男たちだけの委員会

「死んで私が体験したこと―主の光に抱かれた至福の四時間」
(ベティー・イーディー/著、鈴木秀子/訳、同朋舎出版)


ネイティブアメリカンの女性・ベティー・イーディーが31歳の時に受けた外科手術の際に体験した死の向こう側。

そこは、希望、愛、光…に溢れていた。
死後の世界は、彼女に大きな生きる力を与えてくれた。




 

 



――――
男たちだけの委員会

案内の二人は私を大きな建物へ連れていってくれました。
中に入ったとたん、ハッと息を飲みました。
手の込んだ装飾が何とも見事な造形美を造りあげています。
完壁な建物です。
直線、角度、細部の装飾、全てが建物全体と完全に調和して、一体感と必然性を醸(かも)し出しています。
その造作と装飾の全てが一級品の芸術でした。
案内された部屋も実に見事な造りです。

中に入ると、いんげん豆の形をした机の両側に男の人達が座っていました。
その人達の前に連れて行かれた私は、机の窪んだ所に立つように言われました。
そのとき、ひとつのことが急に気になりました。
そこには十二人の人がいたのですが、全く女性抜きの男性ばかりだったのです。

母親になりたかったエバ

この世で女性の自立論にかなり肩入れしていた私は、世の中の女性の役割にはとても敏感な人間でした。
機会均等や公正な処遇といったことが気に掛かっていましたし、女性の能力という問題については、どんな状況でも男性に負けやしないという強硬意見の持ち主だったのです。
昔の私だったら、女性抜きで男性ばかりの、こんな会議のテーブルにつかされたら、きっと不愉快な素振りを見せていた筈(はず)です。

しかし、このときの私は、男女の役割分担についてそれまでとは違った考え方を身につけていました。
こんな風に考えられるようになったのは、天地創造の場面を見せてもらってからのことでした。
あのとき、アダムとエバの違いが解ったのです。

アダムはエデンの園の生活が気に入っていましたが、エバは腰がすわっていませんでした。
子供が欲しくて仕様が無かったエバは、母親になるためには死をも辞さぬ覚悟でした。
エバは誘惑に「負けた」のではありません。
そうではなくて、母親になりたかったエバは自分に必要な状況を創り出そうと意識的な決断を下したのです。

そしてエバがアダムを誘って、ついにはアダムにも木の実を食べさせてしまいました。
アダムとエバが木の実を食べてしまったので、人類に死が入ってきました。
その結果、人間は子供を産めるようにはなりましたが、同時に死から逃れられなくなってしまったのです。
(「生」が在れば、「死」が在る)

神の霊がエバの上で休んでいます。
女性にはいつの時代にも特別な役割が与えられています。
感情的に創られている女性は、愛に敏感に反応するので、神の霊を宿し易くなっているのです。
それに母親という役割が、「創造主としての神」と一種特別な関係を造りだしています。

サタンは女性に攻撃を仕掛けてくる

また、女性が直面する危険は、サタンから来ていることも解りました。
エデンの園のときと全く同じ誘惑の手口を、サタンはこの世でも使っています。
サタンは女性を誘惑して、家族を破滅に誘い、人間性を打ち砕こうと必死になっています。
心が塞(ふさ)ぎますが、ともかくそれが真実です。

サタンの計画はいかにも単純です。
サタンは女性の不安定さを突破口に攻撃を仕掛けてきます。
そして、女性の感情の力を巧妙に利用して来ます。
その女性の感情はエバの場合と全く同じです。
現状に満足し切っていたアダムの心を動かしてしまうほどの力をエバに与えたあの感情です。

サタンは夫婦の関係に攻撃を仕掛けてきます。
夫婦を引き離して、セックスや欲望といったエサで家庭を破滅に向かわせていきます。
家庭が崩壊すれば、子供たちもダメになります。
そして妻たちは恐怖感と罪意識から、必ず打ちひしがれるようになります。
家族をバラバラにしてしまった罪意識、そして将来への恐怖感。
サタンはこの恐怖感と罪意識を巧みに利用して、女性を破滅に向かわせ、この世で女性に約束されていた神聖な目的を崩壊させてしまいます。

女が一旦サタンの手に落ちてしまえば、男を落とすのは赤子の手をひねるよりも簡単です。
こうして、男と女の役割の違いが私にも解るようになりました。
男女の役割は、それぞれ必要で、はじめから整然と分かれていたのです。

あなたはこの世に帰っていただきます

こうした新しい考え方に変えられていた私は、委員会のメンバーが男性だけだったとしても、それには反発は感じませんでした。
男には男の役割があって、私には私の役割があるという事実をありのままに受け入れていたからです。
その人達からは私への愛が降り注がれています。
その人達と同席しているだけで、心の安らぎを覚えます。
委員会のメンバーは額を寄せてなにやら相談を始めました。
しばらくして、中の一人が私に話し掛けて来ました。
「ときがまだ来ないうちに死んでしまったのですから、あなたはこの世に帰っていただきます」
口々にこんなことを言っていました。
この世にどうしても帰っていただきます、
あちらにまだやらななければならない使命が残っています

でも、私は厭でした。
だって、ここが私の家なのに。
誰が何と言おうと、ここを出るように私を納得させることはできやしないと思いました。
委員会のメンバーはふたたび協議をすると、今度は、
あなたは自分の人生を振りかえってみたくはありませんか
と、開いてきました。

それは、まるで命令のような質問でした。
私はためらいを覚えました。
こんなにも愛に溢れた清らかな場所で、自分のはかない過去を振りかえるなんて、なんだか場ちがいのような気がしたからです。

あなたにはとても重要なことなのです、
委員会の人達がそう言うので、言われたとおりにすることにしました。
一条の光が片隅から射してきました。
救い主の愛が私のすぐそばに感じられます。

私の人生の再現(ライトレビュー)

私は左に寄って、自分の人生の再現を見つめることになりました。
さっきまで立っていた所で、全てが始まりました。
眼前で再現される私の人生は、精巧なホログラムのように、とんでもないスピードで進んでいきました。

あんなにものすごいスピードで進んでいながら、ほとんどの内容が理解できたのには、我ながら驚きました。
人生にはさまざまな事件が起こるものですが、その一つひとつの事件について、自分が覚えていた事実よりも、もっと多くのことが理解できました。
そのときどきに感じた自分の気持ちを追体験しただけではありません。
そこにいた他の人達の気持ちも体験できたのです。
その場にいた人達が、私のことをどんなふうに考え、どんなふうに感じていたか、それを体験することができたのです。
このときの体験を通して、いろいろな出来事が、全く新しい姿で私の目に浮き彫りにされてきました。

「そうだったのか」
つい一人言が出てしまいます。
「なるほど。そういう訳だったのね。そんなこと、誰が考えられて?
でも、もういいの。よくわかったわ」

それから、私のせいで誰かが味わうことになった失意も見させられました。
失意のどん底に置かれた人の気持ちが伝わってきて、身の凍るような思いがします。
そこに罪意識が重なっていきます。
私はどんなに人を苦しめてきたことでしょう。
その人達の苦しみを肌で感じました。
身体がわなないてきます。
私の悪い性質がどれほどの悲しみをつくりだしていたかがわかりました。
その悲しみを思うと、つらくなります。
本当に私はわがままでした。
私の心は、大声で救いを求めています。
なんと思い遣りのない私だったのでしょう。

苦しみのただなかにいた私は、委員会の人達の愛が自分の身に降り注がれているように感じました。
その委員会の全員が私の人生を思い遣りと憐れみの目で見てくれていたのです。

私の人生の全てのことに配慮がなされていました。
どんなふうに育てられたか、
どんなことを教えられたか、
人からどんな苦痛を味わわされたか、
人生でどんなチャンスが与えられたか、
またどんなチャンスが奪われたか・・・・

この委員会は私のことを裁いていたのではありません。
私が自分で自分自身のことを裁いていたのです。
委員会のメンバーの愛と思い遣りは、揺るぎのないものでした。
あの人達の私への敬意が弱まるようなことは決してありません。

委員会の人達の愛がなおのこと有り難く思われたのは、目の前の私の人生が新しい場面に切り変わったときでした。

思わぬ所でほかの人を傷つけていた私

それは、委員会が「波及効果」と呼んでいた場面です。
そこには、人を傷つけてばかりいた私の姿がありました。
そして私が傷つけた人達が、今度は別の人を同じように傷つけている姿がありました。
この被害者の連鎖はドミノ倒しのように続いていって、また振り出しに戻ってきます。
最後のドミノは加害者である私自身だったのです。
ドミノの波は向こうへ行ったかと思うと、また戻ってきます。
思わぬ所で思わぬ人を私は苦しめていました。
心の痛みが耐えられぬほど大きくなっていきました。

救い主が私に歩み寄って来てくださいました。
私のことを心から心配して愛しておられたのです。
主の霊が私を力づけてくれました。
そして、私は自分を厳しく裁きすぎているのだと言われました。
「あなたは自分に厳しすぎる」
そう言われたのです。

そのあとで、さっきの波及効果の裏返しの面を見せてくださいました。
そこには、なにか善いことをしている私の姿がありました。
善いことといっても、わがままを出さなかったという程度なのですが、それがドミノの波となって外へ広がっていきました。
私が優しくしてあげた友人が、今度はその友人に優しくしてあげる、
こんなふうに連鎖が続いていくのです。
まわりの人の人生は、愛と幸せがいや増すばかりです。
こうなったのも、私のちょっとした行いがあったからです。
みんなは、ますます幸せになっていきました。
幸せになったおかげで、人生の歩みも前向きで意義のあるものになっていきました。
私の心の痛みは、喜びに変わりました。
みんなが感じている愛を私も感じています。
みんなの喜びを私も感じています。
こんな素晴らしいことが、それもたった一度のちょっとした親切で・・・・

力のある言葉が浮かんできました。
心のなかでそれを何度も繰り返してみました。
「いちばん大切なもの、それは愛。
いちばん大切なもの、それは愛。
そして愛は喜び」
次の聖書のみ言葉も思い出しました。
「私が来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」(ヨハネ十章十節)

私の魂は豊かな喜びに満たされていました。
喜びが解るようになるには、悲しみを知らなければいけません

全てが、いかにも単純でした。
優しくしてあげれば、喜びが向こうからやってくる、ただそれだけなのです。
そんな私に、こんな疑問が湧いてきました。
「どうしていままでこんなことが解らなかったのかしら」

イエスさまがお答えになったのか、さっきの委員の人が答えてくれたのか、よくはわかりませんが、その回答は私の胸に探く突き刺さりました。
魂の奥底にまで触れたその言葉は、苦難や敵意についての解釈を根本的に変えてしまうものでした。
その答えとは、こういうものでした。

「あなたがたは、この世にあっては、暗い体験も明るい体験もどちらも必要だったのです。
喜びが解るようになるには、悲しみを知らなければいけません」

私が体験してきた全てのことが、今まさに新しい意味を持ってきました。
これまでの人生で、本当に取り返しのつかない過ちなど、なにひとつなかったのです。
一つひとつの体験が私を成長させてくれる材料になっていました。
一つひとつの不幸な体験を通して、私は自分自身のことがはっきり見えるようになりました。
その結果、こうした不幸な体験からやっと解放されることができました。
また、隣人を助ける力が自分についてきていることも解りました。

自分の体験したことでも、その多くは守護天使の手で導かれていました。
悲しい体験もあれば、楽しい体験もあります。
どちらにしても、私をもっと高いレベルの知識にたどり着かせるために、あらゆる体験が計画されていたのです。
苦しんでいた私のそばには、いつも守護天使がいて、あらゆる手をつくして助けてくれていました。
そのときの必要に応じて、守護天使の数はたくさんだったり、ほんの数人だったりします。
自分の人生を振りかえっているうちに、同じ過ちを何度となく繰り返していた自分に気付かされました。

イヤというほど同じ悪事を繰り返さなければ、結局の所、私には真理など何も解らなかったことでしょう。
しかし、いったんその真理に気が付きさえすれば、大きな飛躍に通ずる門があちこちに開かれてくるのです。
門は本当に開かれています。
自分の力でやったと思っていることも、たいがいは神から助けの手が伸べられていたのです。

罪を許されて、成長していく

ここで、私の人生の舞台は暗い体験の場面から本格的な明るい体験の場面に変わりました。
自分を計る尺度が変わっていたので、私はさまざまな角度から自分の罪や欠点を光に照らしてみました。
たしかにこうした罪や欠点は、誰にとっても面白くないものなのですが、私には、真理を学んだり、自分の考え方や行いを修正していくための道具になりました。

許された罪は忘れ去られています。
新しい知識と新しい生き方が、罪を覆い隠してくれるのです。
この新しい知識を知ってから、私は罪が自然に捨てられるようになりました。
ただし罪そのものは忘れ去られるとしても、罪を体験するという教育的な面はやはり残っています。
このように許された罪が私の成長を促し、隣人を助ける力を強めているのです。

この新しい知識は、自分を完全に許すために必要な座標軸を与えてくれました。
自分を許すということが、全てを許すことの出発点だったのです。
自分のことが許せない人には、隣人を心から許すことができません。
私は隣人を許してあげなければならなかったのです。

自分が与えたものを、自分が受け取ることになります。
自分のことを許して欲しければ、まず相手のことを許さなければいけません。
私は、相手のしたことに目くじらをたてたり、許したりできないと思ってしまうたちの人間です。
所が自分だって同じことをやりかねないし、現にやっているかもしれません。
隣人のしたことで自分の弱さが暴かれてしまうのではないかと、私はビクビクしていました。
ひょっとしたら自分の潜在的な弱さにビクビクしていたのかもしれません。

この世のものにこだわっていると、とんでもない害毒が及んできます。
成長は全て霊的なものだからです。
物欲やむさぼりといったこの世的な欲望にとらわれていると、霊が窒息してしまいます。
この世の欲望を神として崇めると、私たちは肉に縛られるようになります。
そして、まことの神が望んでおられる成長と喜びを、私たちは自由に体験できなくなってしまうのです。

今度は言葉ではなしに、私に与えられた英知がこんなことを語りかけてきました。
人生で最も大切なことは、自分と同じように隣人を愛することだというのです。
所が、自分と同じように隣人を愛するには、まず自分自身を心から愛さなければいけません。

私の中にはキリストの美しさと光があります。
主はそれをご存じです。
今度は、私が自分の内側を覗いて、それを探さなければなりません。
命令でも受けたかのように、自分の内側を覗いてみました。
すると、もともと自分の魂に備わっていた優美さを、私が自分で抑えつけていたことが解りました。
昔のような美しい輝きを、もう一度取り返さなければいけません。

イエスさまが教えてくれたこの世の私の使命

人生の再現(ライトレビュー)はこれで終わりました。
委員会のメンバーは黙って席についています。
その人達からは、私への揺るがぬ愛が送られています。
そこには、光に包まれた救い主がおられて、笑みを浮かべながら私の成長ぶりを喜んでおられました。

委員会のメンバーはふたたび協議を始めると、私の方に向き直って、こう言いました。
「あなたはこの世での自分の使命をまだ果たしていません。
この世に帰ってもらう必要があります。
でも、私たちには強制はできません。
選択するのはあなたです」

ためらわずに、私は答えました。
「いいえ、イヤです。帰るなんて、とんでもありません。
私はここの人間です。ここが私の家なんです」
断固とした態度を示しながら、私はテコでも動くものかと思っていました。

委員の一人が、こちらも断固とした口調で言ってきました。
「あなたの仕事はまだ終わっていません。帰ってもらうしかないのです」
ぜったいに帰りたくなんかありませんでした。
子供のころ身につけた「けんか」の必勝法を、次から次に試してみました。
床に身を投げ出して、大声で叫びました。
「帰るのなんか、いやだ」
悲しそうな声で泣いてもみました。
「誰が釆たって、帰ってなんかあげるもんですか。
ずっとここにいるんだから。私のこの世の人生はもう終わったのよ」

ほど遠からぬ所に、イエスさまの姿が見えました。
私の右手の方の、きらきら輝いた光のなかにおられます。
こちらに向かって来られます。
私のことを心配しておられるようです。
でも、その心配のなかにはなにか楽しんでいる気配が見え隠れしています。
私が機嫌を悪くしているのはご存じでしたが、それでもイエスさまは私のことを喜んでおられます。
ここにずっといたいという私の願いも、ご存じのようでした。

私が床から立ちあがると、イエスさまは委員会のメンバーにこう言われました。
「この人に自分の使命を教えてあげなさい」
それからイエスさまは私の方を向いて、こう言われました。
「自分ではっきり決められるように、あなたの使命を教えてあげよう。
そのあとは、自分で決断するのだ。
この世の人生に戻ったら、あなたの使命も、ここであなたが教わったことも、全て記憶から消えてしまうことになる」
しぶしぶ、私は自分の使命を教えてもらうことにしました。

この世に戻る準備

教えてもらった手前、私はこの世の生活に戻らざるをえなくなりました。
光と愛に溢れたこの栄光の世界を捨てて、労苦と不安の世界に戻っていくのは気が進まなかったのですが、使命のあまりの重大さに、帰らないというわけにはいかなくなりました。
でもすぐに、その場にいた全員の人が約束をしてくれました。
イエスさまも約束してくださいました。
その使命を果たししだい、即刻、このふるさとに連れ戻してくれるという約束を私は取りつけたのです。
一分だって必要以上の時間をこの世で過ごしたくなんかありません。
ここが私のふるさとだからです。

全員が私の条件に賛成してくれました。
私がこの世に戻る準備がはじまりました。
救い主がこちらに来られて、私の決断を嬉しく思うと声をかけてくださいました。
そして、この世に戻ったら、ここで自分の使命について教わったことはなにひとつ思い出せないのだということをもう一度話してくださいました。
「この世にいる間、自分の使命はなにかということにこだわっていてはいけない。
そのときがくれば、必ず成就されるのだから」

「さすがに私のことをよくご存じなのね」、私はそう思いました。
もしも私がこの世で自分の使命を覚えていたりしたら、きっと「やっつけ」仕事でもかたづけるように、たちどころに、しかも適当に済ませてしまうはずだったからです。
全てが救い主の言葉どおりでした。
私の使命はその詳細が記憶から消されてしまいました。
それをにおわすような痕跡すら残っていなかったのです。
不思議なことに、その使命にこだわるような気持ちも起こりませんでした。
使命を果たししだい、私を連れ戻してくださるという主の約束がありましたが、その約束について主が最後に語られた言葉は、いまでも耳に残っています。
「この世に残された日数は少ない。長くは向こうにはおれない。あなたはこちらに帰ってくる」

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