高校生の息子への手紙

友人のサンデー先生は唄う。



♪勉強なさい〜 勉強なさい〜
大人は子供に命令するよ 勉強なさい〜
偉くなるために お金持ちになるために
あー あー あー あー
そんなの聞き飽きたっ!

♪いいえ、いい大人になるためよ。
男らしい男 女らしい女 人間らしい人間、
そうよ 人間になるためーよ さあ勉強なさいっ!

♪そうだとも 泣けちゃうな〜
いまのひとこと みんな 忘れるな〜
(とらさんもネ)

世の大人は子供に「勉強なさい」と命令すると言う。

勉強しなければならないその理由が、
偉くなるため
お金持ちになるため
男らしい男になるため
女らしい女になるため
人間らしい人間になるため
だと言う。

この歌詞を一緒に考察してみたい。

「偉い」とは何か?
私が偉く在るためには、偉くない人が居なければならない。
偉くない人が居なければ、偉い人が居ることはできない。
偉くない人が居ることで、はじめて偉い人が居ることができる。
みんなが「偉さ」において均質だと、「偉い人」も「偉くない人」も存在できない。

つまり、偉くない人が偉い人を在らしめ、偉い人が偉くない人を在らしめている。
「偉い」という特性と「偉くない」という特性が、相反する互いの特性を浮かび上がらせている。

「偉い人」、「偉くない人」
それは、人を「偉さ」という属性(アトリビュート)で観察したときに現れてくる程度の違いの特性(プロパティ)なのだ。


「お金持ち」とは何か?
私がお金持ちで在るためには、お金持ちでない人が居なければならない。
お金持ちでない人が居なければ、お金持ちが居ることはできない。
お金持ちでない人が居ることで、はじめてお金持ちが居ることができる。
みんなが「お金の持ち具合」において均質だと、「お金持ち」も「お金持ちでない人」も存在できない。

つまり、お金持ちでない人がお金持ちを在らしめ、お金持ちがお金持ちでない人を在らしめている。
「お金持ち」という特性と「お金持ちでない」という特性が、相反するお互いの特性を浮かび上がらせている。

「お金持ち」、「お金持ちでない人」
それは、人を「お金の持ち具合」という属性(アトリビュート)で観察したときに現れてくる程度の違いの特性(プロパティ)なのだ。


「男らしい」とは何か?
同じ様に、男らしくない人が男らしい人を在らしめ、男らしい人が男らしくない人を在らしめている。
「男らしい」という特性と「男らしくない」という特性が、相反するお互いの特性を浮かび上がらせている。

「男らしい」、「男らしくない」
それは、男を「男らしさ」という属性(アトリビュート)で観察したときに現れてくる程度の違いの特性(プロパティ)なのだ。


さて、この世の中の全ては、このように、数多(あまた)の属性の持つ特性の相違が重畳(ちょうじょう)されて構成されている。
ある属性が有する特性にはいろんなレベルがあるのだが、そのレベルを決定付けているのは「比較」なのだ。
それは相対的な比較だ。
そしてその「比較」の本質は、「二つのもの」の比較なのだ。

「二つのもの」の比較による「差異」が関係性の正体である。
差異というコントラストが関係性の基盤だ。
コントラストが無いのなら関係性は在り得ない。

「学業成績」という属性で観察した場合、
先ず、太郎とA君との比較において「優等性」と「劣等性」という特性が現れる。
太郎とA君との比較は、太郎とB君との比較へ発展し、A君とB君、太郎とC君、A君とC君、B君とC君・・・・互いの比較対象はそうして同学年の全生徒へと拡がっていく。
この「学業成績」という属性における個人の特性を他の全ての生徒の特性と比較して、集積・積分したものが個々の「学力偏差値」だ。


人間は、ほとんど無限とも言える数多(あまた)の属性の海の中で生きている。
個人は、一つひとつの属性における自分固有の特性を、他者との関係性として表現して生きる。
他者との関係性を表明することでしか、自分固有の特性を表現することはできない。
「学力偏差値」とは、そうした属性表現の1つでしかない。

そして、その関係性に意味を与えることが出来るのは自分だけだ。
他人や社会は、自分が与える関係性の意味に干渉することは出来ない。
だから、他人や社会に干渉されることなく自分自身が意味を与えなければならない。

人間がこの世を生きるとは、そうした関係性に意味を与えながら泳いでいくことに他ならないのだ。

この「『属性>特性』の『他者との関係性』に意味を与える」ことが「個」性である。

自己を発見する、自己を定義する、自己を創造する、自己を宣言する、自己を解放する、自己を再構築する・・・・といったことは全てこの「関係性」をベースに考え、理解し、意味を与えなければならない。

「私と他者との関係性の意味」とは、琴の弦(げん、つる)なのだ。
「私と他者との関係性の意味」という琴の弦が、妙なる音を奏でる。
いくつもの琴の弦が素晴らしい弦楽協奏曲を創っていく。

社会とは、人間弦楽器が奏でる「弦楽無限重奏」なのだ。

妙なる音を生み出す琴の弦(関係性の意味)、その弦は二つの支点間に張られる。
二つの支点とは、「私」と「あなた」だ。
この二つの支点には、「優」も「劣」も無い。
「富」も「貧」も無い。
二つの支点は、「俺は『優』で、お前は『劣』だ」と言い争わない。
お互いが妙なる音を生む琴の弦を支えていることを識(し)っている。
お互いに、お互いが存在しないと関係性とその意味が生まれないことを識(し)っている。

おさななじみ

作詞 永 六輔 / 作曲 中村 八大  1963年(昭和38年)

小学校の運動会 君は一等 僕はビリ
泣きたい気持ちでゴールイン そのまま家(うち)まで駆けたっけ


1.
幼馴染(おさななじみ)の想い出は 青いレモンの味がする
閉じる瞼(まぶた)のその裏に 幼い姿の君と僕

2.
お手手つないで幼稚園 積木 ブランコ 紙芝居
胸に下がったハンカチの 君の名前が読めたっけ

3.
小学校の運動会 君は一等 僕はビリ
泣きたい気持ちでゴールイン そのまま家(うち)まで駆けたっけ

4.
ニキビの中に顔がある 毎朝鏡と睨めっこ
セーラー服が良く似合う 君が他人に見えたっけ

5.
出す宛て無しのラブレター 書いて何度も読み返し
あなたのイニシャル何となく 書いて破いて捨てたっけ

6.
学校出てから久しぶり ぱったり会ったら二人とも
アベック同志のすれ違い 眠れなかった夜だっけ

7.あくる日あなたに電話して 食事をしたいと言った時
急に感じた胸騒ぎ 心の霧が晴れたっけ

8.その日のうちのプロポーズ その夜のうちの口付けは
幼馴染(おさななじみ)の幸せに 薫るレモンの味だっけ

9.あれから2年目僕達は 若い陽気なパパとママ
それから4年目幼子は お手手つないで幼稚園

10.幼馴染の想い出は 青いレモンの味がする
愛のしるしの愛し子は 遠い昔の君と僕

君は、娑婆が「ビリ」と呼称する端点で、
あの娘は、娑婆が「1等」と呼称する端点で 琴の弦を張った。
その琴の弦は、あの運動会において素晴らしい調律を奏でていたのだ。


そのことに運動会では気付かなかっただろうけれども、今ははっきりと理解できるはずだ。


覚者は、「優性」と「劣性」という支点に張られた琴の弦が醸(かも)す音楽を楽しむことを識(し)っている。
覚者は、「優性」と「劣性」という二つの支点には拘泥(こうでい)しない。
自己の対局を自己とは分離したものとして非難しない。
その支点間に張られた関係性に意味を与えて楽しむばかりだ。

関係性に意味を与えることが、生きるということだ。
「生」の意味を人生、出来事、社会、他人に求め、探すのではなく、自身が意味を与えることが、生きるということだ。
意味を与えることが、「生」に応えるということだ。

社会は、ほとんど無限とも言える関係性という琴の弦に支えられて浮かんでいる。
琴の弦は、織物の絹の糸を構成する極微の繊維だ。
その関係性の糸を紡(つむ)いでいるのは間違いなく自分であることを忘れてはいけない。

人間性の、社会の発展へ向けた関係性の糸を紡いでいって欲しい。
社会が常識という名のもとに押し付けてくる「優性」やら「劣性」などに干渉されることなく、拘泥(こうでい)せずに、自分自身が意味を与えながら。
もちろん楽しみながら。

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