ダニオン・ブリンクリーのライトレビュー


「未来からの生還―臨死体験者が見た重大事件」
(ダニオン・ブリンクリー/著、大野晶子/翻、同朋舎出版)
「続・未来からの生還―あの世へ旅立つ人々への贈り物」
(ダニオン・ブリンクリー/著、鴨志田千枝子/翻、同朋舎出版)




ダニオン・ブリンクリーは、幼少の頃から悪ガキで、学生時代を不良番長(死語?)として過ごします。
ベトナム戦争に従軍した後、CIAで兵器輸出の業務に従事。
25歳(1975年)の時に雷に打たれ、最初の臨死体験をしました。
(彼は今までに三度の臨死体験をしています。75年、89年、97年の三回。)
死の世界で彼はライトレビューを体験し、地球の未来を見ることになります。
臨死体験に関して三冊の書籍を出版しています。(三冊目は未邦訳)
彼の予言ばかりが注目されていますが、私はそうしたものには殆ど興味が御座いません。
ここでは、彼が体験したライトレビューだけを採り上げます。


 



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ダニオン・ブリンクリーのライトレビュー

実際は、私が動いたわけではなかった。
トンネルのほうが、こちらへ近づいてきたのだ。
鐘の音が聞こえる中、トンネルが渦を巻きながら近づき、やがて私を包み込んだ。

まもなく、なにも見えなくなった。
サンディの泣き声も、私の遺体になんとか「エンジンをかけ」ようとする救急隊員の姿も、そして病院との絶望的な無線連絡の音も、すべて消え去っていた。

そこは、私をすっぽりと包み込んだトンネルと、美しい七つの鐘の音が激しく、リズミカルに鳴り続けるだけの世界だった。
暗闇の先に目を向けると、光が見えた。
その光に向かって、精いっぱいの速度で進んでいった。
足を動かしているわけでもないのに、猛スピードで移動していたのだ。

前方の光はしだいに明るくなっていき、やがて暗闇が消え去り、いつのまにか私は輝く光の楽園の中に立っていた。
それまで見たこともないほどの明るい光だったが、なぜか少しも目が痛くなかった。
暗い部屋から明るい太陽の光の中に足を踏み出したとき感じるような目の痛みはいっさいなく、その光はむしろ目を和らげるものだったのだ。

右に目を向けると、もやの中に銀色の形がシルエットのように浮かび上がってくるのが見えた。
それが現れ出ると、愛という言葉の意味すべてに、すっぽりと包み込まれていくように感じた。
恋人、母親、親友に感じる愛情を何千倍にもふくらましたかのような、深い愛だった。
その「光の存在」が近づくにつれ、愛情はさらに強まり、もはや抑えがたいほどの喜びになったのだ。

自分の体の密度が徐々に失われていくような気がした。
十キロほど体重が減ったような感じだった。
体の重荷は地上に置いてきたのだ。
私はもう、身軽な霊魂となっていた。

私は自分の手を見てみた。
それは半透明で、きらきらと揺らめき、海面のように流動性のある動きをしていた。
今度は胸を見下ろしてみた。
胸もまた半透明になっており、そよ風にたなびく細い絹糸のように揺れていた。

光の存在は、私の正面に立っていた。
彼には、はっきりとした姿かたちというものはなかった。
その実体にじっと目を凝らすと、色のプリズムが見えた。
まるで何千という数の小さなダイヤモンドが、それぞれ虹色を発しているかのようだった。

私はあたりを見回してみた。
下には、私と同じようなほかの存在たちがいた。
当惑したようなその存在たちは、私よりもずっと遅い速度で揺らめいていた。
彼らを見ていると、こちらの揺らめく速度も落ちてきた。
自分の振動が減っていくのは、どこか不愉快だったので、私は彼らから目をそらした。

今度は上に目を向けた。
そこにはもっと多くの存在がいた。
彼らは、私よりも明るく、より多くの光を発していた。
それを見ているときも、あまり気分がよくなかった。
というのも、今度は私の揺らめく速度が上がっていったのだ。
まるでコーヒーを飲み過ぎたときのような気分になり、どんどん加速が進み、耐えられないほどの速さになった。

そこで彼らから目をそらし、私のすぐ目の前まで近づいてきていた光の存在を、まっすぐと見つめた。
彼と一緒にいるのは心地よかった。
彼には一種の親しみを感じたのだ。

彼は、私がいままで経験してきた感情を、すべて知りつくしているようだった。
産声をあげたときから、雷にじゅっと焼かれたあの瞬間までの感情すべてを。

その光の存在を見つめていると、彼ほどの愛情、共感、思いやり、はげましを私に与えてくれ、無条件で同情をよせてくれる人など、どこにもいやしない、という気がしてきた。

光の存在のことを「彼」と呼んではいるが、その存在が男性か女性かは分からない。
この初対面のときのことは、何度も頭の中で思い返してきたが、正直なところ、どの光の存在にも性別があったとは思えない。
彼らから感じたのは大きな大きな力だけだ。

光の存在は、私を包み込んだ。
すると、私の全人生の回想が始まったのだ。
私の身に起こったことすべてを目にし、感じたのだ。
まるでダムが崩壊し、脳裏にしまい込まれていた記憶全部があふれ出したような感じだった。

この人生の回想は、楽しいものとはいえなかった。
はじめから終わりまで、私は胸の悪くなるような現実を目の前に突きつけられることになった。
私は、じつにいやな人間だったのだ。
利己的で、意地の悪い男だった。

まず最初に目にしたのは、荒れた子供時代だった。
そこには意地悪な自分の姿があった。
ほかの子の自転車を盗んだり、彼らに学校でみじめな思いをさせたりしていた。

中でも小学校で、首から腫れ物が突き出ているといって甲状腺腫塵の生徒をいじめたときの場面がもっとも鮮明だった。
クラスのほかの生徒たちも彼のことをいじめてはいたが、私のいじめ方がいちばんひどかった。
当時の自分は、からかい半分程度の気持ちだった。
だがその一件を思い起こしているあいだ、私はその生徒の体に入り込み、自分が与えた彼の苦しみを感じ取っていたのだ。

この感覚は、子供時代の陰湿な事件を思い返しているあいだ、ずっとつきまとっていた。
かなりひんばんに、はっきりと感じられた。

五年生から十二年生にかけて、私は少なくとも六千回は、殴り合いのけんかをしたはずだ。
光の存在に包まれながら自分の人生を振り返っているあいだ、その一つひとつのけんかを再び経験していたのだが、一つだけ大きな違いがあった。

思い返しているときの私は、被害者の立場になっていたのだ。

被害者になったといっても、なにも自分のパンチを食らったような感覚に陥ったわけではない。
そうではなくて、相手の苦悩や屈辱を感じ取ったのだ。
ほとんどは避けようのないけんかだったが、中には理由もなく私の怒りの犠牲者となった人たちもいた。
回想する中、私はその人たちの苦しみをいやおうなく感じ取ることになったのだ。

それに、自分が両親に与えた悲痛も感じた。
私は手に負えない子供だったし、それを自慢の種にもしていたのだ。
両親が私に説教したり、どなりつけたりしても、そんなしつけはまったく意に介さないという態度に出ていた。
彼らは、私を説き伏せようとしては、何度も挫折させられていた。
その上、私は悪友を相手に、自分がいかに両親を傷つけたかを得意げに話すようなことまで、しょっちゅうしていた。
人生を回想したそのとき、こんな悪童を持った両親の心の苦痛が手に取るように分かったのだ。

私が通ったサウスカロライナ州の小学校は、罰点制度を設けていた。
罰点が十五点になった生徒は親を呼び出され、それが三十点になると停学処分を受けるという制度だった。
七年生のとき、始業から三日目にして私はすでに百五十四点の罰点を受けていた。
私は、そういう生徒だったのだ。
現在のそういう生徒は、「活動過多」と呼ばれ、それなりに対処される。
だが私の時代には、それは単なる「悪ガキ」であって、矯正する見込みなどないと思われていたのだ。

四年生のとき、カートという名前の赤毛の男子生徒が、毎日私を学校の前で待ち伏せし、昼食用のお金を渡さないとぶっ飛ばすぞと脅しをかけてきた。
私は怖かったので、いつもお金を渡していた。
そのうちに毎日昼食抜きで過ごすのがつらくなり、父にこのことを打ち明けた。
父は、母のナイロン・ストッキングの中に砂を詰め、両端を結んでこん棒をつくる方法を教えてくれた。
「今度またその子がなにか言ってきたら、そのこん棒で殴りつけてやれ」
と父は言った。
父に悪意はなかったのだ。
彼はただ、年上の子供から身を守る方法を教えてくれただけだ。

だが問題は、こん棒でカートを殴りつけ、彼からお金を奪ったあと、私がけんかの味をしめてしまったということだった。
それ以来、私の望みは、人に危害を加えることと、強くたくましくなることだけになった。

五年生になると、私は友達全員に、近所でだれがいちばん強い子供だと思うか、投票させた。
みんな口をそろえて、がっしりとした体つきのバッチという子供の名前をあげた。
そこで私は彼の家に行き、ドアをノックすると、出てきた彼の母親に、「バッチいますか?」と聞いた。
彼が出てくると、私は彼がポーチから転がり落ちるまで殴りつけ、そのまま逃げていったのだ。
だれが相手でもかまわなかったし、その相手がどんなにいい体格をしていようが、いくつ年上だろうが関係なかった。
とにかく、相手を血祭りにあげることばかりを考えていたのだ。

六年生のときはこんなことがあった。
ある先生が、授業中に騒がないように、と私に注意した。
いやだ、と答えると、彼女は私の腕をつかみ、校長室に向かって歩き始めた。
教室の外に出たところで、私は先生の手を払いのけると、アッパーカットを食らわせ、打ちのめしてしまった。
そして、彼女が血のふき出した鼻をおさえているのを尻目に、私は一人で校長室まで歩いていった。
あとで両親にも説明したように、私は校長室に行くのはかまわなかったが、先生に引っ張られていくというのが気に入らなかったのだ。

うちの家族は、私が通っていた中学校のすぐ隣に暮らしていた。
だから私は停学処分を受けているあいだ、ポーチに腰掛け、校庭にいる生徒たちをながめて過ごしていた。

ある日ポーチにすわっていると、女の子の一団がフェンスに近づいてきて、私をからかいはじめた。
黙っているわけにはいかなかった。
私は家に入ると、兄の散弾銃を持ち出し、それに岩塩をつめた。
そして外にとって返すと、叫びながら逃げていく女の子たちの背中に向けて撃ちまくったのだ。

十七歳のころには、通っていた高校で、いちばんけんかの強い男として名が知られるようになっていた。
その評判を落とさないためにも、ほとんど毎日けんかをしていた。
自分の高校には、もはやたたきのめす相手がいないと知ると、今度は他校の悪ガキどもとやり合うようになった。
少なくとも週に一回は、学校の近くの駐車場を舞台に、決闘が行われていた。
はるか四十八キロも離れたところからやってきて、決闘に参加する生徒までいたのだ。
私が戦う日は、生徒たちはほとんど車から外に出ないで見物していた。
というのも、相手を打ちのめしたあと、私がからかい半分に見物人につかみかかるのを知っていたからだ。

当時は、高校内で人種間の対立が盛んだった。
私たちも、黒人対白人という大々的な闘争を繰り広げていた。
黒人チャンピオンは、ランディという巨漢だった。
彼が白人チャンピオンを、二分間の猛攻撃で倒してからというもの、だれも彼とは決闘したがらなかった。
この私も、彼を避けていた。
絶対にかなうわけがないと分かっていたのだ。

そんなある日、私はハンバーガー・ショップで、彼とばったり出くわしてしまった。
すぐに立ち去ろうとしたのだが、彼が私の前に立ちはだかった。
「明日の朝、例の駐車場で会おうぜ」と彼は言った。
「分かった」と私は約束した。そして、彼が背中を向けて歩き出したとき、私はランデイの顔の右側を思いきりぶん殴ったのだ。
そのあと彼が目を開けられなかったほどの力だった。
そして倒れてもがき苦しむ彼に近づき、胸のあたりを力の限り二回ほどけりつけたのだ。
「明日の朝は都合が悪いんでな」と私は言った。
「だから今日相手にしてやろうと思ったのさ」
まともな方法では勝てるわけがないと分かっていたので、ひきょうにも彼が背中を見せているすきに襲いかかったというわけだった。
私は、そんな高校時代を過ごしていたのだ。

その二十年後に行われた高校の同窓会で、あるクラスメートが私のデートの相手に向かって、私がどんな生徒だったかを暴露し、彼女を困らせていた。
「やつがどんなことで有名だったか、教えてあげるよ」と彼は言った。
「けつをけりつけ、女を横取りするようなやつだった、それをいっぺんにやる男だったんだよ」
振り返ってみると、まったく彼の言うとおりだと思った。
高校を卒業するころには、私はまさにそういう人間になっていたのだ。

人生の回想がこの時点に進んできたころには、私は自分自身をすっかり恥じるようになっていた。
人生の中でみんなに与えてきた苦痛を思い知らされたのだ。

こういう具合いに、私の遺体が担架に横たわっているあいだ、自分が送ってきた人生のありとあらゆる場面を思い返していた。
そこには自分の感情、態度、動機がすべて含まれていたのだ。

人生の回想を行っているあいだに私が体験した感情の奥の深さは、鷲くべきものだった。
一つの出来事の中で、自分と相手の両方の思いを感じるだけではなく、それに反応した第三者の気持ちも、感じ取ることができた。
つまり私は、次々と連鎖する感情の中に身を置いていたということだ。
お互いが、とても深く影響し合っていることがよく分かった。

ありがたいことに、そのすべてが悪い感情というわけではなかった。
たとえばあるとき、大叔父と一緒に車を走らせていたら、男が山羊を殴っているところに出くわした。
山羊の頭はフェンスにはめこまれているようだった。
その男は枝を手に、山羊の背中を力まかせにたたいていたのだ。
山羊は、恐怖と苦痛から、さかんに鳴き叫んでいた。
私は車を止め、どぶを飛び越えてその場に向かった。
男が振り返る前に、私は彼の後頭部を、思いっきり殴りつけた。
大叔父が止めるまで、私は殴りつける手を休めなかった。
山羊を逃がしてやると、私たちは煙が立つほどの勢いでタイヤをきしませ、その場を離れた。

その一件を思い返したとき、その男が感じた屈辱感と、山羊が感じた安堵の喜びに、満足することができた。
山羊が、自分なりの言葉で「ありがとう」と言っているのが分かった。

だが私はつねに動物をかわいがっていたわけではなかった。
犬をベルトでむち打っている自分の姿も回想の中に現れた。
犬がリビングルームのカーペットをかんでいるところを見つけ、頭にかっと血をのぼらせてしまったときのことだった。
もっと穏やかなしつけ法もあるというのに、このときは自分のベルトで犬を打ちつけたのだ。
そのときのことを思い返しているあいだ、私に対する犬の愛情を感じたし、犬も本気でカーペットをかんでいたわけではないということがよく分かった。
犬の悲痛と苦しみが、手に取るように感じられたのだ。

後に、このときの体験を思い返してみて気づいたのだが、
動物に暴力をふるったり、残酷に接したりする人間は、人生を回想するとき、その動物の気持ちを思い知ることになるのだ。

また、自分がなにをしたかということよりも、なぜそうしたのかということのほうが、はるかに重要だということにも気づいた。
たとえば、人生の回想の中で、理由もなく人を殴りつけたことのほうが、けんかをふっかけられたために人を殴りつけたときよりも、ずっと心が痛んだ。
おもしろ半分にだれかを傷つけている自分を思い返すのは、なによりもつらいことだ。
なにか信じる理由があったうえでだれかを傷めつけたときことを思い返す場合は、それほどつらくないものなのだ。

このことは、私が軍隊で情報部員として働いていたときの回想から、さらにはっきりとしてきた。
基本訓練を受けていたときの記憶が、数秒で駆け巡った。
その訓練で、自分の怒りを、新たな自分の役割である戦闘兵としての任務に仕向けることを学んだ。
特別訓練を思い返したときには、私の人格が殺人目的に向かって形成されていくさまを見て取った。
当時はベトナム戦争の時代だ。
気がつくと私は、東南アジアの蒸し暑いジャングルの中に舞いもどっており、もっとも得意とすることに従事していた――戦いだ。

私はベトナムにはほとんどいなかった。
ラオスとカンボジアでの活動が中心の情報部に配属されたからだ。
「偵察業務」も少しこなしていた。
これは、双眼鏡で敵の軍隊の動きを探るという作業に毛がはえた程度の仕事だった。
一方、私のおもな任務は、「敵の政治家と軍部の人間の除去を計画し、実行する」ことだった。
早い話が、暗殺だ。
一人で任務にあたっていたわけではない。
ジャングルをあさり歩き、特定の標的をさがしていくあいだ、二人の海兵隊員が同行していた。
その二人の仕事は、高性能の望遠鏡を使って、その標的を見分けることと、その目的の人物が確かに消し去られたかを確認することだった。
そして私の仕事は、引金を引くことだった。

たとえばあるとき、自軍とともにカンボジアのジャングルに潜む、北ベトナム軍大佐の「息の根を止める」よう、送り込まれたことがあった。
航空写真から、この大佐の隠れ場が突き止められた。
あとは私たちがジャングルを抜け、彼を見つけ出すだけだ。
この手の攻撃は、かなり長い時間がかかってしまうのだが、それでも部下たちの目の前でリーダーを殺すというのは、敵軍の士気を低下させるには、うってつけの方法だと考えられていた。

地図で確認していたとおりの場所で、その大佐を発見した。
私たちは、彼らのキャンプから640メートルほど離れた場所に、音も立てずに腰を下ろし、彼を「仕留める」のに最良の瞬間を待った。
その瞬間は、翌朝早くに訪れた。
隊が整列し、その日の行動の確認をしているときのことだった。
私は位置につき、高性能の狙撃ライフルの十字線を、大佐の頭に合わせた。
彼は、なにも知らない兵士たちの前に立っていた。
「あの男か?」と私は偵察役にきいた。
彼の仕事は、情報部から渡された写真をもとに、標的となる人物を確認することだった。
「やつだ」と彼は答えた。
「列の前に立ってる男がそうだ」
そこで私は引金を引き、ライフルの反動を体に受けた。
一瞬、間を置いてから、彼の頭が吹き飛び、ショックを受けた隊員たちの前に、その体ががっくりと倒れ込んだ。
当時、私が実際に目にした光景は、そういうものだった。

ところが回想のときは、私はその北ベトナム軍大佐の視点からこの事件を体験していた。
彼が受けたはずの体の痛みは感じなかったが、自分の頭が吹き飛ばされたときの彼の混乱と、体を離れ、もう二度と家には帰れないのだと気づいたときの悲しみを、感じ取ったのだ。
そして、感情の連鎖反応が起こった。
一家の働き手を失ったと知ったときの彼の家族の悲痛が伝わってきたのだ。

自分の手柄となった出来事が、すべてそういう具合いに再現されていった。
自分の殺人行為を目にするたびに、その恐ろしい結果を感じ取っていったのだ。
東南アジアにいるあいだ、女や子供たちの惨殺、村全体の破壊が、なんの理由もなく、あるいは間違った理由で行われていたのを、この目で見てきた。
そういった惨殺事件で私自身が直接手を下したことはなかったが、それでもやはり、そのときの出来事も再び経験していった。
しかも、加害者側の視点ではなく、被害者側の視点で。

たとえばあるとき、ベトナムとの国境あたりに派遣されたことがあった。
「アメリカの視点」に同調していなかったある政府の役人を暗殺するためだ。
この任務は、チームで行われた。
私たちの目的は、彼の滞在先である田舎の小さなホテルでその男を消し去ることだった。
成功すれば、どんな人間でもアメリカ合衆国の追っ手からは逃れられない、と暗に宣言する役割を果たす事件になるはずだった。

私たちはジャングルの中に四日間ほど腰を下ろし、その役人をねらい撃ちするチャンスをうかがった。
だが彼は、つねにボディーガードや秘書といった側近たちに取り囲まれていた。
たまりかねた私たちは、方針を変えることにした。
夜遅く、だれもが眠りについているときに爆弾を撃ち込み、ホテル自体を吹き飛ばそう、ということになったのだ。
私たちは、まさにそのとおり実行した。
明け方、プラスチック爆弾を構えてホテルを取り囲み、その役人を殺したうえに、ホテルのほかの滞在客約五十人ほどを巻添えにしたのだ。

当時、私はその一件を笑い飛ばしていた。
そして上司に、あの役人と行動をともにしていたんだから、死ぬのは当然の報いだ、と話していたのだ。

私は臨死体験中、この事件をもう一度繰り返して目にした。
だがそのとき、次々と押し寄せる感情と情報に、圧倒されてしまった。
死んだ人々が、自分たちの人生が突然断ち切られたことに気づいたとき、私は正真正銘の恐怖というものを感じ取ったのだ。

彼らの家族が、そのような悲劇的な事件で愛する人々を失ったと知ったとき感じた苦しみも伝わってきた。
多くの場合、彼らが消え去ったがために未来の世代がこうむった損失を感じることさえあった。

全体的に見て、私は東南アジアで数多くの死を引き起こしていた。
それを思い返すのは、とてもつらいことだった。
唯一の救いは、当時自分は正しいことをしているんだと考えていたという点だ。
愛国心という名のもとに、私は人を殺していた。
そのことで、恐怖感もいくぶんかはやわらいだのだ。

軍役を終え、アメリカにもどってきてからも、私は政府のための仕事を続けていた。
極秘の任務だった。
それはおもに、アメリカに友好的な人間や国々に、武器を輸送する仕事だった。
ときには、銃の撃ち方や爆破の仕方などの技術を指導するために、動員されることもあった。
人生を回想しているとき、自分の成し遂げた仕事の結果、世界中で殺人や破壊が行われたという現実を、いやでも目にしなければならなかった。

「私たち一人ひとりは、人類という大きな鎖の輪なのです」と光の存在が言った。
「あなたの行動は、その同じ鎖の中にあるほかの輪に影響を与えるのです」

そのことを示す例がたくさん脳裏によみがえったが、その中でも一つ、特に目を引くものがあった。
中米のある国で、武器の荷を下ろしている自分の姿が浮かび上がってきたときのことだ。
その武器は、アメリカの友好国とソ連とのあいだの戦争で使われる予定のものだった。
私の任務は、その武器を飛行機から当地のアメリカ軍部へと輸送することだけだった。
だから輸送が完了すると、私は飛行機にもどり、さっさと帰国した。

だが人生の回想の中では、そう簡単には立ち去れなかった。
私はその武器とともに当地に残り、それが部隊集結地に分配されるところを見守った。
それから、その中の銃を使って殺しが行われた現場までついていったのだ。
罪のない人々を殺すのに使われる銃もあれば、罪人を殺すために使われるものもあった。
だが全体として、その戦争における自分の役割が生み出した結果を目撃するのは、とにかく恐ろしいことだった。

この中米への武器輸送は、雷に打たれる前に私が関わった最後の仕事だった。
父親が殺されたと聞いて泣き叫ぶ子供たちの姿が見えた。
その父親の殺害に使われたのは、私が運んだ銃だったのだ。

そこで人生の回想は終わった。
人生を回想し終えると、今度はいま見たことを振り返り、反省し、結論を出すときになった。

私は、すっかり恥じ入っていた。
自分が送ってきた人生が、じつに利己的なもので、他人に救いの手を差し伸べることなどまずなかったという事実を思い知らされたのだ。
兄弟愛を示すほほえみを投げかけたり、落ちぶれ、ちょっとした手助けが必要な人間に、ほんの一ドル手渡すような行為さえ、ほとんどしたことがなかった。
そう、人生の中心は、自分だけだった。
自分独りのための人生だった。
まわりの人間のことなど、眼中になかったのだ。

光の存在を見つめた私は、悲痛と恥を深く感じていた。
非難は免れないと思った。
私の魂を打ち震わせるようなすさまじい非難を受けるだろう、と。
人生を振り返って目にした自分は、まったく価値のない人間だった。
非難以外、考えられない。

光の存在をじっと見つめていると、彼が私に触れているように感じた。
その接触から、私は愛と喜びを感じ取った。
それは、おじいさんが孫に与えるような、無条件の思いやりに等しいものだった。

「あなたという存在は、神がおつくりになる違いなのです」と光の存在が言った。
「そしてその違いとは、愛です」

私たちは実際に言葉を交わしたわけではない。
なにかテレパシーのようなものを通じて、私たちは会話していたのだ。
いまでも、このなぞめいた言葉の真意は分からないのだが、とにかく、そう告げられたのだ。

そしてもう一度、私は反省の時間を与えられた。
私は人にどれくらいの愛情を与えてきたか?
そして人からどれくらいの愛情を受け取ってきたか?

そのとき目にしたばかりの回想から考えると、善が1に対して、悪が20という割合だった。
罪を脂肪に変えれば、私の体重はゆうに200キロを越していたに違いない。
ところが光の存在が離れていくと、私はこの罪の重荷が取り除かれたような気分になった。
省みたことで確かに痛みや苦悶を感じたが、そのおかげで人生を正しく歩んでいくための知識が身についたのだ。
光の存在からのメッセージが、頭の中に響いた。
これも、テレパシーのようなものを通じて送られてきた。

「人類は、力ある霊的存在で、地上に善を創造するために生まれてきたのです。
善は、不遜な行為からは成し遂げられません。
人々のあいだで交わされるやさしさ一つひとつから、成し遂げられるものなのです。
小さなことが積み重ねられた結果なのです。
なぜなら、それは無意識の行為であり、あなたの真の姿を映し出してくれるからです」

私は元気づけられた。
人類を向上させる単純明快な秘訣が分かったのだ。つまり、

人が人生の終わりに得る愛情の深さと善意は、
人が人生の中で他の人に与えてきた愛情と善意に匹敵するということ。

じつに単純明快だ。
「それが分かれば、これから自分の人生をよりよいものにできるでしょう」
と私は光の存在に言った。

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