魂が、そこにスミレを見つけ、それを摘みたいと欲した瞬間から、最後の魂がその肉体を永遠に離れる瞬間までは、長い旅である。

キリストの魂が人間を助けた。
エノクとして、あるいはメルキゼデクとして、キリストの魂は肉体をまとい、人間を教え導いた。
(キリストの魂は能動的に働かなければならなかったので、男性である必要があった)
エノクとメルキゼデクには誕生も無ければ、死も無かった。
キリストの魂はこれらの肉体をまとった後で、人間に本来の姿に戻るための道を示し、人間のために模範を示す必要のあることに気づいた。
キリストの魂はこの仕事に取りかかり、人間として女性から生まれ、自発的に新しい個我、新しい魂の記録を始めたのであった。
しかしもちろん、その新しい個我の背後には純粋なキリストの魂が輝いていたのである。

ところがこの魂の上にもベールが覆いかぶさり、神の子も自らの巡礼の旅を始めたのである。
キリストの魂はヨセフとして生まれ、再びヨシュアとして、そして聖書を書き改めたエノクの書生のエシュアとして―そして最後に、イエスとして生まれた。
死と肉体というくびきに勝利したイエスは道となり、自我意志を捨て去り、十字架を受け神に帰ったのである。
イエスは我々が従うべき模範である。

(訳注)イモスの過去生として右に挙げられたのは、全て聖書に出て来る人物であるが、リーディングによるとイエスの魂はそれら以外にも全部で三十回の転生を地上で送り、ゾロアスター教、仏教、儒教等、世界各地の宗教に影響を与えたとされる。

(現在、人間は大きな霊的暗黒状態―夜明け前の暗黒状態にある。
人間は懐疑的態度をとことん突き詰めていったがために、ついに人間が直観的に正しいと思うものは誤っているという結論を下さざるをえなくなる状況に追い込まれている。
と同時に、人間は自然現像についての観察を突き詰めていき、とうとう最初にはその正しさが証明されていたと思われていたものを反証するまでになってしまったのである。
ここに来て自由意志は結局どの道を通って行っても、最終的には同じ地点に行き着くことが分かりかけてきている。
科学も、神学も、哲学も、協力する気はさらさら無かったのに、吸収合併する地点に近づきつつあるのだ。
懐疑主義は、結局自分の手によって、破壊に直面するのだ)

人間はいつの時でも、自分のかつての在りよう、行為、自分が戦い守ろうとしたもの、自分が憎んだり愛したものの集大成なのだ。

地球の三次元意識の中では、人間の肉体を構成する1つ1つの原子すらも、その魂を反映するもの―つまり人間の個我の結晶なのだ。
人間の感情や精神的能力、適性、嫌悪と愛着、恐れ、愚行、野心、性格といったものは、全て人間が自由意志を与えられて以来、その自由意志を以て何を為して来たのかの、その集大成なのだ。
それ故、全ての人格は―これは個我の地上での衣服であるが―他のいかなる人格とも異なるのである。

これは初めからそうであった。
各魂が独自に最初に考えたことは、他のいかなる魂が独自に最初に考えたこととも微妙に異なっていた。

それ故、人はその好むことと嫌うこと・望みも夢も全て異なるのである。
因果の法則であるカルマの法則も同様に、一人ひとりの人間の喜びや悲しみ、苦しみ、強さと弱さ、長所と短所、美しいものに対する感じ方、真理の理解の仕方等を、異なるようにしたのである。
肉体において招いた負債は肉体において償わなくてはならない。
これは人でも神でもない自然の法則であり、これが「目には目を、歯には歯を」を要求するのである。

この同じ法則が、集団で行動するグループとしての人々にも通用される。
家族のカルマもあれば、種族のカルマ、人種のカルマ、国のカルマもある。
戦争を仕掛けた魂達がある国に生まれ変わると、今度はその国が戦争を仕掛けられるのである。
それらのカルマは国が敗北を戒慎と理解によって忍び、あるいは勝利が正義と慈悲のうちにもたらされる時にのみ、戦争のカルマは彼らから引き上げられるのである。

全ての人の人生は、カルマによって幾分かにしろ形づけられているのである。
その人生を形造るカルマとしては、本人のカルマもあるが、それ以外にも付き合う人のカルマ、愛する人々のカルマ、国のカルマ、人種のカルマ、さらには世界のカルマ等がある。
しかしこれらのものといえども、それが如何に組み合わさったとしても、個人の自由意志を凌ぐことはない。
人間の魂を成長させるのも退化させるのも、人間がこれらの影響力、衝動にどう対応するかにかかっているのである。


カルマがあるために、ある状況が他の状況よりも起こり易いということはありうるが、しかし自由意志がある限り、全てのことが可能なのである。

それ故、自由意志と宿命の両方が、人間の内に共存するのである。
過去生での経験がその人間の枠を決め、その人間を特定の方向に向けようとするが、しかし自由意志によって常にあらゆることが可能なのである。

肉体をまとっている魂の中で、次の転生でどのような経験をしようとするのか、その大筋の計画を持たずに生まれて来る者はいない。
その肉体を通して表わされる人格は、多くの人格の中から個我が選んだものである。
人格の役割はその個我が持つカルマのいくつかの面に、その人物を取り組ませるということである。

自分が選んだ人格であろうと、割り当てられた人格であろうと、その人格は自分が耐えきれない程大きな運命を引き受けることはない。
(ここで自分で選ぶ人格と、割り当てられた人格という表現を用いたが、それは次のような事情からである。
魂の中には自分で転生を選び、自分の課題を決めることの出来る者もいるが、あまりに大きな過ちを犯し、危険な程に地上的欲望に捕らえられている場合には、その者は法則に従ってその者の向上に最もふさわしい時と環境のもとに送り出されるのである)

自分で選択した課題ではあるが、それが完全に達成されることはほとんどない。
それどころか全くなおざりにされることがしばしばある。

転生の選択はたいていの場合、妊娠の時、つまり両親によって転生の経路が開かれた時になされる。
そのパターンは両親の魂のパターンを混ぜ合わすことによって作られる。
そしてこの時にある種のカルマの諸条件が設定されるのである。
そしてこのように設定されたカルマの諸条件に、自分自身のカルマが似かよっている魂が引きつけられて来るのである。
しかしそのパターンが魂のパターンと完全に一致するということはありえないので、魂はその経路を用いるために両親のカルマをいくらか帯びなければならないことを考慮に入れなくてはならない。
これは環境とか両親との関係、人相の類似などである。

パターン以外に、魂は歴史における来る時代の様相、両親との過去生での関係、その魂が一緒にいたいと思う魂達の転生の状況、あるいは解決しなければならない問題を持つ魂達の転生の様子等が肉体を選ぶ際に係わって来るのである。
ある場合には、両親というものがその魂を地球に戻す唯一の要因になることがある。
その場合、その子供は両親に尽くし、両親が亡くなるまで身近に留まるのである。
また両親は地上に転生するための手段として用いられることがある。
その場合、子供は早くから親元を離れ、仕事に係わるようになる。

魂は、早ければ誕生の六ヵ月くらい前からその肉体に宿り、また遅い場合には誕生の1ヵ月後くらいに宿ることがある。
ただし後者の場合には、魂は誕生の時からその肉体の周りを徘徊し、その肉体に宿るべきかどうかを決めているのである。
そしていったん決定が下され、肉体に完全に宿り終えると、その魂と新しい人格との間にベールが下ろされ、その子供の地球での記録が始まるのである。

(しかし子供を死産するということは、その肉体が魂の乗り物として拒絶されたということではない。
むしろその反対が真実なのである。
つまり経路の側が魂を拒否したのであり、そのためにその体に宿ることが出来なかったのである)

肉体は、子宮の中で両親の生命力を混ぜ合わせることで出来たパターンに従って形成される。
これはユークリッドの第47番の定理、すなわち「直角三角形において、直角を成す二辺のそれぞれの二乗の和は、斜辺の二乗に等しい」というピタゴラスの定理の形而上学的象徴である。
魂が宿り始めるや、すぐにその魂のパターンがその肉体の内に働き始め、子供の人格が始まるのである。

人格とは、個我の中のスポットライトを受けた部分であり、それが三次元の意識を経験するのである。

一方、個我の残りの部分は背後に隠れ、その人格に対し、衝動、ものの考え方、嗜好、趣味といったものを通して人格に色合いを与えたり、あるいは例の「魅力」と曖昧に定義される特質―これは直感によって感得されるものである―等に現われるのである。

人格は、3、4回の過去生によって形造られるが、その間に個我は、ある地上の経験に取り組むのである。
その人の感情や才能はこれらの過去生を反映している。
一方、夢や、ビジョン、瞑想といった人格の中でも深層部にしっかり守られている自己意識は、太陽系内の他の意識状態の経験のパターンを反映している。
知性は、大まかに言って、他の星から来ている。
それは過去における太陽系外での創造の経験によって条件づけられ、最近の太陽系内での経験によって曇らされたり、輝かされたりする魂の精神力である。

それ故、人格は個我の一局面に過ぎないのである。
地球を再経験しようとしている魂は、その個我のいずれかの局面を表現する人格のどれかを帯びるのである。
魂が太陽系内での輪廻のサイクルを完成するにつれて、人格は多くの面を表わすようになり、個我のより大きな部分を表現するようになる。
これはそれぞれの転生において、悪いカルマが無くなって行き、そのカルマに捕らわれることが少なくなっていくためである。
最終的に、人格は個我を余すところなく表わすようになり、輪廻のサイクルが完結するのである。


(訳注)ケイシーのライフ・リーディングを受けた人は全部で2100人いるが、その中で18人が、今回の人生を以て、太陽系の輪廻のサイクルを脱すると言われた。(0.86%)

(一方、個我が地上的なものの誘惑に堕(くず)れ、自己の知性を感情のために放棄し、そしてその感情すらも官能のために放棄するようになると、人格は極端に狭くなり、個我のごく限られた部分しか反映しなくなる)

人格に影響している過去生は、その人の現在の人生の中で、各過去生におけるパターンを反映する。
また過去生が互いに混じり合うこともある。
たとえば両親がその子供のある過去生での経験のパターンを誘うような環境を再現し、その一方で子供の遊び仲間が、別の過去生での経験のパターンを誘い出す環境を作ったりする。
また時には過去生の影響が、人生の期間ごとに違って現われることがある。
たとえば子供の頃はある過去生の状況を再現し、学生時代に別の過去生、結婚は第三の過去生を、そして仕事をするようになると第四の過去生の状況を再現するといった具合いにである。
たいていの場合、当人が接する人々と転生によって持ち込んだ問題は互いに関連し、連動する性質のものである。
そのために人格の経験するパターンには無駄がなく、合理的に発展の機会が与えられ、その人がそれらの問題に対応出来るようになるに従って、それらの問題が当人の前に展開されるのである。
転生はその人の個人的問題(ハンディキャップとともに祝福でもあるが)を反映するだけであるから、通常一つの人生で複数のカルマを引き受ける。
そしてその人生が実り多いものとなると、肉体から自由になるという目標に向けて多大の進歩をなすことになるのである。

人生が終わると人格は消え、人格のパターンは個我の中に吸収される。
人格の記録は保持されるが、それは個我の一部になるのである。
つまり、その時までに人格が考えたあらゆること、人格が経験したあらゆることが、各時代にその人格が飲み、食い、感じたことの全ての集大成である個我の一部となるのである。


(ここにある両極端の考えが一つになる例がある。
無神論者もキリスト教徒も共に正しい主張をしていることになる例である。
無神論者は人格の死後の存在を否定する。
一方、キリスト教徒は魂は死後に裁かれて、創造主のもとに帰ると言う。
ここで魂という言葉を人格という言葉で置き換えてみると、両者が共に真実を表わしていることが分かる。
人格は裁かれて、創造主、つまり個我のもとに帰り、そして人格としての独立した存在を放棄して、個我の中に吸収されるのである)

そうして今度は太陽系内での個我の完成のための計画が、それに続くのである。
試練、あるいは将来の人格の特質を補強する手段として、別の意識状態が経験されるのである。

それ故、個我の問題、グループの問題、人種や国家の問題は、自由意志によって解決されるまで何度でも繰り返されるのである。
そして解決されると魂達は別の世界、別の太陽系、別の宇宙へと進んで行くのだ。



―――――

リーディングは次のように語った。

物質的状態にある汝自身を知ることは、地球における救済の、正義の、真理の、創造的力の、神の計画の一部なのである。

一人ひとりの人間は、神と呼ばれるかの至高の力にとって、体の中の血球のごときものである。
全ての人間は地球において働く至高の創造的諸力の顕現なのである。
全ての人間は自分に肉体と精神が備わっていることに気づくのである。
そして肉体はそれ自体が自らの創造性を表わそうとし、また精神は自分が表現したり知覚するものを認識したり、あるいは他の人間が表現しているものや自分の肉体と精神に働きかけている影響力を認識することが出来るのである。

偶然によって物質世界に入る魂はない。
そうではなく愛溢れる父なる神の恩寵によって、慈悲によって入るのである。

そして魂は至高の創造的諸力との交流と合一を妨げるような欠点、気まぐれといったものを、自らの選択により果敢に取り組み、解決するのである。

ある特定の人生において、魂が進歩するか退化するかは、その人間がどのような理想を持ち、その理想に対し、精神的にあるいは肉的にどのように取り組むかにかかって来るのである。

人生は目的に満ちた経験である。
そして人が今いる場所においてこそ、魂は今の能力、欠点、失敗、長所を用いて、地上に生まれきた目的を果たせるのである。

汝自身の内に不変の法則があり、汝を取り巻く宇宙も天地開闢(かいびゃく)以来働き続けているそれらの法則によって導かれているのである。

汝が裁くごとも汝も裁かれる。
汝が許すごとく、汝も許される。
汝が汝らの最も弱き同胞にすることは、それは汝らの創り主にすることに等しい。
これらが法則であり、真理であり、決して誤ることがない。

創造主がその報いをもたらすことに遅々としているように見えることがしばしばあるからといって、それは法則が変更されたり、変えられたのではない。
誤り、欠点、失敗は帳尻を合わせなくてはならない。
たとえ天と地が滅びても、創造主の言葉は不滅である。
創造主の言葉は道であり、真理であり、光である。
全ての魂は最後の一銭まで帳尻を合わせなくてはならない。

では、如何にして神の言葉を実行するや。

それは勇猛な行動でもなく、また汝らの知識と力を賞賛することでもない。
そうではなく、霊の内にある優しさによって、すなわち愛と、親切と、苦しみを耐えること、忍耐の内にである。

汝らの長兄キリストが示されたように。
汝らは、それらのことを日々に同胞との関係性において、ここに少し、かしこに少しと適用しつつ、キリストが斯くあるべしと定められたごとく神と一つになるのである!

何ゆえに汝らは神の愛から自らを引き離そうとするのか。
この地にも、天にも、地獄においてすら、汝を神の愛から、兄弟の愛から引き離すものは汝自身をおいて他にないのである。

さればこそ、起きて行動せよ。
しかし、自己を称揚する出来事に遭ったとしても、これらのものは、優しさのうちに、忍耐のうちに失われなくてはならない。
何とならば、忍耐を通して人は自分の魂を知るからであり、忍耐を通してのみ、神の内に失った自己の個我を、汝の主、汝の創り主の個我によって動機づけられたものとして輝く汝の人格を、知るからである。
汝の運命は自己の内にあり、また世界の運命も汝らの内にあるのである。

汝の瞑想を通して、あるいは人との語らいや、人と接する中で、その真実であることが示された信仰をしっかり保つがよい。
なぜなら、重要なのは知識でもなければ、物質界で何を達成するかでもなく、汝自身の経験から建設的であると信じるものに対して何をなすかであるからだ。

イエスが語られたように、「汝が他人に為すことは、私にするのと同じである」。
イエスは道であり、生命であり、光である。
キリストは創造主にして、あらゆる善にして、完全な賜物の与え主である。
人は物質世界に種を蒔き、働くが、しかしその報酬は、その実りは、生命の与え主である神より、神を通して来なくてはならない。
神の真理の種をどこに、どのように蒔くかは重要なことではない。
何となれば、真理の種はそれが慎ましい精神によって、誠実な目的で、かつ神の栄光のみを願って植えられるなら、神が実りを与えられるからである。
このような道によってこそ、このような仕方によってこそ、神は汝をして従わしめるのである。

汝らは身も心も、汝らの同胞に向けられた努力によって、地上に神が顕現される経路となれ。
それは精神こそが、(人の内にある精神も、また人に向けられた精神も共に)真の形成者であるからである。

そしてその精神すらも唯一の目的に向けられ、その唯一の目的の内に失われなくてはならない。

その唯一の目的とは、汝らの同胞の意識の内に、「神が地上におられる、神の言葉は暗闇に迷う人間にとって、弱い者にとって、躓(つまず)く者にとって、光である」という大いなる覚醒を起こすことである。

神は汝の努力に対し、必要な力を、必要な勇気を与え給い、自己の利己性のままに行動し真の自己に目覚めていない者の目を醒まさせ、栄光に輝く地上の活動に寄与するものを彼らにもたらし給うからである。

さればこそ、汝が神の内に持つ信仰を保てよ。
何となれば、神は汝の力であり、汝の防波堤であり、汝の長兄なればなり。
神の内に、汝らに喜びと平和と幸福をもたらすものを見い出し、恐怖を越えるカを見い出すからである。

神は平和であるが、これは人が平和と考えるものでも、幸福と考えるものでもない。
それは神が一つであるごとく、生命が、つまり地上における父なる神の表わし給うものが一つであるという調和の取れた状態のことである。


信仰を保てよ。

 

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