浄玻璃の鏡

浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)とは、
地獄を守護する閻魔が亡者の裁判で、亡者の善悪の見極めに使用する水晶製の鏡である。
この鏡には亡者の生前の一挙手一投足が映し出されるため、いかなる隠し事もできない。
また、これで映し出されるのは亡者自身の人生のみならず、その人生が他人にどんな影響を及ぼしたか、またその者のことを他人がどんな風に考えていたか、といったことまでがわかるともいう。
一説によればこの鏡は亡者を罰するためではなく、亡者に自分の罪を見せることで反省を促すためのものともいわれている。
         出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

――――

「死んで私が体験したこと―主の光に抱かれた至福の四時間」(ベティー・イーディー/著、鈴木秀子/訳、同朋舎出版)の中で著者は、天界での人生の再現(ライトレビュー)の模様を以下の様に描写している。

眼前で再現される私の人生は、精巧なホログラムのように、とんでもないスピードで進んでいきました。

人生にはさまざまな事件が起こるものですが、その一つひとつの事件について、自分が覚えていた事実よりも、もっと多くのことが理解できました。
そのときどきに感じた自分の気持ちを追体験しただけではありません。
そこにいた他の人達の気持ちも体験できたのです。
その場にいた人達が、私のことをどんなふうに考え、どんなふうに感じていたか、それを体験することができたのです。
このときの体験を通して、いろいろな出来事が、全く新しい姿で私の目に浮き彫りにされてきました。

「そうだったのか」
つい一人言が出てしまいます。
「なるほど。そういう訳だったのね。そんなこと、誰が考えられて?
でも、もういいの。よくわかったわ」

それから、私のせいで誰かが味わうことになった失意も見させられました。
失意のどん底に置かれた人の気持ちが伝わってきて、身の凍るような思いがします。

私の人生の全てのことに配慮がなされていました。
どんなふうに育てられたか、
どんなことを教えられたか、
人からどんな苦痛を味わわされたか、
人生でどんなチャンスが与えられたか、
またどんなチャンスが奪われたか・・・・

私が傷つけた人達が、今度は別の人を同じように傷つけている姿がありました。
この被害者の連鎖はドミノ倒しのように続いていって、また振り出しに戻ってきます。
最後のドミノは加害者である私自身だったのです。
ドミノの波は向こうへ行ったかと思うと、また戻ってきます。
思わぬ所で思わぬ人を私は苦しめていました。
心の痛みが耐えられぬほど大きくなっていきました。

ドミノ倒しの波及効果の裏返しの面も見せてくださいました。
そこには、なにか善いことをしている私の姿がありました。
善いことといっても、わがままを出さなかったという程度なのですが、それがドミノの波となって外へ広がっていきました。
私が優しくしてあげた友人が、今度はその友人に優しくしてあげる、
こんなふうに連鎖が続いていくのです。
まわりの人の人生は、愛と幸せがいや増すばかりです。
こうなったのも、私のちょっとした行いがあったからです。
みんなは、ますます幸せになっていきました。
幸せになったおかげで、人生の歩みも前向きで意義のあるものになっていきました。
私の心の痛みは、喜びに変わりました。
みんなが感じている愛を私も感じています。
みんなの喜びを私も感じています。
こんな素晴らしいことが、それもたった一度のちょっとした親切で・・・・

――――

ダニオン・ブリンクリーは、著書「未来からの生還」の中でライトレビューを、ベティー・イーディーの体験とほとんど同じふうに描写しています。

――――

ラムサは、ライトレビューに関して、

あなたがその肉の体から去ると、意識は光の体に入りレビュー(回顧)を行う。
畳み込まれていた生命という意識のエネルギーが解かれ、生きたスクリーンの上に映し出される。
何をしたのか?
誰であったのか?
何を達成したのか?
どう進化したのか?
約束の何を進化させなかったのか?
それはライトレビュー(光の回顧)と呼ばれる。

全ての行為が為される前には、思考が先行して創られる。
それをあなたは、実在として存在させたのだ。
あなたが自己の全てを振り返る、至福の天界でのライトレビュー(光の回顧)において、
あなたは、これらの実在の全てを再体験することになる。

あなたはその日、あなたの精神が行なった行動と思考の全てを回顧する。
それは、全てであって、人に隠れて行なったことも含まれる。
そしてライトレビューと呼ばれるこの審判は、あなた自身が、あなたが誰かに放った冷酷さ、傷つけたこと、誤った戒め、復讐、非難、怒り、そうしたこと全てになることで行なわれる。
その時、あなた自身がその全てになるのだ。
ライトレビューにおいては、あなたは分離していない。
一体なのだ。
我々みんなが生命の糸で結ばれていることを理解する瞬間である。

ライトレビューでは、行為を行なった者として、そして行為が行なわれた者として、あなたは自己を回顧する。
何故ならあなたは、行為を行なった者であるばかりか、行為が行なわれた者であるからだ。
あなたは、すべてが一体であることを理解するのだ。
自己とは、それほど大きなものなのだ。

あなたは、ライトレビューにおいて、もうひとつの偉大な真実を悟る。
他者を、分離した存在と見なして行なう行為は、「全てがひとつである」という偉大な真理の力(ちから)を、分散させてしまうというという真理である。
それは、神の力(ちから)を分散させてしまう、ということである。
このことは、つまり、自己と他者を一体と見なして行なう行為は、神の力(ちから)をひとつにまとめる、という真理に気付くということである。

と述べています。

――――

閻魔大王の宮殿には光明院という建物があり、そこのは9つの大きな水晶の鏡があります。
世に言う、浄玻璃の鏡です。(浄玻璃とは水晶の意)
この鏡には、悪い行い、ついた嘘もしくは、心に描いた悪い思い、その一つ一つが、映されていきます。

生前もっていた肉の目には他人のことは、よく見えても、肝心の自分自身の姿は、鏡にでも映さないと、見ることさえ出来ません。

生きているときには、気付くことが出来なかった自らの恥ずべき行いに、目を背けたくても、鬼たちは、死者の首をつかみ、悪しざまに罵りながら
鏡を指差して、「それ見よ!、それ見よ!」と、死者を責めたてます。

思い出したくもない、見たくも無い風景を、この鏡は、次々に映し出します。

激しい怒りをもって閻魔大王は死者に言います。
お前は、何度となく、ここにやってきては「今度生まれ変わったら、今度こそ、今度こそ、心を入れ替えてきちんと生きて、徳を積んで二度と、二度とこのようなところには参りません。」と誓う。
そうして、おまえは奇跡的にも、人間に生れ、しかも、仏の教えが伝わった国に生まれたというのに善行は積まずに、悪業ばかり増やしてまた帰ってきた。
わしは、何もお前が憎くてこのような苦しみを与えているのではない。
これらはすべて、お前が生前にまいた因果の報いなのだ。
残念なことだが、因果の業は、恐ろしいばかりに深い。
地獄に行き、その罪を償って来い。

死者は、鬼に引きずられながら地獄の手前(金輪の際)まで連れて行かれます。
そこからは、今までの責め苦なぞ、比べ物にならないこの世では、絵にもかけない、誰も語れないような酷烈な地獄の風景が展開されています。

死者は、その恐ろしさに金輪の際で、叫ぶように懇願します。
「もう悪いことはしません! 御慈悲です! 地獄に落とさないで!」

さてここで、遺した妻、もしくは夫、その子供、友人たちが追善のために、法要を行っていればその風景もまた、先ほどの浄玻璃の鏡に映ります。

閻魔大王はいいます。
お前を想って、下界で手を合わせ、追善している者達がいる。
この者に免じて、地獄行きは許してやろう。

死者は遺した家族や友人への感謝の想いから、血の涙を流すといいます。

この追善とその溢れる感謝の想いから、たいがいの死者は、この五・七日(いわゆる35日)で成仏するそうです。

それでもなお、次の生まれる所が定まらなければ六・七日の王に渡され、さしたる追善も無ければ、地獄に堕ちるということです。

この説法の本意は、「感謝の生活を送りなさいよ」と言っているものと考えます。

――――

浄玻璃(じょうはり)の鏡って、「ジョハリの窓」と音(おん)が似てますネ。
浄玻璃の鏡 は、ジョハリの4つの全ての窓を曝(さら)け出すんでしょうね。

ドン・ガバチョのトップへ

inserted by FC2 system