祈り

「死んで私が体験したこと―主の光に抱かれた至福の四時間」
(ベティー・イーディー/著、鈴木秀子/訳、同朋舎出版)


ネイティブアメリカンの女性・ベティー・イーディーが31歳の時に受けた外科手術の際に体験した死の向こう側。

そこは、希望、愛、光…に溢れていた。
死後の世界は、彼女に大きな生きる力を与えてくれた。




 

 



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祈り

再び天が巻き戻ると、宇宙を回転している地球の姿が見えて来ました。
その地球からは光の帯がいく筋も伸びて、まるでサーチライトが照らしている様に見えます。
幅の広い光線が何本か、レーザー光線の様に天に太く刺さっています。
ペン・ライトの様な細い光線もあれば、線香花火がチカチカしているだけの様なものもあります。

この強力な光線は、地球に住む人の祈りだと聞かされて、いささか驚きました。
その祈りに応えるために、天使たちがあちこち走りまわっています。
できるだけ救いの手を差し伸べてあげようと、天使は統制のとれた動きをしています。
組織的に立ち働いている天使たちは、文字通り、人から人へ、祈りから祈りへと飛び回っています。

その働きによって、天使は愛と喜びに満たされるのです。
天使たちは大いに喜んで私達を助けています。
でも、天使がいちばん喜びを感ずるのは、
「祈りは直ちに応えられる」と信ずる真剣な祈り人に出会ったときなのです。

明るく輝いた太い祈りがまず最初に聞かれ、それから一つひとつの祈りが順番に聞き入れられて、全ての祈りが応えられていきます。
でも、誠意のない習慣的な祈りは、光が出ていてもほとんど見えないことに気が付きました。
力が無いので、こうした祈りはほとんど聞かれません。

願いの祈りは全て聞き入れられて応えられる。
はっきり私はそう聞かされました。
困難の中にあるときや、隣人のために祈るときは、光線が私達からまっすぐ射しているので、誰の目にもすぐ解ります。

また、母親が自分の子供のために祈る祈りほど力強い祈りは無いということです。
子を思う母の祈りは最も純粋な祈りです。
その祈りには、強烈な願いと死にものぐるいの思いが込められているからです。
母親には、全てを子供に捧げ、神の前で子供のために力の限り哀願する能力が備わっています。

母親でなくとも、私達は誰にでも祈りによって神に近づく能力が備わっています。
願いの祈りをひとたび口から出してしまえば、あとは祈りに全てを委ね、その祈りに応えてくださる神の力を信頼するだけで良いのです。
神は私達の必要をいつもご存じで、私達の方から助けを求めて来るのをただひたすら待っておられます。

神は全ての力を働かせて祈りに応えてくださる方ですが、ご自身の法則と私達の意志という二つのものから制約を受けておられます。
神の御心が私達のものとなる様に、呼び求めねばなりません。
そして、神を信頼しなければなりません。
何も疑わずに、真剣な願いをもって祈れば、私達は受け取ることができるのです。

隣人のための祈りには大きな力が有りますが、相手の自由な意志をそこなう祈りや、相手の望みを打ち砕く様な祈りは聞き届けられません。

神は、私達に自由意志をお与えになられたのですが、それでもあらゆる手をつくして私達を助け様としておられます。
友人が信仰的に落ちこんでいたら、私達の霊の力でその友人を文字通り持ち上げることができます。
友人が病気なら、私達の信仰による祈りがしばしばその友人に回復の力を与えることになります。
ただし、その病が信仰の成長に必要な体験となっているときは、また話がちがいます。
まもなく召されそうな友人がいたら、神の御心だけが成就する様に、と祈ることが大切です。
さもないと、せっかく天国に召されかけている友人の目的を混乱させて、邪魔をすることにもなりかねないからです。
隣人を助けてあげる手だては、無限といってもよいほどたくさんあります。
家族や友人の様な隣人に対しては、それこそ考えられないほどたくさんの善いことをしてあげることができます。

神を信頼して感謝できれば祝福がいただける、こんなことはいかにも簡単ではないかと、私はタカをくくっていました。
特に始めのうちは、これでは簡単すぎると思っていたのです。
ずっと昔から、私は、祈りは何時間も続く訓練の様なものだと考えていたからです。
主にうるさくせがむべきだと考えていたものですから、ともかく何かが起こるまでは、せがみ続けようと思っていました。

私の祈りには自分の流儀がありました。
まず、欲しいもののおねだりから始めます。
それから、献金を片手にして、私を助けることが主にとって最善だということをほのめかします。
そして、それがダメだとわかると、今度は商談に入ります。
それらしい従順さや奉仕をちらつかせて、主から祝福をかすめ取ろうという算段でした。
それからヤケになって、物乞いを始めるのですが、どれもこれもうまく行かないと、癇癪(かんしゃく)を起こしたりしたものです。
この流儀では、願ったものよりも、はるかに少ない応えしか私の祈りには返ってきませんでした。

今になってみると、そうした私の祈りは疑いの気持ちを表明していただけだったということが良く解ります。
こうした駆け引きをする様になったのは、神は私の祈りに喜んで応えてくださる方だということを私が信頼せず、ただ自分の欲求だけをひたすら追い求めていたからです。
神は果たして公正な方で、本当に何でもできる方なのだろうかと疑ってもいました。
私の言うことを開いてくださっているのかどうかも、確信がありませんでした。
こうした疑いの気持ちが、私と神の間に障壁を作りあげていたのです。

神は私達の祈りを開いてくださる方であるばかりか、私達に必要なものを私達よりも先に知っておられる方だということが、いまやっと解りました。
神とその天使達は大いに喜んで私達の祈りに応えているのです。
神と天使にとっては、私達の祈りに応えることが喜びだったのです。

しかし神には、私達には伺い知ることのできない優位性があります。
神は、私達の永遠にわたる過去と未来の全てをご存知で、私達にとって永遠に必要なことも承知しておられるのです。
神はその大いなる愛の中で全てをご存知で、永遠に渡るご自身のご計画に従って、私達の祈りに応えてくださっているのです。

神は、全ての祈りに完壁に応えてくださる方です。
もしかしたら神はご存じでは無いかもしれない、などと思って自分の願いをしつこく繰り返す必要は全くありません。
信頼と忍耐、必要なのはそれだけです。
神は私達に自由意志をくださっているのですが、私達が神を呼び求める様になれば、私達の人生のなかに神の御心が働かれる様になります。

私達が授かっているものについて、神に感謝することが、どんなに大切なことかも良く解りました。
感謝の気持ちは永遠の美徳です。
へりくだってお願いして、感謝して受け取らなければいけません。
いただいた恵みを神に感謝すればするほど、さらに多くの恵みをいただける道が開かれてきます。

神はともかく私達を祝福したいと願っておられます。
私達が自分の心を開いて神の祝福に預かろうと思えば、私達も溢れるばかりの祝福で満たされる様になります。

神は生きておられます。
私達も天使の様に、困っている人を助けてあげることができるのです。
祈りと感謝があれば、私達の光はいつまでも輝いています。

感謝こそ、思い遣りと愛の火を灯した私達のランプの油なのです。

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