酔いつぶれた男(ランナー)

「死んで私が体験したこと―主の光に抱かれた至福の四時間」
(ベティー・イーディー/著、鈴木秀子/訳、同朋舎出版)


ネイティブアメリカンの女性・ベティー・イーディーが31歳の時に受けた外科手術の際に体験した死の向こう側。

そこは、希望、愛、光…に溢れていた。
死後の世界は、彼女に大きな生きる力を与えてくれた。




 

 


――――
酔いつぶれた男

この世に行くのは、学校を選んだり専攻科目を選択するのによく似ています。
霊的な成長の程度(霊性)は人それぞれなので、私達は自分に最も相応(ふさわ)しいこの世の環境にやって来ます。

他人の失敗や欠点を裁いたその舌の根も乾かぬうちに、私達は似たような自分の欠点をさらけだしてしまいますが、
そもそも、人を正しく裁く事のできる様な知識は、私達にはこの世では与えられていません。

このことを具体的に説明するかのように、天が巻き戻されると、再び地球の姿が見えてきました。
今度は、大都会の街角にピントが合わされています。

一人の酔いつぶれた男がビルの一角の歩道で前後不覚に寝ています。
案内役の一人が「何か見えますか?」と訊ねてきました。
「何って、ただ酔っ払いの浮浪者が自分のねぐらで寝ているのしか見えません」
そう答えながらも、なぜこんな光景を見せられるのか、いぶかしく思っていました。

案内役たちは色めきたって、こう言いました。
「さあ、それでは、この人の本当の姿をお見せしましょう」
その人の霊が現われて来ました。
そこには光に溢れた偉大な人の姿がありました。
愛がその人からにじみ出ています。
天国でみんなの尊敬を一身に集めている人でした。
この偉大な人は、霊的に結ばれた自分の友を救うために、その友人の導き手としてこの世にやってきたのです。

偉大な霊の友人は有名な弁護士で、この街角から数ブロック先に事務所を構えていました。
酔っ払いの方は友人との約束など全く記憶から失っていたのですが、実は「隣人の苦しみ」にその弁護士の目を向けさせるのが酔っ払いの目的だったのです。

友人の弁護士はそもそも人情味に溢れる人だったのですが、酔っ払いの姿を見せれば、それが刺激になって、「自分の助けを必要としている人たちにもっと何かしてあげられないか」と、思う様になる筈(はず)です。

この二人はいつか必ず顔を合わせることになります。
顔さえ合わせれば、弁護士は酔っ払いの霊に気付きます。
酔っ払いの中にもう一人の男がいることが解ります。
そして、弁護士はさらに善いことに励んでいく様になる訳です。
かつて合意したこの世での役割を、今の二人は知る由(よし)もありません。
それでも、二人の使命は必ず成就されます。

偉大な霊は、この世での自分のときを、酔っ払いとして隣人のために捧げました。
弁護士はこれからも成長を続けて行きます。
その成長に必要な材料は、そのときが交わしてきまし来れば与えられます。

会う前から知り合いだった様に思える人との出会いが、これまでにも確かに何度かありました。
一目見たときから、親しみを感じて、何か初めてではない様な気がする人がいるものです。
どうしてそんな気がするのか、私には解りませんでした。
でも今では、何かの理由があって、その人たちが私の人生の中に現れて来たのだと解ります。
そういう人は常に私と特別の関係を持つ様になりました。

考えごとから引き戻された私に、再び案内をしている人がこんな言葉を掛けて来ました。
「あなたはまだ純粋な知識に欠けているので、他人を批判する資格はありません」
あの酔っ払いの傍(かたわ)らを通り過ぎる人達は、酔っ払いの内面の高貴な霊には気が付かずに、その見てくれで人間を判断していました。

確かに、人を見かけで判断するということなら私も同罪です。
密(ひそ)かに人のことを財産や目に見える力で判断していたからです。
私は間違っていたのです。
人のいのちとはどんなものか考えてみたこともありません。
さらに悪いことには、人の霊とはどんなものか、私は一度も考えてみたことがなかったのです。

こんな考えが湧いてきました。
「貧しい人達は、いつもあなた方と一緒にいます。
それで、あなた方がしたいときは、いつでも彼らに善いことをしてやれます」

この聖書のみことばを思い出すたびに、頭がこんがらがってしまいます。
どうして、貧しい人たちが現に私達といっしょにいるのだろう。
どうして主は全てのものをお与えにならないのだろう。
どうして主は、あの弁護士に財産を隣人に分けさせようとなさらないのだろうか。

(それでは、みんなの成長にならない。)

私の考えごとが再び案内役のことばで中断されました。
「あなた方の間を歩んでいる天使がいます。
でも、あなた方はその天使に気が付きません」
何のことだか、訳が解りません。

案内役の霊が、私にも理解できる様に力を貸してくれました。
私達人間には欠けたものがあります。
貧しいのは、何も貧乏人だけではありません。
私達は『お互いに助け合おう』という約束を霊の世界で交わして来ました。
しかし、はるか昔に交わされたその約束が今も実現されないままになっています。
そこで、主は天使を遣(つか)わされて、私達がその約束を忠実に果たすよう催促しておられるのです。
主は私達を無理強いなさる方ではありません。
でも、催促はなさる方です。
私達には、誰がその天使なのか見分けがつきません。
そのあたりにいる誰かが、そうなのかもしれません。
私達の気付かないときにも、見えない天使は私達のそばにいます。

私達の力は、隣人への思い遣りの中に見い出されます

非難された訳ではありませんが、この世で主が「私達の成長」を助けてくださっているという事実を私は完全に誤解していたのです。

(それでは、みんなの成長にならない。)

誤解して、軽視していました。
主はお与えになることのできる「成長のための助け」の全てを、私達の個性や自由意志を損(そこ)なうなうこと無く、私達にくださろうとしておられます。

私達は、お互いに心から助け合わなければなりません。
貧乏人にも金持ちにも、同じ尊敬の念をもって心から接するようにしなければなりません。
そして、すべての隣人を、その人が自分とは違った種類の人間であっても、心から受け入れてあげなければいけません。
全ての人が愛と親切に値するからです。

隣人のことで心を狭めたり、腹を立てたり、「もう、うんざりだ」なんて思う権利は私達にはありません。
心の中で隣人を見下したり、非難したりする権利もありません。

私達がこの世の人生から天上界へ何か持っていけるものがあるとしたら、それは隣人のためにしてあげた善い行い、ただそれだけです。

すべての善い行いと親切な言葉は、この世の人生が終われば、今度はその何倍にもなって私達を祝福してくれるのだと解りました。

私達の力は、隣人への思い遣りのなかに見いだされるのです。

案内をしている人も私も、しばらく口を閉ざしていました。
あの酔いつぶれた男は、もう目の届かないところに行ってしまいました。

私の魂は思い遣りと愛とで満たされています。
あの酔っ払いが友を助ける様に、どうか私も隣人を助けることができますように。
生きている間に、どうか私が隣人にとって恵みとなることができますように。

私達の力は、隣人への思い遣りのなかに見い出されるのです。

――――

私たちは、酔いつぶれた男に常に出会っています。
彼は、至福の天界で私たちと同意を交わしたランナーです。

ラムサの言葉です。
「今、あなたにランナーを送ろう。
私はあなたの現実化、真実の成就のためにランナーを送ろう。
多くのランナーを送ろう。
ランナーとは、郵便を届けてくれる者、
電話を鳴らす者、
囁(ささや)きかけてくる者、
そして私が授けた哲学をあなたの真実として成就させてくれる者たちのことである。」

私たちは、何人のランナーに出会ったことに気付けるでしょうか・・・・

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